2017年5月1日月曜日

片付けられる人のパターン3つ

イケハヤ氏の文章としては、久しぶりに、まあ、そのとおりだと思った文章。
「片付けられない人は、捨てられないから」は、外見上の現象としては、そのとおりだと思うのだけれど、たぶん、もう少し、根本的な問題。
実のところ、「捨てられない」人は、結局のところ、自分にとって、必要なものとそれほど必要でないものを見分けられないから、捨てられないのだと思っています。
必要なものとそうでないものを見分けられるためには、当たり前ですけれど、これから、どういう生活をするのかの見通しがかなりはっきりしている必要性があります。これから何をするのか決まっていなければ、これからの生活に必要なものなんてわからないのです。
片付けられる人は、つまるところ、今後、自分が、どういう生活をするのか、自分なりの見通しが分かる人なのです。
で、私の見るところ、先の生活の見通しが分かる(分かるつもりになる)には、幾つかのパターンがあります。私は、「保守的パターン」「ワガママパターン」「追随者パターン」くらいに分類しています。

1,保守的パターン:ずっと、同じような生活を続けるという人です。
長期に渡って、だいたい同じような生活をしていて、この先も、だいたい同じような生活をするだろうと想像できるという人は先の生活の見通しが立ちます。そういうわけなので、たとえば、サラリーマンの家族の人は、だいたい、自営業者(あるいは自由業)の人の家族に比べて、片付けるのが上手になります。それは、本人の生得的な片付け能力というより、サラリーマンの人生のほうが、波風が少ないということなのだと思います。

2,ワガママパターン:自分が、これからの数年の間、何をしたいか、ビジョンが明確な人は、片付けるのが上手になります。
大抵は、ビジョンが明確なのは、良いことです。所詮、自分の人生ですからね。でも、ビジョンが明確というのは、必ずしも良いことばっかりというわけではありません。どうにもならない馬鹿馬鹿しいビジョンとか、単なるワガママを掲げて自滅する人だって、世の中には多いのです。ま、たとえ、無謀なビジョンであれ、あるいは単なるワガママであれ、「自分は、これをしたいんだから、これは不要」なんて決める力がある人は、必然的に片付け上手になります。なので、ブログのネタを書くためにいきなり四国に移住してしまうようなタイプの人が片付け上手になるのは、当然です。

3,追随者パターン:要するに、ああいう人になりたいとか、ああいうふうになるだろうっていう明確なモデルがいるという人です。
自分も、代々続いた家業を継いだ人などで、自分の親と同じような人生を歩むだろうと漠然と思っている人や、尊敬している上司や先生、芸能人がいて、その真似をしている人なんかは、必然的に片付け上手になります。たとえば、マイケル・ジャクソンみたいになりたいとか、スティーブ・ジョブズみたいになりたいと、日々、強く願っているような人は、自分の部屋のインテリアの中で、マイケルやジョブズだったら持たないだろうものは捨ててしまいます。そういう人は、ファッションにも、部屋のレイアウトにも、ほぼ、明確なあるべきイメージがあるので、片付け上手になります。

そういうわけで、たとえば、病気の療養中で、この先、どれくらい治療に時間がかかるかよくわからないとか、就職活動中の学生で、これから、どこのどういう企業に勤めることになるか予想がつかないとか、あるいは、いきなり夫の都合で四国の限界集落に引っ越すことになった女性とか、そういう人は、まあ、みなさん、先が見通せない人生の真っ只中にいるわけで、片付けが上手になるのは、まあ、無理とまでは言いませんが、なかなか、難しいのではないかと思うわけです。

2017年3月23日木曜日

最近の流行のマインドフルネスについてもにょもにょ

数日前、cocokuriというサイトを見て、なんだか、ああ、またかとおもってしまったので、ちょっと、書いてみます。
何かというと、これ、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスとか言って、企業とお坊さんが組んで、何か新しいデバイスを使ったセミナーとか教育プログラムとか、そういうビジネスする。そういう種類の話なんですね。最近、似た話はいっぱい聞くので、別段珍しい話でもありません。

