安保法制について、今思っていること、考えていることを、メモ的に残しておこうと思います。
なぜ、このタイミングでこういうエントリーを書くかといいますと、ちょうど、先日、この法律が成立して、今後、この法律に関しての議論が下火になるだろうと思うからです。つまり、このタイミングであれば、このエントリーを書いても、妙な議論をふっかけられることはないだろうと思っているのです。
私は、安保法制について自分の考えていることをメモしておきたいと思っているけれども、この件について議論したいとは思っていないのです。
なお、これは「私の思っていることについてのメモ」でしかないので、内容の正しさは保証しません。間違った思い込みもあるでしょう。そういう思い込みも含めて、とりあえずメモしておきたいと思っているのです。
私は、安保法制について自分の考えていることをメモしておきたいと思っているけれども、この件について議論したいとは思っていないのです。
なお、これは「私の思っていることについてのメモ」でしかないので、内容の正しさは保証しません。間違った思い込みもあるでしょう。そういう思い込みも含めて、とりあえずメモしておきたいと思っているのです。
1,そもそも、先日、国会で決まった「安保法制」とは、何か?今回、国会で何が成立したのか?
多くの人は、日本が「集団的自衛権」なるものを行使できるようになったのだと思っているでしょう。そういう報道がなされていたからです。
しかし、話はそう単純ではありません。
というのは、私は、何度かこの一連の法案を読み返しましたけれど、少なくとも私が読んだ範囲では、法律の文章の中に「集団的自衛権」なる言葉は一度も出てきていないように思うからです。私の見落としでなければ、この法律の文章の中には「集団的自衛権」なる言葉は含まれていないと思います。
では、この法律と「集団的自衛権」は、関係ないのか?
それも違います。
少なくとも、政府が、この安保法制を「集団的自衛権の限定的な行使」を可能にする法律だと解釈しているということは間違いないのです。
別の言い方で言いますと、「安保法制は集団的自衛権の行使を可能にする法律である」というよりも、「安保法制の一つの解釈として、集団的自衛権の行使が可能になるという解釈もできる」と言ったほうが正確だと思います。もちろん、一つの解釈に過ぎないとは言っても、時の政府の解釈ですから、他の解釈よりも遥かに重要な解釈であるとは言えると思いますけれど。
多くの人は、日本が「集団的自衛権」なるものを行使できるようになったのだと思っているでしょう。そういう報道がなされていたからです。
しかし、話はそう単純ではありません。
というのは、私は、何度かこの一連の法案を読み返しましたけれど、少なくとも私が読んだ範囲では、法律の文章の中に「集団的自衛権」なる言葉は一度も出てきていないように思うからです。私の見落としでなければ、この法律の文章の中には「集団的自衛権」なる言葉は含まれていないと思います。
では、この法律と「集団的自衛権」は、関係ないのか?
それも違います。
少なくとも、政府が、この安保法制を「集団的自衛権の限定的な行使」を可能にする法律だと解釈しているということは間違いないのです。
別の言い方で言いますと、「安保法制は集団的自衛権の行使を可能にする法律である」というよりも、「安保法制の一つの解釈として、集団的自衛権の行使が可能になるという解釈もできる」と言ったほうが正確だと思います。もちろん、一つの解釈に過ぎないとは言っても、時の政府の解釈ですから、他の解釈よりも遥かに重要な解釈であるとは言えると思いますけれど。
2,憲法違反なのか?
なんとも言えません。それは、安保法制と憲法の解釈次第だからです。
つまり、
A.憲法は、集団的自衛権の行使を禁止しているか?
B.安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むか?
のふたつの問題に対して両方とも「イエス」ならば、この法律は違憲と考えざるを得ないでしょう。けれど、いずれかが「ノー」ならば、合憲と考えることになると思います。
もちろん、政府は、「安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むものだけれども憲法は集団的自衛権を禁止していない(つまり、Aがノーで、Bがイエス)」という立場です。
その一方で、多くの憲法学者は、より法的安定性を重視した見解をとっていて「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」と考えています。ですので、もし、そうした立場をとりつつ安保法制を合憲とするならば、この法律による実力行使は集団的自衛権の行使ではないと立場(つまり、AがイエスでBがノー)しかありえないと思われます(あとでもう一度触れますが、衆議院で提出された維新の党の対案は、そういう考え方で作られています)。
なんとも言えません。それは、安保法制と憲法の解釈次第だからです。
つまり、
A.憲法は、集団的自衛権の行使を禁止しているか?
B.安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むか?
