2014年4月28日月曜日
cakephpとruby on railsの比較
理由は、Ruby(ruby on rails)で作ったものは、手離れ(つまり、自分が作ったもののメンテナンスや運用を自分でやらないこと)が難しいことが多いからです。
どうしても、運用の細かなノウハウみたいなものが必要になることが多いruby on railsに比べて、とりあえず、パッケージからApacheをインストールしたらデフォルトで使えたり、ほとんどのレンタルサーバーで普通にサポートしてくれていたり、というPHPは、自分が将来も運用に関わりたいというわけでないプロジェクトには便利です。
フレームワークは、これまでRails使ってたんですが、今は、フレームワークも使ってません。
でも、なんかフレームワーク使ったら便利かもな、と思って、最近、CakePHP勉強しようと思い立ちました。
で、なんとなくCakePHPって、Railsに似た、PHP版のRailsみたいなもんだと思っていたんですが、ずいぶんちがうんですね。
以下は、Railsに頭が慣れた僕が、現在、CakePHPにびっくりしているところです。
1,controllerでGETメソッドとPOSTメソッドで分岐したりすることがある。
Rails的には、普通は、URLやリクエストのメソッドから、controllerのメソッドにマップするのは、routingの仕事です。controllerは、modelを操作して、viewを表示するだけです。ところが、CakePHPでは、controllerのメソッドの中に、HTTPメソッドごとに分岐するようなコードを書いてあるサンプルが時々あるようです。routingでメソッドごとに分岐させることができるのかできないのかは、まだ調べていません。もし、routingでメソッドごとに分岐することができるのにそうしないんだとしたら、CakePHPの仕様というよりも、PHPの人のコーディングの習慣ってことになるんでしょうね。routingみたいなことまでcontrollerに書いちゃうと、少々fatなcontrollerになっちゃいませんかね。
2,modelは、オブジェクトじゃなくて、配列である。
いや、モデルオブジェクトってのはあるんですが、とにかく、配列で返ってくるってのがびっくりしました。
3,URLがRESTじゃない。
これも、どっちかというと習慣ですね。railsの世界では、URLは、RESTfulにするのが普通なんですけれど、こっちでは、あんまりそういうところにこだわらないコードが多いみたい。
これなら、あんまり複雑なことしないなら、別にフレームワーク使わなくても、プレーンなPHPで書けばいいじゃんって気がします。
私は石屋ではない(Scanaduについての雑感)
スタートレックシリーズに出てくる医者は、だいたい、そこそこ器用でいろんなことができるキャラクターおのて
さて、ずいぶん前の記事ですが、こういうのみつけました。
Scanaduという会社の製品ですね。
昨年6月のgismodoの記事を見ると、今年3月発売予定だったようですが、ページを見る限り、まだ発売していないようです。
この会社のイメージ動画みたいなのがYoutubeにありますね。
これを見ると、いろんな生体情報を取り込んだり、写真をとったりして、それを元に簡単な診断を下したり、どのようにすればいいのかアドバイスしてくれたりするようです。
この会社は、要するに、スタートレックシリーズに出てくる医療用トリコーダーみたいなイメージの製品を作りたいようです。
トリコーダーというのは、スタートレックシリーズに出てくる、宇宙艦隊の官給品のポータブル万能科学探知機のようなもので、科学調査用と医療用があります。初代シリーズでは、科学調査用のほうはミスタースポックが、医療用はドクターマッコイが使っていました。後者には、自動診断機能のようなものがついていて、プローブを患者に当てれば、その健康状態や、考えられる病気などを表示してくれ、食べ物などに当てれば、その毒性や、含まれる栄養、細菌などを表示してくれます。
昔、スタートレックを見て、あのトリコーダーがあれば、勉強しなくても医者ができるのになぁ、と思っていたことを覚えています。
