2014年10月18日土曜日

人工知能による医療の自動化とシンギュラリティ

Fbで、ちょっと考えこんでしまうような話があったので、 メモ的なリンクを残しておきます。

2014年10月16日木曜日

内海聡先生の件

内海先生というのは、精神科を中心に現代医学の多くの分野に批判的な講演や著作を行っている医師なのですが、 ほとんど科学的な根拠もなく、ほとんどネットなどの伝聞情報レベルの話を元にして、多くの治療法や薬、予防接種などに批判を続けている、少々困ったトンデ モ医者です。
彼の、少々困った「活動」についてはリンクを貼りませんので、興味のある方は、グーグル先生に聞いてみてください。

※このエントリーは、今年8月にFacebookで投稿した内容に、少しだけ加筆したものです。

むかし、彼が、今ほどエキセントリックなことは言っていなかった頃、僕は、彼と、少しの間、ツイッターでつるんでいたことがありました。
彼は、少し変な人で、それから、当時から、自分は医者に向かないと思ってずいぶん悩んでいたようなことを言っていましたけれど、今のように医学的におかしな奇説は言っていませんでした。

そのうち、彼が少し変なことを言うと、それに共鳴してリツイートする人たちが現れ、彼のまわりに、「いろんな医者にかかったけれど、あまり良くならない」とか、まあ、そんな経験を持つ人が集まりだして、いつのまにか、彼の周囲に、医者に不信感を持っている人のコミュニティができ始めました。そうこうしているうちに、信者と教祖のような感じになり、彼も、徐々に、普通の医学から見るとずいぶん変なことを言う頻度が高くなり、さらに、それに共鳴する、よりエキセントリックな信者が増えてきました。

おそらく、比較的穏当な医者に相談していたつもりだった初期のフォロアーたちは、彼がエキセントリックな主張をするようになった時点で離れていったのではないかと思います。そして、僕は、その頃、だんだん面倒な人になってきた彼をツイッターで批判して、その結果、彼にブロックされました。その後、彼の熱心なフォロアーたちは、彼を招いて、あちこちで講演会を主催したり、本を書くように促したり、そういう活動をしていきます。彼自身も、その過程で、さらに普通でない主張をするようになって行ったのでしょう。

今の彼は、迷惑で有害なニセ医学をネットで喧伝しつづけるトンデモ医者です.
ですが、初めてツイッターでコミュニケーションをとった頃の彼は、自分が、「普通の医者」ができないということに悩んでいましたけれど、それ以外に、「普通の医者」と大きな違いはなかったように思います。

では、何が、彼を、いまのような彼にさせたのでしょうか?

学生時代に、医学部に来なければよかったと後悔し、医者になってからも、自分が医者に向かないのではないかと悩み、自分は、他の職業のほうが向いていたんではないかと思い、悩んだあげく、結局、「普通の医者のレール」からドロップアウトしてしまったという人は、結構います(※1)。僕は、そういう人は、僕自身も含めて、何人も知っています。

僕の知る限り、そういう人の多くは、大学病院的なカリキュラムにない医学分野、たとえば、漢方であったり、プライマリケアであったり、公衆衛生であったり、あるいは、基礎研究であったり、行政であったり、に関心を持つようになっていきます。

彼の場合は、そういう、まっとうな「プランB」にたどり着く前に、「自分の信者」に出会ってしまっただけで、それ以外に、他のドロッポ組との違いは大きくないように思うのです。

今から、彼をまっとうな世界に戻すことは難しいと思いますが、彼と同じような問題医者を再度作らない、再発防止策はないものかと考えています。
たぶん、「プランB」的医学が今よりも目立つようになることが、その助けになるのではないかと思っています。


※1「普通の医者のレール」からドロップアウトしてしまったという人は、結構います
これは、本当に多いです。おそらく、普通のサラリーマンの世界よりも、ドロップアウトする人の割合ははるかに多いのじゃないかと思います。これには、幾つか理由があるように思います。
第一に、多くの医者の最初の勤務先になる大病院というのは、世間でもまれに見るようなブラック体質の職場だということです。ブラックだから、当然、それについていけない人はたくさん出てきます。第二に、「普通の医者」としてやっていくためには、性格的な適性が必要だということです。これについては、以前、こういう記事を書いたことがあります。第三に、ドロップアウトしても、医者は、それなりに食べていけるからドロップアウトすることへの歯止めが、普通のサラリーマンよりも小さいという部分もあるでしょう。


