映画「終の信託」、見てきました。
終末期医療がテーマの映画です。ストーリーは、概ね実話(川崎協同病院事件)を元にしており、非常にリアリティがあります。
終末期医療に関心のある人は必見と思いました。この問題について丁寧に扱った貴重な映画です。
この映画の批評などをウェブで探すと、尊厳死の映画と思っている人が多いですが、これは、尊厳死の映画ではありません。この映画で扱われている事件は、「植物状態の患者を尊厳死させようとしたときに、突然患者が息を吹き返して暴れだし、それを慌てて鎮静させようとした医師が、結果として患者を殺してしまった」という事件です。この事件は、「尊厳死」や「安楽死」のカテゴリには入りません。
作中に出てくる患者は、長い闘病生活の中で、肉体的な苦痛に苦しみ続け、さらに自分の闘病のために家族に負担をかけていることに申し訳ないと思いつづけています。そして、自分の主治医を信頼しており、自分がいよいよ助からないとなったら無理な延命治療は望まない。その時には自分の治療を止めて死なせて欲しいと主治医に言い残します。これが、表題の「終の信託」、いわゆるリビングウィルです。
この、患者の終の信託に基づいた「尊厳死」であれば、法律上は、それほど大きな問題はなかったのでしょう、しかし、尊厳死をさせようとした瞬間、患者は息を吹き返し、最後の最後で事件は普通の尊厳死を飛び越えて、結果として「殺人事件」になってしまうわけです。
実のところ、このような突然の患者の病状のゆらぎといいますか、予想外の変化は、医療では珍しいことではありません。医療は、基本的に予想外の変化をする生き物を扱っているわけですから、普通の医療と殺人事件は常に隣り合わせにあり、境目は、常にゆらゆらと揺れています。こうした医療の「ゆらぎ」を法律がどのように扱うか、というのが、この映画のテーマなのだと思います。
当然、法律で生死の問題を扱うときには、生と死の定義、脳死状態とは何か、終末期とはどのような状態か、といったような厳密な法律上の定義が必要です。ですから、法律には、このような「ゆらぎ」を受け入れ難いのです。
この映画では、この2つの正義、大沢たかおの演じる検事の規範的で法律的な正義と、草刈民代の演じる女医のゆらいでいる曖昧な正義が衝突します。
難しい問題を考えさせられるいい映画です。
以下、少し苦言っぽい話。
医療従事者の視点から見ると、こんな治療はいまどきやらないだろうというような少々首を傾げるような「喘息治療」が出てきました。
あと、喘息のような自宅でのケアが重要な疾患で、患者の自宅での生活の様子が全く描かれないのは、少し問題かな、とも思いました。作中の女医さんは、一人で病院で奮闘しており、作中では病院に来た時の患者しか描かれません。これが、この映画の医療に関する認識なのかもしれませんが、もし、病院だけでなく在宅医療等の活用があれば、もう少しマシな経過をたどったのではないかとも思います。そういう意味では、この映画の事件は、現在の極端に病院中心の医療が起こしてしまったトラブルとも感じます。
原作者は、特に医療が専門というわけではなく法律が専門の人ですので、医療に関する細かい描写には少しどうかと思うところもありますが、瑣末なことと思います。そういったことで価値が減ずることのない良い映画と思います。
最後に
僕自身は、リビングウィルというのは、本当のところどうなんだろうと少し疑問に思っています。
自分が重たい病気にかかると、人生に対する考え方というのは大きく変わります。
単なる延命治療は受けたくない、チューブがたくさんつながって、ただ生きているだけになるのは嫌だ、と元気なときに言っていた人が、いざ死を目の前にすると、少しでも長く生きたいと言う意見に変わるのも何度も見てきました。理由は様々です。チューブだらけになっても孫の小学校の入学式まで生きていたい、娘の結婚式までは生きていたい、みたいなことを言う人はたくさんいます。そういった理由はなくても、死を前にすると、死布は怖くなる、死ぬのは嫌だ、というふうに考え方が変わるのはごく普通なことです。
逆に、少しでも長く生きたいと言っていた人が、こんなふうになってまで生きたくなかった、と言い出すこともあります。
ハンコをついた書類の上での「本人の意志」と違って、本当の本人の意志というのは、非常に移ろいやすいものです。
もちろん、本人の意志が変わってしまう以上に、本人の意識が混濁し、本人が今どう考えているかがわからなくなってしまうというケースのほうが圧倒的に多いのも事実です。
どうしたらいいものか、僕の結論は、まだ出ていません。
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