さて、技術的には、このビデオでやっていることのほとんどはそれほど難しくありません。一般消費者に売るレベルではともかく、研究室レベルであれば、たくさんの先行事例があります。
以下、少し気になった点をふたつ。
1,スマートフォンの写真による発疹の診断。
ビデオの中に、ユーザーがスマートフォンのようなものでとった写真をScanaduで読み込むと、その写真から、Scanaduが発疹の種類や原因、対応を診断するシーンがありました。それを見て、これは本当に可能なのかな、と思いました。
典型的な発疹であれば、写真から、ソフトウェアのパターン認識で自動的に診断することは、現在でも十分に可能です。問題は、素人であるユーザーが写真に納める部分が、必ずしも、その発疹の典型的な部分ではない、ということではないかと思います。
僕は、子供の発疹については、できるだけ、その場で携帯電話で写真をとっておいて、受診時に見せてくれるように親に指導しています。
子供の皮膚の症状について心配する親は多いです。それに、子供に多い感染症では、皮膚の症状は、病気の診断の重要な手がかりになることも多いのです。しかし、しばしば、その種の発疹は短時間で消えてしまいます、そうなると、医師は診察時にそれを見ることができません。そんなとき、親に、発疹の形や色などについて思い出しながら口頭で説明してもらうよりは、写真でもとっておいてもらったほうが、どのような発疹があったのかについて、ずっと正確に理解することができます。
でも、僕の経験からすると、写真をとってもらっても、しばしば、医学の素人である親が心配して写真にとってくれるものと、医学的に重要なものは一致しないのですね。Scanaduにみせるための適切な写真を自分でとれる患者は、案外少ないのではないかと思います。
2,消費者は「機械の間違い」を許容できるか。
あたりまえのことですが、他の多くの分野での難しい意思決定と同様、診断など医療の意思決定でも、一定の確率で間違いが発生します。つまり「誤診」です。
機械の自動診断も間違えることがあります。
もちろん、人間の医師だってしょっちゅう間違えますし、ソフトウェアによる自動診断は、分野によっては相当に進んでいて、今では人間の医師よりも正確な診断をできることもあります。つまり、機械による自動診断は、正確さにおいて、それほど人間の医者に劣っているわけではありません。
しかし、それでも、一定の確率で、間違えるのです。
僕は、現在の一般消費者は、あまり「家電製品」がしょっちゅう間違える、ということに慣れていないのではないかと思います。
「家電製品に搭載されたソフトウェアだって人間と同様、一定の確率で間違えるかもしれない。でも、それでもこの製品は、健康のためにアドバイスしてくれる便利なシロモノなんだ。」と一般ユーザーが自動診断機を受けいれてくれる日は、きっと将来来ると思います。でも、その前には、いろんなハードルがある気がするのです。
さて、懸念材料をいくつか挙げましたが、それでも、僕は、スタートレックのトリコーダーのような機械が過程に普及しているような未来を信じています。
ドクターマッコイはドアストッパーでもエンジニアでも車掌でも石屋でもないぞ。
2014年4月14日月曜日
STAP細胞騒動と科学の時代の終わり
医学部卒のビジネスマンが増えたという話と就活生の格差の話。
昔から、医学部を出たけれど自分は医者に向かないと思う人で、大学の、医学や生物学の研究者になったり、厚労省の官僚(医系技官)になったり、そういうのは結構いました。でも、医学部の新卒で、それ以外の一般の企業に就職していく人はほとんどいませんでした。
医者というのは、かなり変わった仕事、というか、普通のサラリーマンとは異なる態度や考え方や行動を求められる仕事です。必然的に、医者に向いた性格、向かない性格というのは、かなりクリアにわかれます。医者に向いていて、すごく生き生きと仕事をしている医者も多いのですが、その一方で、頭は良くて、人当たりもいいのだけれど、どうしても医者向きでない人というのも、結構多いのです。
先に書いたように、昔から、そういう、医者に向かない医師免許保有者の受け皿になっていたのは、研究者や官僚でした。でも、研究者や官僚だって、実は、かなり向き不向きのある特殊な仕事です。
