2017年3月23日木曜日

最近の流行のマインドフルネスについてもにょもにょ

数日前、cocokuriというサイトを見て、なんだか、ああ、またかとおもってしまったので、ちょっと、書いてみます。
何かというと、これ、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスとか言って、企業とお坊さんが組んで、何か新しいデバイスを使ったセミナーとか教育プログラムとか、そういうビジネスする。そういう種類の話なんですね。最近、似た話はいっぱい聞くので、別段珍しい話でもありません。

なので、なにも、このサイトに限った話じゃないんですけれど、最近流行の、この種の「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」って、本来のマインドフルネスと、だんだん違ってきているんじゃないかと思うんですよ。その辺に無自覚な人が多いようにみえるのが、私は少し気になっています。

私の考えでは、「本来のマインドフルネス」と「ビジネス版マインドフルネス」は、目的も、方法も、お互いに随分違うメソッドです。

マインドフルネスっていうのは、もともと仏教の修行法だったものを心理学のメソッドとして取り出してきたものです。この、もともとの仏教のコアのアイデアっていうのは、私は、「自分の感情や周囲の状況がポジティブかネガティブかということと、人間の幸福か不幸かは、それぞれ独立した問題である」というコンセプトなのだとおもっています。つまり、嫌なことがあったり、落ち込んでいたりネガティブな気持ちであっても、幸せになれるし、逆に、幸せになったからといって、ネガティブな気持ちがなくなるわけではない、というわけですね。

自分の感情がネガティブでもポジティブでも、同じように幸せであることができる、というのは、普通の我々の常識とはかなり異なる、わかりにくい考え方です。
で、「本来のマインドフルネス」では、そのわかりにくい考え方を理解させるために、「自分の感情や感じ方を、評価をせず、単に観察する」プログラムをさせるわけです。自分の感情を距離を置いて観察することで、感情が落ち込んだり、思いどおりにならないことがあっても、短絡的に不幸せだと感じにくくなる。そういうプログラムなんだとおもっています。

マインドフルネスでは、自分を観察すること時代も大事なんですが、そのときに、観察してわかったことを、自分にとって良いものだとか悪いものだとか、短絡的に評価するのをストップさせとかなくちゃいけません。
ブルース・リーみたいですが、「Do not think. Feeeel.」ってわけですね。
自分に湧き上がってくる感情を、ネガティブなものもポジティブなものも、それが良いものだとか悪いものだとか短絡的に考えないで、感情から距離を置いて観察する。そうすることで、感情と幸不幸は別問題だと体感していくわけです。
自分の体やこころに起こっていることを、すぐに自分のモノサシで評価しない。それが大事なわけですよ。
で、そういうプログラムが、メンタルのトラブルにたいして、そこそこの効果があるというのは、少しずつ、エビデンスが揃いつつあります。

それに対して、多くの「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」でやっているのは、「本来のマインドフルネス」ではなくて「見える化」です。デバイスを使って自分のデータを観察できるようにして、それを制御する。自分のデータを記録して制御するという意味では、少し前に流行ったレコーディングダイエットとか、ああいうものにも近いかもしれません。
制御するのですから当然ですが、「見える化」した自分のデータは、自分のモノサシでアセスメントされるのです。つまり、ブルース・リーじゃありません。

cocokuriのメソッドでは、自分の集中力を見えるようにして、自分の集中力を高める訓練をしたり、仲間同士で、お互いの集中力を見せ合ったり、集中力の競争をやったりするそうです。それは、たしかに集中力を高めるには有効な方法なのかもしれませんけれど、もともとのマインドフルネスが目指しているものとは、全然違うものだと思うわけです。

私としては、こういう話に、日本仏教のお坊さんたちがたくさん乗っかっているのが、引っかかります。
日本仏教をはじめとする大乗仏教の教義というのも、多くは、私の理解では、マインドフルネスがやっているような「自分の感情と、幸不幸かは、それぞれ独立した問題である」ということを理解させるために作られた概念群です。
たとえば、「空観」というのは、自分の内部の感情も自分の外部の事件も「空」、つまり、実態のないものだと考えることで、自分の外部の事件も、自分の内部の感情も、自分の幸福とは、直接関係ないのだと認識させるカリキュラムです。
「空」なんて理解したところで、相変わらず、悲しいことや辛いこともあるだろうけれど、それを理解したら、そういうことにも関わらず安心していることができる、かもしれない。いや、できないかもしれないけれど、多少は、そういう悲しい事件や悲しい感情から距離を置いて物事を考えることができるようになる。

少し話がずれますが、「空」というのは、そういう仮設の概念ですから、「空」を科学的に証明するだの何だの、たとえば、空と現代物理学の何かの概念が似ているとか言うのは、ほとんど意味がないと思います。ときどき、そういうこと言う人いますけれどね。
もし、「空」を科学的に証明するというのなら、マインドフルネスと同様に、疫学的な方法で空という概念が我々に与える影響のエビデンスを求めるほうが、ずっとスジが良いと思います。
たとえば、なにかのメンタル疾患のある人を2グループにわけて、一方には、空について法話を聞かせて、もう一方には、そんな法話を聞かせないでおいて、それ以外の点では、両者全く同じ治療を受けさせて、その上で、その疾患の症状に違いが出てくるかどうか調べる。
そんな感じの研究をやってみたらいいのではないでしょうか

他の大乗仏教の概念や菩薩や仏、例えば、唯識だの観世音だの浄土だの、久遠の釈迦仏だの阿弥陀仏だの、もし、それを「科学的に証明する」というならば、たぶん、同じような実験をすることができるでしょう。
個人的な見解ですが、たぶん、そういう実験をしてみれば、かなりポジティブな結果が出るんじゃないかと推測しています。
私は、こういう実験のほうが、なんか、お坊さんがインチキくさい物理学者くずれと対話するようなイベントなんかよりも、ずっと価値があるだろうと思います。
そういう実験だけで教義の価値を測定できるとは思いませんが、たぶん、科学と宗教の接点としては、大事なポイントになるのじゃないかと思います。

話をもとに戻して、私としては、大乗仏教のこういう概念群の効用は、基本的に「本来のマインドフルネス」とは相性が良いと思うのですが、「ビジネス版マインドフルネス」とは、あまり相性が良くないと思います。

というわけで。ええと、私、お坊さんがいっぱい乗っかっているビジネス版マインドフルネス的な話を見ると、なんか、いろんなモニョモニョを感じちゃうのです。

モニョモニョ。

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