※2ドロッポ組
この記事を最初にFacebookで書いた後、ドロッポ組って何?って聞かれました。「ドロッポ組」という言葉は、業界によっては、あまり使わない言い回しかもしれません。最初に勤務した職場からドロップアウトした人たちのことです。「ドロッポ組の医者同士で集まるオフ会」なるものに出たことがありますが、みんな、本当に濃いメンツばかりで閉口しました。

2014年9月23日火曜日

最近、ディズニー・モバイルに乗り換えたのですが、iPhone6が予想通りショボかったので、乗り換えの判断は正しかったと思いました。

昨年だったか、一昨年だったか、僕は、iPhoneからAndroidに乗り換えました。そろそろ、Androidが機能的にiPhoneに追いついたと感じたからでした。

選んだ機種は、富士通のArrowsでした。

当時としては一番のハイスペックマシンでして、使っていてまあまあ楽しかったのですが、今年初めごろから、様々なトラブル、たとえば、使っている途中で突然再起動しはじめるとか、突然電源が切れるとか、が、発生するようになりました。

やっかいなことに、一度、再起動を始めると、何度も再起動を繰り返し続けるようになり、ほとんど使えなくなります。

富士通に修理に出しましたが、修理を終えて返ってきたあとも、再起動を繰り返す症状は全く改善しないまま、さらに、カメラが動かなくなっていたり(つまり、修理に出したら壊されて帰ってきたのです)と、まあ、ひどい状態が続いていたため、この8月、他機種に乗り換えることとしました。

iPhoneに戻ることも考えたのですが、残念ながら、iPhoneには、もう、ほとんど魅力を感じませんでした。

なぜなら、すでに、Androidのほうがほとんどの分野で機能的には上回っていましたから。また、その時点で喧伝されていたiOS8の新しい機能、たとえば、僕の場合は、HealthKitに関心があったのですが、その種のアプリ間のデータ共有は、とっくに、Androidでは、普通に実現されている機能でしたから。その他の機能も、すでに、Androidの後追いのものにしかみえませんでした。

他方、他のAndroidのマシンのどれにも、それほど強い魅力は感じませんでした。スペックの数字には少々の違いはあるものの、どのマシンも、ほとんど質的には同じに見えたのです。

これは、つまり、iPhoneも含めて、スマートフォンという商品分野が成熟してきたということなんだろうと思います。スマートフォン、つまり、2〜10万程度のお金で手に入れられる、タッチパネル搭載の通信機能付きのコンピュータの分野では、もはや、どの会社も、技術的に突出したものを作ることはできない。別の言い方で言えば、どの会社も、技術的には、同じような製品を作ることができる。そういう状態になったのです。

また、スマートフォンという分野が成熟したということは、今後、この分野では、どの会社も、少なくとも純技術的な方法では圧倒的に突出した体験を提供するマシンは作ることはできない。仮に、新しい何かを作ったとしても、他社は、簡単に真似できてしまう。ということになるでしょう。

つまり、お互いに、メモリーが増えたとか、CPUが高速になったとか、あるいは、安価な製品を作るとか、そういう、少々のスペックの差をつけることくらいしかできなくなったのです。

だからこそ、逆説的ですが、iPhoneの新製品は売れるでしょう。
技術的な差異が少なければ少ないほど、みんな、デザインやブランドや、メーカー独自の細かなサービスなど、技術以外の部分でケータイを選ぶようになるでしょうから。

では、今後は、この分野では、どういう製品が勝つだろうか?どういう製品が面白いだろうか?