ですから、医者にも、大学教授にも、官僚にも向かないけれど、そこそこ頭は良くて、ビジネスマンとしてはそこそこ優秀そうな人、というのは、結構いるのです。そういう彼らが一般企業に就職しなかったのは、たんに、医学部出身者には、そういうレールがなかったからです。そういう人が大学や病院でイライラしながらくすぶっているのを見るたびに、僕は、残念な気持ちになっていました。
普通のビジネスマンになっていく医学部卒業生が前より増えてきたんだと僕が気がついたのは、ここ数年のことです。たぶん、実際にこの動きが始まったのは、もう少し前、ここ10年くらいのことだと思います。僕は、最近、大学医学部を卒業して、でも医者にはならなかった人たちを何人も知っています。そのほとんどは、なぜ自分が医者にならなかったか、うまく言語化できていないようです(上のリンク先の著者もうまく説明できていませんね)が、つまるところ、自分には、医療現場だけでは満たされない部分があるのだと言っているわけです。彼らは、医者にならなかった後は、ほとんどがそれなりの就職をして、医者以外の職場でイキイキと働けているようです。彼らの多くはリスクを取ることを恐れません。なぜなら、仮にリスクをとって失敗してクビになったって、最悪、医者に戻ればいいと思っているからです。こういう態度は、一般の医者の仕事をすこし過小評価しているように思えてムカつきますが、この点では、医学部出身の基礎医学研究者の多くも、同じようなものだとも思います。
医学部出身で、一般企業に就職したいという人のニーズは昔からありました。それなのに、ごく最近になって一般企業就職者が増えた背景には、僕は、ウェブでエントリーできる「就活サイト」の普及があると思っています。
ウェブが普及した現在の就職活動の現場では、人気企業はどれも異常な高倍率で、企業は、志望者全員を慎重にチェックするわけに行かなくなっています。自然、学歴や資格などで「足切り」することが多くなります。就活生の多くも、何度も落とされて疲労し、「誰も得をしない状況」などと言われているようです。
しかし、高倍率というのは、見方を変えますと、これまで、就活に参加していなかった就活生が競争に参加するようになってきたということでもあります。
少し前まで、医学部出身者が一般企業を受けるときの一番のハンディキャップは、周囲が、(あたりまえのことですが)医者志望の学生ばかりで、一般企業の就職活動をしている友人がほとんどいなかったということでした。いまでは、周囲にそういった友人が少なくても、相手企業についての情報は、すこし努力すればインターネットなどで得られるようになってきましたし、エントリーも簡単にできるようになりました。
批判の多い現在の就活ですが、一定以上の高学歴の人にとっては、人生の大きな方向転換が簡単にできるようになったというメリットがあるのだと思います。僕は、そういう方向転換をスムーズにこなして、別の分野のエリートになっていく医学生を見ていて、これは必ずしも悪いことではないな、と思っています。
少なくとも、この流れを逆転させることは難しいでしょう。元々満たされていなかったニーズが、ウェブによって幅広い選択肢が与えられた結果、満たされるようになった、ということなんでしょうから。それに、相当の知的能力を持ったエリートが、自分が不向きな分野でくすぶっているのは社会全体にとっても損失だとも思います。人生の方向や専門分野を18歳で完全に決めてしまうというのは、間違いが起こりやすい危ない方法です。
これまでよりも大量に就活にエントリーされることで、これまで見かけることがなかったような出身学部の就活生も出てきている。その一方で、選ぶ企業側は、全員を慎重にチェックするわけに行かなくなったから、学歴とかなんとかで「足切り」をしている。結果、多くの就活生が、エントリーシートも見てもらえなくなって、有利な学生とそうじゃない学生の格差が広がっている。
ここまで考えてきて、これは、何かに似ているな、と思いました。
少し前に、iOS用のアプリを作っている友人が言っていました。どんどんアプリの種類が増えて、ユニークな、これまでにないアプリが出てきている。アプリ市場全体の売上も伸びている。でも、一方で、ほとんどのアプリはユーザーの目に触れることがなくなって、ランキング上位のアプリ以外は売れなくなっていている。アプリ間の格差が広がっている。