なので、なにも、このサイトに限った話じゃないんですけれど、最近流行の、この種の「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」って、本来のマインドフルネスと、だんだん違ってきているんじゃないかと思うんですよ。その辺に無自覚な人が多いようにみえるのが、私は少し気になっています。

私の考えでは、「本来のマインドフルネス」と「ビジネス版マインドフルネス」は、目的も、方法も、お互いに随分違うメソッドです。

マインドフルネスっていうのは、もともと仏教の修行法だったものを心理学のメソッドとして取り出してきたものです。この、もともとの仏教のコアのアイデアっていうのは、私は、「自分の感情や周囲の状況がポジティブかネガティブかということと、人間の幸福か不幸かは、それぞれ独立した問題である」というコンセプトなのだとおもっています。つまり、嫌なことがあったり、落ち込んでいたりネガティブな気持ちであっても、幸せになれるし、逆に、幸せになったからといって、ネガティブな気持ちがなくなるわけではない、というわけですね。

自分の感情がネガティブでもポジティブでも、同じように幸せであることができる、というのは、普通の我々の常識とはかなり異なる、わかりにくい考え方です。
で、「本来のマインドフルネス」では、そのわかりにくい考え方を理解させるために、「自分の感情や感じ方を、評価をせず、単に観察する」プログラムをさせるわけです。自分の感情を距離を置いて観察することで、感情が落ち込んだり、思いどおりにならないことがあっても、短絡的に不幸せだと感じにくくなる。そういうプログラムなんだとおもっています。

マインドフルネスでは、自分を観察すること時代も大事なんですが、そのときに、観察してわかったことを、自分にとって良いものだとか悪いものだとか、短絡的に評価するのをストップさせとかなくちゃいけません。
ブルース・リーみたいですが、「Do not think. Feeeel.」ってわけですね。
自分に湧き上がってくる感情を、ネガティブなものもポジティブなものも、それが良いものだとか悪いものだとか短絡的に考えないで、感情から距離を置いて観察する。そうすることで、感情と幸不幸は別問題だと体感していくわけです。
自分の体やこころに起こっていることを、すぐに自分のモノサシで評価しない。それが大事なわけですよ。
で、そういうプログラムが、メンタルのトラブルにたいして、そこそこの効果があるというのは、少しずつ、エビデンスが揃いつつあります。

それに対して、多くの「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」でやっているのは、「本来のマインドフルネス」ではなくて「見える化」です。デバイスを使って自分のデータを観察できるようにして、それを制御する。自分のデータを記録して制御するという意味では、少し前に流行ったレコーディングダイエットとか、ああいうものにも近いかもしれません。
制御するのですから当然ですが、「見える化」した自分のデータは、自分のモノサシでアセスメントされるのです。つまり、ブルース・リーじゃありません。

cocokuriのメソッドでは、自分の集中力を見えるようにして、自分の集中力を高める訓練をしたり、仲間同士で、お互いの集中力を見せ合ったり、集中力の競争をやったりするそうです。それは、たしかに集中力を高めるには有効な方法なのかもしれませんけれど、もともとのマインドフルネスが目指しているものとは、全然違うものだと思うわけです。

私としては、こういう話に、日本仏教のお坊さんたちがたくさん乗っかっているのが、引っかかります。
日本仏教をはじめとする大乗仏教の教義というのも、多くは、私の理解では、マインドフルネスがやっているような「自分の感情と、幸不幸かは、それぞれ独立した問題である」ということを理解させるために作られた概念群です。
たとえば、「空観」というのは、自分の内部の感情も自分の外部の事件も「空」、つまり、実態のないものだと考えることで、自分の外部の事件も、自分の内部の感情も、自分の幸福とは、直接関係ないのだと認識させるカリキュラムです。
「空」なんて理解したところで、相変わらず、悲しいことや辛いこともあるだろうけれど、それを理解したら、そういうことにも関わらず安心していることができる、かもしれない。いや、できないかもしれないけれど、多少は、そういう悲しい事件や悲しい感情から距離を置いて物事を考えることができるようになる。