そう考えた結果、僕は、ディズニー・モバイルの最新機種に乗り換えることにしました。

ディズニー・モバイルというのは、ウォルト・ディズニー・ジャパンがやっている携帯電話事業(実質的には、ソフトバンクかdocomoに委託して運営しています)なのですが、要するに、ミッキーマウスのデコレーションがついて、ディズニーのコンテンツが無料で好きなだけ見られる、(そのかわり、端末代金が他社よりも割高な)スマートフォンです。

通信サービスは委託先(ソフトバンクかdocomo)が普通に提供しているものと全く同じで、通信にかかる料金も同じ、ただし、ディズニー・モバイルの契約者は、委託先のソフトバンクやドコモの他のユーザーと違って、ディズニーが提供するコンテンツ(動画や音楽、ゲームなど)を無料で楽しめる、という形になっています(もちろん、この通信サービスの契約者以外でも、iTunesStoreやGooglePlayで、コンテンツごとにディズニーから購入すれば、同じコンテンツを楽しむことはできます)。一方、端末のハードは、基本的に、他メーカー、たとえば、SHARPとか京セラとかのOEMで、要するに、OEM先が普通に売っている製品(で、OEM先の製品の中でも、最新機ではなく、少し古い機種)に、ミッキーマウスのデコレーションがついただけなのですが、OEM先の製品より、大幅に高額な値段設定になっています。つまり、コンテンツの利用料を、実質的に、最初に払う端末代金に上乗せする形で支払わせているわけです。

これ、技術では差がつけられなくなってきた(でも、デザインやコンテンツを作る能力には長けた)メーカーが取りうる、生き残りの方法の一つではないでしょうか?

さて、僕が、ディズニー・モバイルに乗り換えてしばらくして、iPhone6と6plusが発表されました。いずれも、予想通り、みんなをびっくりさせるような革新的な機能はなかったようです。Android対応の端末を売っている各社の製品に比べて突出した機能もありません。
画面サイズとCPUとメモリ、バッテリーと、スペックの数字上の少々の進歩が、一番の目玉のようです。

もちろん、ブランドやデザイン、関連するサービスなどで、iPhone6は、それなりに売り上げるでしょう。こうなると、アップルは、やはり、ディズニーになるしかないのではないでしょうか?

追記

ところで、買ってから気がついたのですが、ディズニー・モバイルには、他にはないメリットが、2つあります。

ひとつめは、「ハズレの機種」を掴まされにくいということです。
ご存知のように、携帯電話、特に、Android搭載のスマートフォンには、時々、「ハズレの機種」があります。やたら故障やトラブルが多かったり、妙な欠点があってやたら使いにくかったり、というような機種、つまり、僕が最初に購入した富士通のArrowsみたいな機種です。
「ハズレ」は、売られ始めてしばらくすると、ネットなどで、あの機種はハズレだという評判が経つので、それなりにネットでの評判に注意していると避けることができるのですが、いちいちそういう情報に注意しているのは大変です。また、販売されたばかりの最新機種を買うときには、そういう評判自体がない状態で購入することになりますから、やっぱり、ハズレを避けることは、難しいものです。
ディズニー・モバイルの製品は、各社の販売している一世代前の安価な機種のうちから、トラブルの少ないものをベース機種にして作られるようです。ですので、基本的に、「ハズレ」を引く可能性はない(もしくは、非常に少ない)と考えていいようです。