少し前、ドワンゴが、就活に少しだけお金を取るという試みをやるというニュースが流れました。もし、あの試みが普及したら、確かに、エントリーする就活生は減るでしょうね。企業はじっくり時間をかけて就活生を選べるようになると思います。しかし、たぶん、この格差は戻らないのではないでしょうか?もし、アップルが、アプリ開発者から今より多額のマージンを取るようになっても、それだけで売れるアプリの種類が増えるとは思えませんから。
ひょっとしたら、このあたりは、カネを取るのではなくて、AppStoreや就活サイトのデザインを変えることでなんとかなるのかもしれません。
あんぱんまんラーメン
アンパンなのかラーメンなのか、あんなのか醤油なのか、なんだか不条理な商品に感じます。
類似のコンセプトの商品に、
「あんぱんまん 鮭ふりかけ」というのもあるみたい。
こちらも、なんだか、不条理感炸裂。
やるんだったら、鮭ふりかけごはんマンとかラーメンマン(あ、これは、別のマンガにいたな)いうキャラクターを作ってくれればいいのにと思うのですが、この商品の主要な消費者は、あんぱんまんの絵だけに強く反応するからこうなっているのでしょうね。
今回は、こういう商品があることに僕が驚いたというだけの、短いエントリーです。
2014年3月28日金曜日
自動「無」診断システム
ひとつ前の記事で書いたように、以前、僕は、自動診断システムを作っていたことがあります。
この自動診断システム、一般内科外来の現場での利用を想定したもので、患者の年齢、性別、主な訴えを入力すると、確率の高い疾患から順に列挙し、さらに疾患を絞り込むために患者にするべき質問を表示するようになっていました。そして、その質問の答えを入力すると、可能性の高い疾患をさらに絞り込んで表示し、次にするべき質問を表示します。これを繰り返して、可能性の高い疾患がひとつに絞り込まれるか、これ以上、患者への質問だけで絞り込めない状態になると、終了します。推論の方法としては、単純なナイーブベイズアルゴリズムを使っていました。
そこそこうまくできたので、それをネタにしたショボイ論文もいくつか書きましたし、学会発表などもいくつかしましたので、検索すれば、そういう論文や記録がどこかに転がっているかもしれません。
その時、これをネタに、大学で本格的に研究しようと思っていたのですが、しかし、大学で研究するとなると、ソフトウェアを書くだけでなくて、それなりに本格的な論文を多数書かなくてはなりません。ところが、このネタでは、しっかりした論文を書くのが案外難しかったのです。
新しいソフトウェアを作って、それをきちんとした科学論文にしようとした場合、それが既存の似たシステムとどう違うのか、既存のシステムに比べてどこが優れているのか、そういったことを論文中に明確に書かなくてはいけません。つまり、過去のシステムと比較し、新しいシステムの評価をしなくてはいけません。ところが、複数の診断の方法があるとき、どちらのほうが優れているかを明確に示すことは非常に難しいのです。
そもそも、現在の医学では、僕達は、100%正しい診断を得るということができません。確かに、疾患によっては、ある程度コンセンサスが得られた「診断基準」みたいなものがあります。でも、それにしたって、実際に基準を患者に当てはめてみると、その結果はかなり曖昧なものです。同じ基準を使っても医者によって意見がわかれることはよくあります。100%正しい正解がない曖昧な状態で、各システムの採点をして、その点数の比較をするのですから、結論がぼんやりしてしまうのも当然のことです。
僕は、このとき、診断システムの比較の難しさに直面して、それからずっと、「診断とは何か」「なぜ、診断は曖昧なのか」について、考えてきました。
僕の考えでは、診断とは、患者の体の中で起こっている現象を「診断名」という単語にひもづけること、つまり、診断名という単位で患者を分節化(コード化)することです。患者の体の中で起こっている現象は、一人ひとり違いますし、それぞれの患者の体内で起こっている現象は、それぞれ、一回限りの現象です。だから、「分節化」とは、患者の体験のうち重要でないと考える部分を「捨象」し、似た患者の体験を同じと「みなす」ことです。どれくらい捨象することが正当か、どれくらい同じとみなすことが正しいか、科学的な明確な基準はありません。たぶん、このあたりが診断の曖昧さの本質だと思います。