少し話がずれますが、「空」というのは、そういう仮設の概念ですから、「空」を科学的に証明するだの何だの、たとえば、空と現代物理学の何かの概念が似ているとか言うのは、ほとんど意味がないと思います。ときどき、そういうこと言う人いますけれどね。
もし、「空」を科学的に証明するというのなら、マインドフルネスと同様に、疫学的な方法で空という概念が我々に与える影響のエビデンスを求めるほうが、ずっとスジが良いと思います。
たとえば、なにかのメンタル疾患のある人を2グループにわけて、一方には、空について法話を聞かせて、もう一方には、そんな法話を聞かせないでおいて、それ以外の点では、両者全く同じ治療を受けさせて、その上で、その疾患の症状に違いが出てくるかどうか調べる。
そんな感じの研究をやってみたらいいのではないでしょうか

他の大乗仏教の概念や菩薩や仏、例えば、唯識だの観世音だの浄土だの、久遠の釈迦仏だの阿弥陀仏だの、もし、それを「科学的に証明する」というならば、たぶん、同じような実験をすることができるでしょう。
個人的な見解ですが、たぶん、そういう実験をしてみれば、かなりポジティブな結果が出るんじゃないかと推測しています。
私は、こういう実験のほうが、なんか、お坊さんがインチキくさい物理学者くずれと対話するようなイベントなんかよりも、ずっと価値があるだろうと思います。
そういう実験だけで教義の価値を測定できるとは思いませんが、たぶん、科学と宗教の接点としては、大事なポイントになるのじゃないかと思います。

話をもとに戻して、私としては、大乗仏教のこういう概念群の効用は、基本的に「本来のマインドフルネス」とは相性が良いと思うのですが、「ビジネス版マインドフルネス」とは、あまり相性が良くないと思います。

というわけで。ええと、私、お坊さんがいっぱい乗っかっているビジネス版マインドフルネス的な話を見ると、なんか、いろんなモニョモニョを感じちゃうのです。

モニョモニョ。

2017年3月16日木曜日

ロジカルエア

先日、文房具屋さんでロジカルエアというノートを見つけてきて、それから、このノートにハマっている。
1,紙が工夫されていて軽いこと。
2,罫、つまりラインや方眼の形が工夫されていて、文字でも、グラフや表でもきれいに書きやすくなっていること。
の2つが特徴のノートだ。

仕事用に、いつもノートを何冊かバッグにいれて持ち運ぶ私としては、ノートが少しでも軽いのは嬉しい。

罫線については、少し前に流行した、コクヨの東大式ノート(ドット入り罫線ノート)と似たような工夫なんだけれど、横罫線を3頭分する形で横ドット線が入っているのが新しい。文字の大きさの緩急をつけたり、英文や数式と和文を混ぜて書いてもきれいに書けるのが嬉しい。

今使っているノートを全部これに変えたいくらい、このノートにハマっている。

で、ひとつ、これを作っているナカバヤシにお願いなんですが、このロジカルエアのシリーズで、A6サイズ(文庫サイズ)で、100枚(200ページ)くらいのノート、作ってくれませんかね。
何に使うのかというと、ダイアリー用です。ほぼ日手帳のカバーにリフィルの代わりに入れたら便利だとおもっているのです。
結構、ニーズあるんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう。

2017年3月12日日曜日

医学関連のオントロジー

医学関連のオントロジーを探していたのですが、最近、私の目的には、これが一番いいかな、と思っています。
備忘的に、リンクをメモ
diseases database
症状や検査、病名などのつながりが明確なルールで定義されているので、コンピュータで解析させるのにちょうどいいかもしれません。