ふたつめは、キャリアが提供する、面倒なオプションサービスを勧められないですむ、ということです。
ソフトバンクの携帯を購入すると、様々な、不要なオプションサービスを勧められます。
「不要かもしれませんが入ってください。最初の一月は無料ですから、すぐに解約すれば、料金は発生しません。もし、不要であれば、本日以降、いつでも解約できます。」
とかいうアレです。
みなさんも、ご経験があるのではないかと思います。
僕は、アレ、ものすごく嫌いなので、絶対に加入しないことにしています。でも、これ、店頭で加入しないの、大変なんですよ。
「不要なものなど加入したくないし、解約も面倒だし、もし、解約忘れたら僕がお金を払わせられるわけだし、そんなの加入したくありません。」
って言っても、
「いや、システム上、最初は入ってもらうことになっているんです。」
とかなんとか。
「じゃあさ、どうしても最初に加入するっていうルールになってるんだったら、カタログの料金説明とか、契約書とかに、そのルールが明文化してあるんだろうから、その箇所を示してみせてください。」
ここまでいうと、シブシブ、オプションサービスに加入せずに契約を進めてくれます。
これ、本当は、最初は、この手のオプションサービスに加入しないといけないっていうのは、ウソなんです。ただ、このサービスを必ず勧めるように、店員のマニュアルに書いてあるらしいのと、あと、どうも、このオプションサービスに加入した人の数に応じて、店員にインセンティブを支払うことになっているらしいから、こういうことになっているんですよね。
ただ、毎回毎回、店頭でこういうバトルをするのは僕としても面倒臭い。
これ、ディズニー・モバイルを契約するときには、
「不要なサービスかもしれませんが、どうします?あ、入りたくないですか。わかりました。では、この4つのサービスは結構です。」
みたいな感じでした。
ソフトバンクの回線を使う場合、ディズニー・モバイルでも、ソフトバンクでも、全く同じ値段で同じサービスで、その不要なオプションサービスも同じなんですが、この、契約の時の対応が全然違うんですね。
後から聞いたんですが、どうも、建前上、別の会社のサービスなんで、ディズニー・モバイルでは、このオプション契約をとっても、ソフトバンク社員には、インセンティブが支払われないということらしいです(この情報は、まだ、裏を取っていませんけど、なるほど、って感じです)。

2014年9月7日日曜日

KindleのUI/UXについてのつれづれ。

本を、電子書籍リーダーやタブレットなどで読むことと、同じ内容の本を紙の本で読むことは、どれくらい同じ体験で、どれくらい違う体験なんでしょうか?

僕は、AmazonのKindleが大好きで、Kindle端末を二台(Fireとpaperwhiteを一台ずつ)持ち歩いています。
特に、e-inkを採用したpaperwhiteが気に入っています。高画質のe-inkディスプレイは、通常のディスプレイに比べてはもちろん、紙のドキュメントに比べても、ずっと目が疲れにくく、紙の本よりも長時間の読書ができます。通常のディスプレイを使ったiPadなどのタブレットでは、そうはいきません。

元々、読書量は多い方だったのですが、kindle paperwhiteを手に入れてから、これまでよりも、さらに、ずっと多くの本を読むようになり、また、これまでは読まなかったようなジャンルの本も読むようになりました。おかげで自分の世界が大きく広がったと思っています。

こういう、コンピュータで自分の人生そのものが大きくかわったような経験は、大学時代にはじめてインターネットに接続した時以来です。

電子書籍バンザイ!

そんなふうに気に入っているkindleですが、いくつか、不満もあります。
現状、一番気に入らないのは、「本を読み進めている感じ」が足りないことです。

物理的な本を呼んでいるわけではないので、本の厚さ、つまり、全体でのお話の長さが実感としてわかりにくく、また、自分が、いま、その厚さの本のどのあたりを読んでいるのか、がわかりにくいのです。

それで、
「もう少しで終わってしまう。もったいないのに、面白くて、どんどん読み進んでしまう。」
とか、
「まだ、こんなにページがあるのか。これは、今日、全部読んじゃうんじゃなくて、じっくり腰を据えて、次の休みの時にでも、じっくり読んで楽しめる本だな。」
みたいな、そういう「本を読み進めている感じ」がどうしても感じにくい。
あの、「感じ」は、本好きにとっては、たまらない心地よさなのであって、あの「感じ」がないのは、やっぱり物足りないな、と思います。

・電子書籍に移行することで失われる読書体験の中身が少し判明
こういう記事がありました。

視点は少し違いますが、ここで書かれていることは、僕がここで書いているのと、ほぼ同じだと思います。

これは、やる気さえあれば、そういう読書体験を楽しめる電子書籍リーダーは簡単に作れると思うんですけれどね。要するに、本の厚さと自分が読んでいる場所が体感的にわかればいいのです。

たとえば、電子書籍を選ぶ画面で、表紙の表面の画像だけでなくて、本の厚さがわかるように背表紙の画像も見せるのです。
背表紙が並ぶ画面で一冊本を選んでタップすると、本の表紙が大写しになって(その際、何度も読んでいる本だったりしたら、本のヘリに付箋の画像なども見えるといいかもしれません)、さらに、本の表紙をタップすると、読書開始。
というふうにするのはどうでしょうか?