のふたつの問題に対して両方とも「イエス」ならば、この法律は違憲と考えざるを得ないでしょう。けれど、いずれかが「ノー」ならば、合憲と考えることになると思います。
もちろん、政府は、「安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むものだけれども憲法は集団的自衛権を禁止していない(つまり、Aがノーで、Bがイエス)」という立場です。
その一方で、多くの憲法学者は、より法的安定性を重視した見解をとっていて「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」と考えています。ですので、もし、そうした立場をとりつつ安保法制を合憲とするならば、この法律による実力行使は集団的自衛権の行使ではないと立場(つまり、AがイエスでBがノー)しかありえないと思われます(あとでもう一度触れますが、衆議院で提出された維新の党の対案は、そういう考え方で作られています)。
3,では、安保法制を「集団的自衛権」の法律ではないと解釈することも可能なのか?
可能です。今回の安保法制に基づく実力行使は、私の理解するところでは、国際法的には、個別的自衛権とも集団的自衛権とも、いずれとも解釈できる範囲内です。
であれば、それを、「集団的自衛権の行使」とみなすか、「個別的自衛権の行使」とみなすかは、その時の日本政府が自由に決めてよいはずです(もちろん、最終的には最高裁が決定することですが、実質的には、これでよいはずです)。
たとえば、日本周辺で日本を防衛するために活動しているアメリカ軍が攻撃された際に自衛隊が弾薬を供給したり、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃したりするとしても、それを、日本政府が「個別的自衛権の行使」と解釈すれば、個別的自衛権の行使になります。
実は、先にすこし触れたように、維新の党が衆議院で提出した対案は、この考え方に基づいています。あの対案を採用すれば、政府案とほとんど同じ実力行使をしても、今後、そういう実力行使は、個別的自衛権の行使であると解釈することになります。そういう解釈をせざるを得ないように、あの対案では、政府案よりも解釈の余地が狭くなるように書かれているのです。
誰でしたか、国会で政府案を違憲と言った有名な憲法学者が、維新の案であれば合憲であると言ったそうですが、それは、たぶん、こういう理由です(正直、維新案の法案の文章を初めて読んだ時、すこしずるいと思いました。いかにも弁護士の先生が作った政党が考えそうな、弁護士らしいずるい文章だな、と思ったのです)。
可能です。今回の安保法制に基づく実力行使は、私の理解するところでは、国際法的には、個別的自衛権とも集団的自衛権とも、いずれとも解釈できる範囲内です。
であれば、それを、「集団的自衛権の行使」とみなすか、「個別的自衛権の行使」とみなすかは、その時の日本政府が自由に決めてよいはずです(もちろん、最終的には最高裁が決定することですが、実質的には、これでよいはずです)。
たとえば、日本周辺で日本を防衛するために活動しているアメリカ軍が攻撃された際に自衛隊が弾薬を供給したり、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃したりするとしても、それを、日本政府が「個別的自衛権の行使」と解釈すれば、個別的自衛権の行使になります。
実は、先にすこし触れたように、維新の党が衆議院で提出した対案は、この考え方に基づいています。あの対案を採用すれば、政府案とほとんど同じ実力行使をしても、今後、そういう実力行使は、個別的自衛権の行使であると解釈することになります。そういう解釈をせざるを得ないように、あの対案では、政府案よりも解釈の余地が狭くなるように書かれているのです。
誰でしたか、国会で政府案を違憲と言った有名な憲法学者が、維新の案であれば合憲であると言ったそうですが、それは、たぶん、こういう理由です(正直、維新案の法案の文章を初めて読んだ時、すこしずるいと思いました。いかにも弁護士の先生が作った政党が考えそうな、弁護士らしいずるい文章だな、と思ったのです)。
4,では、この安保法制で、何が新しくできるようになったのか?