2017年1月26日木曜日

Android上で、ウェブ系開発をするためのワタシ的な設定。

少し前まで、Linuxを入れたノートパソコンを持ち歩いて仕事していたのですが、最近、ノートパソコンの代わりにAndroidタブレットを使うようになりました。
電車の中とか布団の中とかでゴニョゴニョと仕事できるので、ノートパソコンよりも都合が良いことが多いです。
なんですけれど、私、いくつか、ウェブ関連の開発の仕事をしているので、全面的にタブレットに移行するならば、やはり、タブレット上でウェブ系の開発環境を作りたいのですね。

そういうわけで、タブレット上にウェブ系の開発環境を作ろうと、これまでにも何度かトライしてきたのですが、やっと、最近になって、そこそこ使える環境が揃ったように思います。

というわけで、現在の環境のメモです。

1, KSWeb
Premium Lisenceにしました。
Standardでもいいのかもしれないけれど、一応。

2, MGit
KSWebのhtdocsをリポジトリのrootに設定する。

3,エディタ。
Jota+とAWDを入れた。Jota+をメインに使う。

5, Tremux
Androidで、Unix的なターミナルを使うためのアプリはいくつか出ているけれど、現時点では、一番良いチョイス。
aptが使えるのが評価高い。
ただし、やむを得ない理由により、Pathが少し変。
もし、PHPを使うなら、composer-termuxも入れておこう。

6, ATOK
フリックに慣れているなら、いちいち、物理キーボードを持ち歩くよりも、UIが工夫されたソフトウェアキーボードを導入して物理キーボードの代用にしたほうが良い。
portraitならATOKかiWnnがおすすめ。もし、フリックに慣れていないならば、日本語入力をほとんどしないlandscapeで使うことが多い人に限りhackers keyboardがおすすめ。

ATOKなら、フリック入力の設定で、使用するテンキーはひらがな+英字に、また、英字キーフリックで、8のキーフリックで;(セミコロン)に、それぞれ設定しておくのが、コーディングには良いと思う。

7,それ以外に入れたアプリとか。
a, PrintSmash(ファミマでプリントするためのアプリ)
b, Cobuild Intermediate English Dictionary(英英辞典、英英辞典の中では、私は一番好き。英文を書く人にはおすすめ)
c, Keep(グーグル謹製のメモアプリ)
d, Kindle
e, あと、個人的な趣味のアプリ。Chess Tactics Proとか将皇とか虫姫さまとか。

2016年7月19日火曜日

合同会社やさしさと医療のソフトウェアの研究室

すでにご存じの方も多いと思いますが、私、今月はじめ、「合同会社やさしさと医療のソフトウェアの研究室」を設立しました。

まだ、会社紹介のウェブページなども作っていないのですが、一応、ご報告まで。

この会社ですが、「人をやさしくするための医療のアドバイスを提供するソフトウェアを作る」ことを目標にする会社です。

自分の家族や友人が痛みや辛さに苦しんでいる時、ちょっとした医療の知識があれば、もっと、苦しんでいる人に優しくなれる。反対に、ちょっとした知識がないために、痛みに耐えている人に自信を持って対応できず、そのため、つい、辛く当たってしまう。

私は、それほどいい医者ではありませんが、医者をやってきて、そういう場面をたくさん見てきました。

ですので、我々が、もう少し、我々の周囲で痛みに耐えている人にやさしくなれるために、ちょっとした医療の知識をアドバイスをするソフトウェアを作ろうと考えたのです。

この新会社は、そのための会社です。

目標は、このように壮大なんですけれど、とりあえず、この会社の当面の業務は、私がこれまで個人で引き受けてきた医療や健康絡みのソフトウェアの開発や保守の仕事の一部を引き継ぐこと、それから、委託の開発の仕事を引き受けることになると思います。