どこまでを捨象し、どこまでを同じ体験とみなすか、これは医者によって異なります。また、同じ医者でも場面によって異なります。たとえば、救急など緊急性が高い場合は、バッサリと大きく捨象する、大雑把な「みなし」が必要と思います。患者の体験の細かい違いにこだわるよりも、素早い対応が必要だからです。その一方で、たとえば、在宅で「見取り」をするときなど、患者の最後の体験を大切にしてあげたいケースでは、まったく逆になります。細かい患者の体験の違いをこそ大切にしなくてはいけません。その場合、しばしば、診断名のくくりよりも細かい、個別性の高い対応が必要になります。在宅医療をしている先生たちを傍目に見ていると、そういう細かなモヤモヤに合わせた対応は、結構勇気が要るなぁ、と思います。そういった診療の経験に乏しい僕には、明確な基準がない(ようにみえる)状況で、フレキシブルな判断を求められるのは、非常に怖く感じられるのです。
診断の背景には、常に、診断に捨象されたモヤモヤがあります。モヤモヤを気にしないで捨象してしまっても、僕達は、ほとんどの場合は問題にしません。これは、捨象しても大きな問題が起こらないということなのか、それとも、何か大事なものを捨象してしまっているのに誰も気がついていないせいなのか、よくわかりません。もし、モヤモヤを捨象しても大きな問題が起こらないというのであれば、きっと、診断ですくい取れないようなモヤモヤの部分は、僕達が気づかないうちに、生物の中の精緻な仕組みが支えてくれているということなんでしょう。
モヤモヤと診断について、少し一般化して、病気の患者だけでなく、健康な人も含む多くの人の人生の問題として考えてみます。そうすると、診断の背景のモヤモヤと診断の関係というのは、僕達の人生と、僕達のアイデンティティの関係に相当すると思います。
アイデンティティとは、僕の考えでは、たとえば、「僕は、男性で、日本人で、夫で、また、会社員で、、、」というふうに、僕達の人生にラベルを貼ることです。僕達は、人生で何かの行動方針を決めるとき、無意識のうちに、このラベルを大切に考えて決定します。しかし、ラベルは、僕達自身の人生そのものとは微妙にズレています。また、僕達は、人生で本当に重大な決定をするとき、しばしば、このラベルを無視しなくてはいけないことすらあるのです。どのラベルも、人生そのものではありません。たぶん、お釈迦様が諸法無我とおっしゃったのは、そういうことだろうと思っています。
さら、そう考えてきて、僕は、次に機会があれば、「自動診断システム」でなく、「自動無診断システム」というのをつくってみたいと考えています。突拍子もないようですが、データマイニングに基づいた推論では、「診断」がないのはそれほどおかしなことではありません。
自動無診断システムは、自動診断システムと同じように、医療の意思決定に必要な情報を提供するシステムです。しかし、自動診断システムと違って明示的には診断しません。
自動無診断システムは、治療方針を決定すべき患者のデータを与えられると、過去の様々な患者のデータと比較し、よく似た患者を選び出します。この、「よく似た患者」は、多くの場合は、診断名も同じ患者でしょうけれども、必ずしもそうである必要はありません。ただ、全体にデータが似ていればいいのです。そして、その「よく似た患者」で有効だった治療法やそれほど有効でなかった治療法について検討し、そこから、元の患者でどのような治療が有効らしいか推定します。
おそらく、多くの場合、この自動無診断システムによる治療方針は、通常僕達がやっている、診断に基づいて治療方針を決定する方法と、それほど変わらないものになると思います。では、どのような場合に、自動無診断システムの決定と診断に基づく決定が、異なる結論になるだろうか?僕は、そこに少し興味があるのです。
2014年3月21日金曜日
ウェブ時代における、傲慢な診断のゆくえ
僕は、医学の教科書類のうちでは、診断学の関連の本を読むのが一番好きです。過去に自動診断を行うプログラムを作ったこともありますし、診断を勉強するのが自分は好きなのだな、と思います。
