2014年3月28日金曜日

自動「無」診断システム

ひとつ前の記事で書いたように、以前、僕は、自動診断システムを作っていたことがあります。

この自動診断システム、一般内科外来の現場での利用を想定したもので、患者の年齢、性別、主な訴えを入力すると、確率の高い疾患から順に列挙し、さらに疾患を絞り込むために患者にするべき質問を表示するようになっていました。そして、その質問の答えを入力すると、可能性の高い疾患をさらに絞り込んで表示し、次にするべき質問を表示します。これを繰り返して、可能性の高い疾患がひとつに絞り込まれるか、これ以上、患者への質問だけで絞り込めない状態になると、終了します。推論の方法としては、単純なナイーブベイズアルゴリズムを使っていました。

そこそこうまくできたので、それをネタにしたショボイ論文もいくつか書きましたし、学会発表などもいくつかしましたので、検索すれば、そういう論文や記録がどこかに転がっているかもしれません。

その時、これをネタに、大学で本格的に研究しようと思っていたのですが、しかし、大学で研究するとなると、ソフトウェアを書くだけでなくて、それなりに本格的な論文を多数書かなくてはなりません。ところが、このネタでは、しっかりした論文を書くのが案外難しかったのです。

新しいソフトウェアを作って、それをきちんとした科学論文にしようとした場合、それが既存の似たシステムとどう違うのか、既存のシステムに比べてどこが優れているのか、そういったことを論文中に明確に書かなくてはいけません。つまり、過去のシステムと比較し、新しいシステムの評価をしなくてはいけません。ところが、複数の診断の方法があるとき、どちらのほうが優れているかを明確に示すことは非常に難しいのです。

そもそも、現在の医学では、僕達は、100%正しい診断を得るということができません。確かに、疾患によっては、ある程度コンセンサスが得られた「診断基準」みたいなものがあります。でも、それにしたって、実際に基準を患者に当てはめてみると、その結果はかなり曖昧なものです。同じ基準を使っても医者によって意見がわかれることはよくあります。100%正しい正解がない曖昧な状態で、各システムの採点をして、その点数の比較をするのですから、結論がぼんやりしてしまうのも当然のことです。

僕は、このとき、診断システムの比較の難しさに直面して、それからずっと、「診断とは何か」「なぜ、診断は曖昧なのか」について、考えてきました。

僕の考えでは、診断とは、患者の体の中で起こっている現象を「診断名」という単語にひもづけること、つまり、診断名という単位で患者を分節化(コード化)することです。患者の体の中で起こっている現象は、一人ひとり違いますし、それぞれの患者の体内で起こっている現象は、それぞれ、一回限りの現象です。だから、「分節化」とは、患者の体験のうち重要でないと考える部分を「捨象」し、似た患者の体験を同じと「みなす」ことです。どれくらい捨象することが正当か、どれくらい同じとみなすことが正しいか、科学的な明確な基準はありません。たぶん、このあたりが診断の曖昧さの本質だと思います。

どこまでを捨象し、どこまでを同じ体験とみなすか、これは医者によって異なります。また、同じ医者でも場面によって異なります。たとえば、救急など緊急性が高い場合は、バッサリと大きく捨象する、大雑把な「みなし」が必要と思います。患者の体験の細かい違いにこだわるよりも、素早い対応が必要だからです。その一方で、たとえば、在宅で「見取り」をするときなど、患者の最後の体験を大切にしてあげたいケースでは、まったく逆になります。細かい患者の体験の違いをこそ大切にしなくてはいけません。その場合、しばしば、診断名のくくりよりも細かい、個別性の高い対応が必要になります。在宅医療をしている先生たちを傍目に見ていると、そういう細かなモヤモヤに合わせた対応は、結構勇気が要るなぁ、と思います。そういった診療の経験に乏しい僕には、明確な基準がない(ようにみえる)状況で、フレキシブルな判断を求められるのは、非常に怖く感じられるのです。

診断の背景には、常に、診断に捨象されたモヤモヤがあります。モヤモヤを気にしないで捨象してしまっても、僕達は、ほとんどの場合は問題にしません。これは、捨象しても大きな問題が起こらないということなのか、それとも、何か大事なものを捨象してしまっているのに誰も気がついていないせいなのか、よくわかりません。もし、モヤモヤを捨象しても大きな問題が起こらないというのであれば、きっと、診断ですくい取れないようなモヤモヤの部分は、僕達が気づかないうちに、生物の中の精緻な仕組みが支えてくれているということなんでしょう。

モヤモヤと診断について、少し一般化して、病気の患者だけでなく、健康な人も含む多くの人の人生の問題として考えてみます。そうすると、診断の背景のモヤモヤと診断の関係というのは、僕達の人生と、僕達のアイデンティティの関係に相当すると思います。

アイデンティティとは、僕の考えでは、たとえば、「僕は、男性で、日本人で、夫で、また、会社員で、、、」というふうに、僕達の人生にラベルを貼ることです。僕達は、人生で何かの行動方針を決めるとき、無意識のうちに、このラベルを大切に考えて決定します。しかし、ラベルは、僕達自身の人生そのものとは微妙にズレています。また、僕達は、人生で本当に重大な決定をするとき、しばしば、このラベルを無視しなくてはいけないことすらあるのです。どのラベルも、人生そのものではありません。たぶん、お釈迦様が諸法無我とおっしゃったのは、そういうことだろうと思っています。

さら、そう考えてきて、僕は、次に機会があれば、「自動診断システム」でなく、「自動診断システム」というのをつくってみたいと考えています。突拍子もないようですが、データマイニングに基づいた推論では、「診断」がないのはそれほどおかしなことではありません。

自動無診断システムは、自動診断システムと同じように、医療の意思決定に必要な情報を提供するシステムです。しかし、自動診断システムと違って明示的には診断しません。

自動無診断システムは、治療方針を決定すべき患者のデータを与えられると、過去の様々な患者のデータと比較し、よく似た患者を選び出します。この、「よく似た患者」は、多くの場合は、診断名も同じ患者でしょうけれども、必ずしもそうである必要はありません。ただ、全体にデータが似ていればいいのです。そして、その「よく似た患者」で有効だった治療法やそれほど有効でなかった治療法について検討し、そこから、元の患者でどのような治療が有効らしいか推定します。

おそらく、多くの場合、この自動無診断システムによる治療方針は、通常僕達がやっている、診断に基づいて治療方針を決定する方法と、それほど変わらないものになると思います。では、どのような場合に、自動無診断システムの決定と診断に基づく決定が、異なる結論になるだろうか?僕は、そこに少し興味があるのです。

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