みなさま、よろしくお願いします。

特に、私にお仕事を依頼してみようかと考えてくださっているみなさま、よろしくお願いします。

2016年7月2日土曜日

石田智秀さんの著作について

昨年11月、友人の僧侶の石田智秀さんが「浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない 」という本を書きました。電子書籍なのですが本当に良い本です。石田さんは、浄土真宗の僧侶なのですが、今回の本は、浄土真宗の「信心」について、石田さんが法話でお話した内容をまとめて書籍にしたものです。
法話という言葉からイメージされる堅苦しいものではなくて、なんというか、若々しく青臭く悩む石田さん自身のお坊さんになるまでの青春ストーリーを信心というテーマでまとめた本です。
北海道のお寺で、お寺の跡継ぎとして育てられた石田少年は、成長するにつれ、自分のお寺の宗旨である浄土真宗の教義が分からないと感じるようになります。とくに、その教義の中で大事だとされている「信心」という言葉がさっぱりわからないのです。しかし、お坊さんになれば、自分の宗旨について分からないなんていえません。分からなくても、お坊さんであれば、立場上、自分の宗派の教えくらい分かったふりをしなくてはならない。自分で分かりもしない教えを大事にしているふりをしなくてはならない。そんなお坊さんになることが嫌な石田少年は、やがて、お坊さんではなくジャーナリストになりたいという夢を持つようになり、上京。早稲田大学に入学します。しかし、ジャーナリストになるはずだった上京後の石田少年の関心は徐々に変化していき、悩み、そして、やがて、あるきっかけで、むかしわからなかった浄土真宗の教義の意味に気づくのです。

実は、私、出版の前に、石田さんからこの本の原稿を見せられ、意見を聞かれました。
一読して、浄土真宗の信心のわかりにくいところをわかりやすく説明している良い話だったと思ったのですが、これを電子書籍で一般に売ると聞いて、正直、少し、困惑しました
というのは、これまで浄土真宗の教理に触れたことのない人には、この青春のストーリーを読んでも、石田少年が何を悩んでいるか分かりにくいのではないかと思ったのです。