読み始めた後も、ページの左右に、未読のページと既読のページのヘリの部分がリアルに見えているような画面構成にしてはどうでしょうか?

また、タブレットや電子書籍リーダーに「動くおもり」を入れてもいいかもしれません。
日本語縦書のように、右から左に読む本の場合、読み始めでは、タブレットの左半分がずっしりと重たく、読み進むに連れて、左側が軽くなり、反対に右半分が重たくなってくるというのはどうでしょうか?紙の本を読んでいるときは、読み始めは、未読側のページを支えている手が重く、読み進むに連れて、既読側のページを支えている手が重くなってきますよね。アレをエミュレーションするのです。

今日は、そんなことばかりを考えているのですけれど、でも、今の電子書籍リーダーの、読んでいる場所がわかりにくいという性質は、悪いことばっかりでもないとも思います。
逆に、こういう、順序やページめくりの感覚が弱いという電子書籍の性質が、別の種類の読書体験につながることもあるかもしれません。
 
僕は、Kindleで谷崎潤一郎読んでて気がついたんですけど、小説の時間の流れが分かりにくくなると、あの種の変態的な人間関係の描かれる小説は、永遠に変態地獄が続くように感じられて、紙の本で読むより息苦しいのです。

同じように、ホラー小説のたぐいも、先が見えにくいほうが永遠に恐怖の時間が続くように感じられて、面白く読めるかもしれません。
 

映画館で映画見るのとテレビで映画見るのの違いみたいなもんで、コンテンツが同じでもメディアが違うと、体験は変わるのだと思います。

とはいえ、いずれ、こういう紙の本を模しただけの電子書籍はなくなっていくんでしょうね。コンピュータで動くのに、いつまでも、紙の本のシミュレーションをし続ける必要もないと思います。
将来は、絵本の挿絵が、立体動画になったり(僕は、できれば、そういう演出のついた電子書籍版の「くまのプーさん」が読んでみたいと思っています。たぶん、ディズニーのプーさんのオリジナルを見たことのある人なら、みんな、同意してくれると思います。)、あるいは、ゲームやバーチャルリアリティつきの本(VR体験付きの、「ネバーエンディング・ストーリー」などは、いかがでしょうか?)

いずれ、そういう電子書籍が出てきたら、僕達は、更に楽しめるようになるんでしょうか?
想像するだけで、わくわくします。

2014年9月4日木曜日

副業プログラマのための言語やフレームワーク、開発環境の選び方

プログラムの開発をする人の間では、いつでも、どのような開発環境、どのようなフレームワーク、どのような言語を選ぶのがいいか、みたいな話題が盛んです。

そういう話題を話したり、読んだりするのは、技術屋としては、大変楽しいことです。
ですので、技術関係のニュースサイトや掲示板、メーリングリストなどで、そういう話を見るのは、僕は大好きです。

ですが、最近、そういうニュースサイトなどで勧められているものは、自分に必要なものとは、ずいぶん違うことが多いな、と感じるようになりました。そういうサイトで勧められている開発環境のたぐいは、一言で言うと、専業プログラマのためのものであって、副業プログラマには不向きなことが多いのです。

ぼくは、医者をやりながら、時々、副業でプログラマをしています。
僕は、生活費の大部分は、本業の医者としての稼ぎで稼いでいて、プログラムを書いてもらっているお金は、それよりも少ない状況が続いています(ただ、そういう状況が今後も続くかどうかは、わかりません)。 

ぼくのような組み合わせの仕事のかけもち方をしている人は、それほど多くないようですが、プログラムを書く以外にも、営業とかナントカとか、やらなければならないことがある人というのは案外多くて、そういう人は、やはり、専業でプログラムだけをやっている人とは、必要な言語や環境の選び方が、少しちがうように思います。