これは、新しい安保法制でできることのうち、古い法律でできなかったことは何か?という問題と同じだと思います。
実は、これは、よくわかりません。
なぜかといいますと、これまでの古い法律は、新しい安保法制以上にややこしくて、解釈の余地の大きい法律だったからです。
日本や日本人を守るために活動しているアメリカ軍が誰かから攻撃された際、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃することは、たぶん、これまでの法律でも解釈次第で可能だったと思います。
たとえば、民主党の岡田党首は、外相時代、そういう活動が可能だという見解を表明していたように思います。もちろん、今回の安保法制ができる前のことですから、それは今回のような安保法制がなくても可能であるという解釈なのです。
最近、彼の外相時代のその発言を引用して、外相時代には集団的自衛権を容認していたのに、野党党首になると安保法制に反対するのはおかしいと批判するエントリーを見ましたけれど、これも、批判としては微妙にずれていますね。もし、岡田さんのように、日本人を守る米軍が攻撃を受けた際の自衛隊の実力行使について、これまでの法律でも可能であったと解釈するならば、今回の安保法制に反対しつつ、かつ米軍との共同行動が可能だと主張することは、特におかしくないことだからです。
そういう見解がある一方で、「駆けつけ警護」などは、まったく新しくできるようになったことだと思います。
ただ、こういった小さな変化以上に一番大きく変わったのは、とにかく法律の解釈が分かりやすくなったことだと思います。
新しい安保法制は、これでも随分ややこしいのですが、これまでの法律に比べると国防に関わる公務員(官僚や自衛官)のするべきことが随分分かりやすくまとまっていますし、解釈の余地が小さくなったと思うのです。
法律で解釈次第で行動できるかもしれないという状態と、法律の解釈の余地が少なく、行動すべきことがわかりやすいという状態では、当然、法律を解釈して法律通りに行動せざるを得ない公務員の負担や法的リスクは大きく異なります。
これは、新しい安保法制でできることのうち、古い法律でできなかったことは何か?という問題と同じだと思います。
実は、これは、よくわかりません。
なぜかといいますと、これまでの古い法律は、新しい安保法制以上にややこしくて、解釈の余地の大きい法律だったからです。
日本や日本人を守るために活動しているアメリカ軍が誰かから攻撃された際、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃することは、たぶん、これまでの法律でも解釈次第で可能だったと思います。
たとえば、民主党の岡田党首は、外相時代、そういう活動が可能だという見解を表明していたように思います。もちろん、今回の安保法制ができる前のことですから、それは今回のような安保法制がなくても可能であるという解釈なのです。
最近、彼の外相時代のその発言を引用して、外相時代には集団的自衛権を容認していたのに、野党党首になると安保法制に反対するのはおかしいと批判するエントリーを見ましたけれど、これも、批判としては微妙にずれていますね。もし、岡田さんのように、日本人を守る米軍が攻撃を受けた際の自衛隊の実力行使について、これまでの法律でも可能であったと解釈するならば、今回の安保法制に反対しつつ、かつ米軍との共同行動が可能だと主張することは、特におかしくないことだからです。
そういう見解がある一方で、「駆けつけ警護」などは、まったく新しくできるようになったことだと思います。
ただ、こういった小さな変化以上に一番大きく変わったのは、とにかく法律の解釈が分かりやすくなったことだと思います。
新しい安保法制は、これでも随分ややこしいのですが、これまでの法律に比べると国防に関わる公務員(官僚や自衛官)のするべきことが随分分かりやすくまとまっていますし、解釈の余地が小さくなったと思うのです。
法律で解釈次第で行動できるかもしれないという状態と、法律の解釈の余地が少なく、行動すべきことがわかりやすいという状態では、当然、法律を解釈して法律通りに行動せざるを得ない公務員の負担や法的リスクは大きく異なります。
5,もし、新しい安保法制が、本当に今までの法律と対して変わらないのであれば、なぜ、これほど大騒ぎになったのか?
よくわかりません。
正直、私は、安保法制について、これまでの法律とそれほど大きく変わるものではないし、大騒ぎするほどの話ではないと思っています。
ですから、政府の立場では、正直に、「これは大した法律の変化ではないし、今後も自衛隊は個別的自衛権の範囲内の行動しかしない」と言って法律をサッサと通してしまった方が簡単だったのではないかと思っています。もし、そうしていれば、反対運動も、それほど盛り上がらなかったでしょう。
そして、もし、どうしても、そういう実力行使を集団的自衛権の行使と呼びたいのであれば(そういう呼び方をしたい理由は、現時点では考えにくいですが、今後、そういう必要性が出てくるかもしれません)、法律を通した後になって、「実は、あの安保法制は集団的自衛権を容認しているとも解釈できるし、そう解釈せざるを得ない状況の変化があった」と言っても良かったのではないでしょうか。
しかし、政府は、「集団的自衛権」とか、「切れ目のない安全保障」とか、これまでとは違う自衛隊の活動が可能になる法律であると強調してきました。なぜ、政府は、このような「茨の道」を歩もうとしたのでしょう?