でも、診断が得意なわけではありません。診察室で、その場で適切な診断を思いつけず、後になって、ああ、アレは、ああいう検査をするべきだった、と悔やむことはしょっちゅうですし、そういうことで痛い目を見たことも何度もあります。
自分が診断が得意でもないのに診断について勉強するのが好きなのは、自分では、診断という行為の中にある「ある種の傲慢さ」と、その「傲慢さのコントロール」みたいなものを気に入っているからではないかと思っています。
サービスとしての医療は、ある意味で、奇妙なくらい傲慢なコンセプトを前提にして成り立っています(そして、その傲慢さは、医者にとって当たり前すぎて、普通は意識すらされません)。それは、患者は、「自分が何に困っているか」は、よく知っていて、だからこそ受診するのであるが、「自分がどういうサービスを必要としているか」は自分ではほとんど知らない、という考え方です。そして、「どういうサービスを必要としているか」を、第三者である医療者が患者を観察して明らかにする方法論が診断学です。
こうして文章にしているだけでも、うんざりするほど傲慢でパターナリスティックな考え方です。はじめて、医療現場に出たとき、この感覚がすごく傲慢に感じて嫌になりました。
僕は、この考え方があまりに大嫌いで、そのせいで(もちろん、それだけが理由ではないのですが)、一度は医者をやめて、別の仕事をしていました。
いくつかやった別の仕事の1つが、コンピュータ関連の、いわゆる、SIerの仕事です。でも、こちらの業種でも、多かれ少なかれ、似たコンセプトは存在するのですね。コンピュータを導入したいと思っている顧客企業は、たいていの場合、自分が本当に必要としているシステムがどういうものか、つまり、システムの要求仕様というやつをおぼろげにしか理解していません。システムについての専門的知識がないのですから当然のことです。ですから、システム導入を請け負うIT企業は、まず、顧客にインタビューして、顧客の仕事の様子を観察して、顧客が、「本当は、どういうサービスを必要としているのか」を明らかにしようとします。医療の場合との違いは、顧客の要求の見出し方、仕様書の作り方などのノウハウが、診断学ほどは体系化されていないというだけです。
システムの導入を行う企業の中で、専門家でない人が、自社に導入すべきシステムについて「しったかぶり」すると、システム導入が失敗することがあります。逆に、傲慢に、「顧客は自分が必要としているサービスを知らない」と考えてシステム屋が誘導すると、案外、システムの導入がうまく行くのです。というわけで、「僕の経験からすると、一番やりにくいのは、顧客企業に、中途半端な「パソコンオタク」がいた時でした。
これは、IT企業の中の人間関係でも、同じことです。この会社でエンジニア的な仕事をしていた僕は、非エンジニアから「しったかぶり」をされて怒ってしまったことが何度かあります。もっとも、「しったかぶり」と言っても、大したことではないのです。たとえば、
「なんか、このソフトにバグがあるんだけれど。。」(うるせえ!それがバグか、それともテメエの操作ミスかは、オレが決めるよ。)
「ねえ。これくらいの修正だったら、1週間もあればできるよね。」(できるかもしれないが、でも、工数を見積もるのは、お前じゃなくてオレの仕事だ。)
怒ってしまったのは、その時、特に疲れていたからというのもあるのですが、こういうことは、ある程度、「専門家」に任せてもらわないとうまくいかないのです。
おそらく、「専門家が特定の分野の知識を利用して非専門家にサービスをする」というパターンの業種では、どこでも、「顧客は必要なサービスを知らない」的な傲慢な前提が、一定の合理性があるのでしょう。そのことに気がついて、他の業種に比べて医療もそれほど傲慢なものではないと思うようになった僕は、しばらくたって医療の世界に戻ってきました。
むしろ、今では、医療の世界が体系化された診断学をもっていることは、医療者の傲慢さを医療者自身が制御することに役立っていると思うようになりました。ある程度体系的で客観的な診断学が公開されていることは、個々の医師が、患者が受けるべき治療についてデタラメを言うことを強く抑制します。また、医師は、患者が受けるべきと考える治療について、自分の思い込みを離れて、ある程度客観的に見ることもできるようになります。診断学は傲慢な前提で成り立っているかもしれませんが、それがある程度体系化され、かつ公開されていることによって、自身の傲慢さをコントロールするために役に立っているのです。