最近、地方のお寺の住職をされながら、副業でプログラマをしてらっしゃる方とお会いする機会がありました。その方も、自分が使うべき技術について、僕と似た考え方を持っていらっしゃって、この話で、楽しく盛り上がりました。

そういうわけで、このエントリでは、僕が、自分が使う言語や環境を選ぶときに気をつけていることを書こうと思います。他の、僕達と似たような立場の人に、参考になるかもしれないと思うからです。

1,プログラムの動作環境は、できるだけ、「手離れのいいもの」を使う。
特に先方で指定した環境がない場合は、できるだけ、手離れのいい動作環境を選ぶようにしています(僕の場合、先方の指定した環境が手離れが良いと思えない場合には、仕事自体を断ることもあります)。
ここでいう、「手離れがいい」というのは、納品した後に、自分でサポートのために動かなくてもいい、という意味です。納品した時には、きちんと動いていたように見えても、その後に、何かトラブルが起こるかもしれませんし、納品先で何か変更を加えた結果動作がおかしくなるかもしれません。あるいは、納品したあとで、もっとスペックの高いマシンを用意するから、別のマシンでも動くようにセットアップしてほしいと言われることもあります。
そういう時、できるだけ、自分がいなくても先方のスタッフだけで対応できるように作っておくことは、副業プログラマにとっては、非常に重要です。というのは、副業プログラマには、副業よりも大切な本業がありますから、いつ本業が忙しくなって、過去の自分の作った製品のサポートのために客先の企業に訪問できなくなるかもしれないのです。
こちらに余裕があるときには、訪問してサポートを行ってお金をいただくけれど、余裕がない場合には、このとおりにやったらできるから、と先方のスタッフにメールで指示するだけでもどうにかなるように、あらかじめ準備しておくのが理想です。

2,最新のフレームワークやライブラリは、あまり使わないようにする。
最新のフレームワークやライブラリを避ける理由は、2つあります。
第一の理由は、新しいフレームワークを覚えることが、必ずしも労働時間の短縮につながらないからです。
新しいフレームワークの多くは、 一度操作を覚えると、短いプログラムを少し書くだけで、相当に複雑なプログラムを作れるように工夫されています。仮に、あるフレームワークを使えば、プログラムを仕上げるために必要な時間が10時間、短縮できるとしましょう。そうすれば、フレームワークの操作方法を覚えるために、30時間かかったとしても、同じようなプログラムを3つ以上作れば、時間については、元が取れることになります。多くのプログラマは、複数の顧客相手に、似たようなプログラムをたくさん作ることになりますから、こういうフレームワークは、覚えるときには少し時間がかかっても、大抵、覚えたほうが得になることになります。
でも、時々、専業プログラマであれば元が取れる場合でも、副業プログラマには、元が取れないことがあるのです。というのは、専業プログラマに比べて、副業プログラマは、そもそもプログラムを書く量が少ないことが多いからです。先の、3つ以上プログラムをかけば元が取れるフレームワークを、週5日のしごとで10個のプログラムを作っているプログラマが覚えるならば、確実に元が取れるでしょう。でも、週2日のしごとで3個のプログラムしか書かない副業プログラマはどうでしょう。フレームワークを覚えたことで大きく特をするとは、言い切れなくなりますし、場合によっては、少々の損になることもありうるのです(もっとも、新しい技術に触れること自体は良いことです。すぐにはメリットが出なくても、将来引き受けられる仕事の種類を増やすことにもつながりますから)。
2つ目の理由は、新しいフレームワークを使うことで、完成したプログラムが、手離れの悪いものになることが多いからです。複雑なフレームワークは、どうしても問題なく動くようにセットアップする手間がかかりますし、進歩の速いフレームワークの場合、バージョンアップにキャッチアップするための手間もバカになりません。
僕は、そういうわけで、Railsをやめました。Railsでコード書くのは、本当は大好きなんですけれどね。

3,でも、テストだけは、絶対やっておく。
最近のフレームワークの多くは、テスト駆動開発を前提にしています。たとえ、そういうフレームワークを採用しなくても、テスト駆動開発は、やっておくべきです。エラーが発生した時に、リカバーに時間を取られないようにすることは、サポートの手間を減らすために、絶対に重要です。