そこで、石田さんに、言いました。
この本は、どのような人を対象に書いたのでしょうか?「私」(*作中の石田さんのことです)と同じように、何度も子供の頃から信心について聞いているのに、信心がわからないと悩んでいる人でしょうか?それとも、もう少し広く、子供の頃から「私」ほどには法話も聞いておらず、真宗の「他力の信心」を日本語の日常語で言うところの「信じる」ことと同じようなものと誤解している人たちでしょうか?
前者の人をターゲットにしているつもりであれば、以下、気にされなくて結構です。ですが、おそらく、kindleで出せば、後者の読者の方がずっと多いと思います。そして、残念ながら、後者の人の多くには、若い「私」が何に悩んでいるのか、よくわからないのではないかと思います。そういうひとのために、子供の頃からの「私」が信心とは何だと聞いてきたか、そしてそれは世間で言う信心とはどう違うか、文章の初め頃、4ページ辺りか、あるいは、文章の半ばほど、8〜9ページあたりで、一度まとめられてはいかがでしょうか?
真宗の信心というのは、世間で、普通に考えられているような意味での「信じる」こととは、随分違います。
世間では、占いやおまじないなど、科学的に証明できないことや不思議なこと、よくわからないことなどを信じたり、そういう物の価値を認めることを「信心」と言うことが多いです。原稿中で、占い好きの女性が出てきますが、当然、そういう人は、自分で好きで選んで、そういうものを大切にする人生を歩んでいるのです。あるいは、強い「信心」を得るために、山の中で修行したり、断食したりする人もいます。また、宗教を、道徳などと似たようなものと思っている人も多いです。そういう人は、たとえば、国や公共のものや伝統を大切にする心とか、親や目上の人に対する尊敬の心とか、「信心」をそういうものに近い「良い」ことと思っています(もちろん、信心は、「わるい」ことではないのですが)。
キリスト教などの「信仰」や、最近流行りのマインドフルネスは、これらに比べると真宗の「信心」に近いと思いますが、これらは、普通の日本人には異文化であり縁の遠い概念です。そして、世間でいう「信じること」が「信心」だといままで聞かされてきた人、つまりは普通の日本人の多くには、「私」が何に悩んでいたのか共感できるための基礎知識がないのではないかと思うのです。
「私」が、浄土真宗のお寺の跡継ぎとして生まれて、しかし、お寺の宗旨である浄土真宗を信じられなくて、それで悩んでいるというのは、おそらく、皆にわかるでしょう。でも、「私」が、信心とはなにかわからなくて悩んでいるというのは、かなり分りにくいのではないかと思うのです。なぜなら、そういう読者にとって、「信心」といえば、なにか道徳的なことや神秘的なことを信じることに決まっているからです。
「信じるというのは、要するに、そういう曖昧だけれど大切なことを一生懸命自分に言い聞かせて信じこむことに決まっているではないか、それがどういうことかわからんというのは、何やら難しい哲学を語っているように見せかけて、要するに、お寺のお坊ちゃんのワガママであろう。正座するのが嫌だったり、辛気臭い葬式が嫌だったりするのだろう。若いうちは、そういうものだからな。それを我慢するのが信心ではないか。伝統を大切にする心ではないか。」
そういう感覚の人は、たぶんものすごく多いのです。
今から読み返すと、随分、失礼なことを書き連ねています(石田さん、本当にすみませんでした)。石田さん、えらく気にされたようで、ほぼ出来上がった原稿を、また書き直しさせる羽目になってしまいました。
上で書いたように、浄土真宗では「信心」というものを非常に大事にするのですが、この宗派で言う「信心」というのは、世間一般で言う「信じる」とか「信心」という言葉とは、少し、意味合いが異なります。
普通の現代語では、「信心」という言葉は、なにか、神様とか仏様とか占いとかなんでもよいのだけれど、そういった、神秘的でよくわからないけれど大きな力を持った「ハイアーパワー的なもの」の存在を信じるという意味合いで使われます。しかし、浄土真宗では、信心という言葉に、そういう意味合いはあまりないのです。
これは、なにも、浄土真宗が宗派独自の特殊な言葉遣いをしているからというわけではありません。私は、実は、この、「信心」という言葉の誤解は、浄土真宗にかぎらず、ほとんどの日本仏教の宗派につきまとう問題ではないかと思っています。日本仏教の多くの宗派は、平安時代から鎌倉時代のお坊さんたちが見出した教えです。当然、その教えは、平安~鎌倉時代の語彙で書かれています。鎌倉時代には、それらの言葉は、多くの人にわかりやすい普通の言葉だったのかもしれません。しかし、言葉は生き物です。おそらく、長い時間をかけて、多くの言葉の意味が変わってしまったのでしょう。当時の言語での「信」という言葉の意味と、現代語の「信じる」という言葉の意味に大きなズレがあるのです。(**)

では、仏教における、「信心」というのは、どういう意味なのでしょうか?

それは、この本を読んでください。

残念ながら、この本を読んでも、信心の意味は、今ひとつ分からないかもしれません。この本は非常にわかりやすい良い本ですが、それでも、信心というのは、誤解されやすく、わかりにくい概念です。多くの人にとっては信心ということの意味が分かるには、「え?そんな簡単なことなの?」みたいな一種の気付きのような体験だと思います。

でも、たとえ、信心の意味がわからなくても、この私の拙い文章をここまで読んでくれた人ならば、この本は、まず、読んで後悔はしません。石田さんの文章は、軽妙なリズムで楽しく、私などの文章よりずっとわかりやすい文章ですから。

おすすめの一冊です。

(**)個人的には、「信心」という誤解されやすい言葉を使う代わりに、もっと現代人に誤解されにくい現代語の訳語を当てるべきではないかとは思います。たとえば、同じ概念を表すのに、「気づき」とか「きれいな心」というのはどうでしょうか。