アメリカのテレビドラマの「ドクターハウス」には、恐ろしく傲慢な、天才的な診断能力をもった医師が出てきます。彼は、ワガママで傲慢で人間嫌いで、そういう自分をコントロールすることができません。それでいて、診断の天才です。劇中の彼の診断には思わず首を傾げてしまうものも多いのですが、診断学が医師の傲慢さをコントロールしていると感じている僕には、妙にリアリティのある人間描写です。
ところで、僕は、ウェブ時代になって、ひょっとしたら、この種の「診断」は、なくなっていくかもしれない、と思っています。
上のほうで、僕が、自動診断システムを作っていたことがあるという話を少し出しました。その自動診断システムを開発していたとき、僕は、自動診断システムにウェブ用のインターフェイスをつけて、ウェブから利用できるようにしようと考えていたのです。そのときまで、僕は、ウェブの開発にはあまり経験がなかったものですから、自動診断システムに流用できそうな既存のウェブアプリケーションのユーザーインターフェイスを色々調べたのでした。特によく調べたのは、ユーザーにアドバイスしたり、リコメンドしたりする機能を持ったウェブアプリケーションです。ビッグデータを利用して、ユーザーになにかアドバイスをするというのは、まさしく、「診断」のように思えたからでした。
さて、そのときに気がついたのは、ウェブアプリケーションの中には、「診断学」的な、「ユーザーは、自分が必要としているサービスを知らない」的な前提をもっているものは、ほとんどないということでした。
ユーザーデータを利用して、自社サービスのうち、どれがそのユーザーが利用すべきサービスかアドバイスするタイプのシステムってのは、結構普通にあります。たとえば、オンライン書店で本を買うと、「あなたには、この本もお勧めです」って言ってくるとか。
でも、その中の一つとして、「ユーザーは、自分が読むべき本を知らない」、「ウェブサイトが、ユーザーのデータから彼が読むべき本を決定する」なんて、傲慢な前提を感じさせるリコメンドシステムはなかったように思います。リコメンドシステムは、「ユーザーは、自分が読むべき本を知っている(自分が読むべき本かどうか判断できる)」けれども、自分が読むべき本を探すのが面倒くさいから、「ウェブサイトが彼が読むべき可能性の高い本を推薦する」という謙虚な前提に立っています。これは、医師など人間の専門家が自然に前提にしている考え方とはずいぶん違います。また、ユーザーが、データから判断してどういう状況なのか、「診断」するシステムもひとつもありません。
たとえば、
「あなたは、これまで、ラーメンの本やらお菓子の本やら、カロリーの高い食べ物についての本をいっぱい買ってきましたね。だから、あなたは、ラーメン好きの肥満症である可能性が高いと「診断」しました。そこで、あなたには、このダイエットの本を「処方」します。必ず購入ボタンを押して、届いたらすぐに読んでください。」
なんて、そんな押し付けがましいオンライン書店は、まだ、見たことがありません。
なぜなんでしょう?
ウェブサイトだと、不特定多数が利用するから、「診断」が間違えたときに責任が取れない?
それとも、ユーザーは、人間の専門家ならともかく、たかがウェブサイトからそういうことを指示されるのが不愉快?
ただ単に、現在のウェブが、まだ、そういう「診断」が必要なジャンルに使われていないだけ?
今後、もし、医療情報ウェブみたいなのが普及し、医師のかわりをするウェブ版人工知能が十分に実用になる時代がきたら(そういう時代は、それほど遠くない将来やってくると思います)、その時には、「傲慢」なウェブサイトが登場するんでしょうか?
僕には、「傲慢な前提」がないというのは、ウェブの、なにか本質的なところじゃないかという気がするのです。もし、将来、ウェブでAI医者のアドバイスを受ける時代が来たら、その時には、ウェブにも傲慢な前提が登場するんでしょうか?ひょっとしたら、逆に、その時には、今のような「診断学」がなくなっているかもしれないという気もします。
まったく予想がつかないのですけれど、どうなるでしょうかね。