よくわかりません。
正直、私は、安保法制について、これまでの法律とそれほど大きく変わるものではないし、大騒ぎするほどの話ではないと思っています。
ですから、政府の立場では、正直に、「これは大した法律の変化ではないし、今後も自衛隊は個別的自衛権の範囲内の行動しかしない」と言って法律をサッサと通してしまった方が簡単だったのではないかと思っています。もし、そうしていれば、反対運動も、それほど盛り上がらなかったでしょう。
そして、もし、どうしても、そういう実力行使を集団的自衛権の行使と呼びたいのであれば(そういう呼び方をしたい理由は、現時点では考えにくいですが、今後、そういう必要性が出てくるかもしれません)、法律を通した後になって、「実は、あの安保法制は集団的自衛権を容認しているとも解釈できるし、そう解釈せざるを得ない状況の変化があった」と言っても良かったのではないでしょうか。
しかし、政府は、「集団的自衛権」とか、「切れ目のない安全保障」とか、これまでとは違う自衛隊の活動が可能になる法律であると強調してきました。なぜ、政府は、このような「茨の道」を歩もうとしたのでしょう?
6,なぜ、政府はこれまでと違う自衛隊の活動ができると強調し、「茨の道」を歩むことを選んだのか?
一つには、政府は、これほどの反対運動が起こるとは想像していなかったからでしょう。茨のトゲがこれほど鋭いとは思っていなかったのです。
もうひとつ、政府は、自衛隊がこれまでと違う活動をできるようにすると対外的に強くアピールしたかったのではないでしょうか?
日本政府が、「日本を守るためには、これまでとは違う自衛隊の使い方をするぞ」と対外的にコミットメントすることは、日本の周辺国のうち、外交や防衛面で利益を共有しにくい一部の国に対して、日本の強い姿勢のアピールになります。アメリカに対しても、日米同盟を強化したいという強いアピールになります。また、国内の保守的な自民党支持層にも、喜ばれるかもしれません。
たとえ、実質的にはあまり意味のない法律だったとしてもです(もちろん、ここまで大きな騒ぎをするほどの法律ではないというだけで、この法律は、そこそこの大きな意味のある法律です)。
たぶん、政府は、そういうことを考えていたのではないかと思います。
一つには、政府は、これほどの反対運動が起こるとは想像していなかったからでしょう。茨のトゲがこれほど鋭いとは思っていなかったのです。
もうひとつ、政府は、自衛隊がこれまでと違う活動をできるようにすると対外的に強くアピールしたかったのではないでしょうか?
日本政府が、「日本を守るためには、これまでとは違う自衛隊の使い方をするぞ」と対外的にコミットメントすることは、日本の周辺国のうち、外交や防衛面で利益を共有しにくい一部の国に対して、日本の強い姿勢のアピールになります。アメリカに対しても、日米同盟を強化したいという強いアピールになります。また、国内の保守的な自民党支持層にも、喜ばれるかもしれません。
たとえ、実質的にはあまり意味のない法律だったとしてもです(もちろん、ここまで大きな騒ぎをするほどの法律ではないというだけで、この法律は、そこそこの大きな意味のある法律です)。
たぶん、政府は、そういうことを考えていたのではないかと思います。
7,これから、どうなるでしょう?
私見ですが、反対運動は、次の国政選挙までには落ち着いていると思います。もし、そうであれば、次の選挙で自公が勝っても、野党が勝っても、安保法制には大して変化はないでしょう。逆に、もし、反対運動が持続していても、自公が勝てば、安保法制が元に戻るとは考えられません。
問題は、安保法制反対運動が持続していて、かつ、それに支援を受けた野党が勝った場合です。
私は、たぶん、実質的な自衛隊の活動は、それほど変わらないと思います。たぶん、表面的には集団的自衛権を否定しつつ、かつ、実質的には自衛隊が米軍と共同行動できる、そういう新安保法制が成立するんじゃないでしょうか?
ここで長々書いてきたように、そういう法律は可能だと思いますし、国会で猛反対した野党の提案も、本質的な部分では与党と良く似た議論だからです。
私見ですが、反対運動は、次の国政選挙までには落ち着いていると思います。もし、そうであれば、次の選挙で自公が勝っても、野党が勝っても、安保法制には大して変化はないでしょう。逆に、もし、反対運動が持続していても、自公が勝てば、安保法制が元に戻るとは考えられません。
問題は、安保法制反対運動が持続していて、かつ、それに支援を受けた野党が勝った場合です。
私は、たぶん、実質的な自衛隊の活動は、それほど変わらないと思います。たぶん、表面的には集団的自衛権を否定しつつ、かつ、実質的には自衛隊が米軍と共同行動できる、そういう新安保法制が成立するんじゃないでしょうか?
ここで長々書いてきたように、そういう法律は可能だと思いますし、国会で猛反対した野党の提案も、本質的な部分では与党と良く似た議論だからです。
0 件のコメント:
コメントを投稿