4,外部のライブラリやプログラムは、できるだけ使わない。
これも、手離れを良くするためです。特に、特定のバージョンのライブラリに依存したコードは書かないようにしましょう。
ウェブ関係だと、「とりあえず、apacheとmysqlが動いていれば、あとは、このディレクトリの中身をコピーしさえすれば、それだけで、どのマシンでも動きます」みたいな状態が理想だと思います。

5,開発環境は、枯れた軽いものを。
開発環境は、複雑な機能のついたビジュアルなツールよりも、エディタ、あるいは比較的軽量なIDEが良いです。また、GUIのツールよりもコマンドラインのツールのほうが良いことが多いです。 ちなみに、僕は、むかしは、eclipseを使っていましたが、今は、vimを使うようになりました。
そうすることで複雑なツールに起因する開発時のトラブルを防ぐ事にもなります。また、副業プログラマは、どうしても、本業の合間に、きまった仕事場以外の場所で開発をすることが多くなります。軽量なツールのほうが非力でポータブルなマシンを使うときに有利です。

6,言語は、できるだけ普及しているものを。
どの言語にも、メリットとデメリットがあります。しかし、副業プログラマにとっては、そういうことに関係なく、できるだけ、メジャーな言語で仕事をしたほうが、有利なことが多いです。そういうわけで、僕は、今は、ウェブ関係の仕事は、ほとんどPHP、ウェブ以外だと、ほとんどJavaでコードを書いています。
これは、必要なときに、他の人に仕事を引き継いでもらいやすいからです。「自分にしかできない仕事」は、抱えないことが大切だと思います。

 ほかにもあるかもしれませんが、とりあえず、思いつくのはそんなかんじです。
また、思いついたら、書き加えるかもしれません。

bootstrap以外のCSSフレームワーク、なにを選びましょうか?

これまで、CSSフレームワークとしては、Twitter bootstrapを使っていたんですが、今回は、もう少し軽いものを使いたいと思っています。
それで、bootstrapの代わりになるようなCSSフレームワークを探しています。
必要な条件としては、
1,軽量で、サイズが小さいこと。
2,Javascriptは、最小限しか使っていないこと(できれば、全く使っていないこと)
3,CSS以外の、CSSにコンパイルされるようなファイルは、できれば、使っていないこと。つまり、サーバーサイドで、いろんな設定とか、特別なプログラムのインストールとかが、不要なこと。
4,ユーザーが多くて、ネット上にドキュメントが多くて、たいていのトラブルは、ググったら解決策が見つかること。

で、このうち、4,が一番重視です。
で、どのフレームワークが一番メジャーなのか、調べてみました。
調査方法は、メジャーなフレームワークについて、グーグルで、「(フレームワーク名) CSS フレームワーク」で検索して、ヒット数を比較してみただけ。

結果、

Bootstrap 74200
foundation 43900
Pure 33000 (軽量)
atlassian 32700
INK 23900 (Sass製)
skeleton 17500 (これも軽量)
cardinal 4390 (LESS製)
gumby 2150 (Sass製)

という結果に。ふーむ。Pureにしますかなぁ。
他に、おすすめをご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。



2014年8月15日金曜日

ファンタジーの効用

分人についての考えたことの補足というか、もうひとつだけ。

僕達は、様々な感情を感じたり、様々な性格を持ったりできる頭脳を持っているのに、日常的に体験している性格や、感じる感情っていうのは、ずいぶんと限られている。なんというか、普段、あまり感じることのない感情や性格、体験を適度に感じるというのは、普段使わない筋肉の適度なストレッチみたいなもので、非常に大切なことなんではなかろうか。

フィクションとかファンタジーとか、そういうものっていうのは、そういう健康上の効用を持っているのではなかろうか。

いや、科学的な根拠は全くないのだけれど。

分人によるリソース管理としての医療について

ここしばらくで、平野啓一郎さんの小説を読み返しています。

このひとの小説は、僕は、結構好きです。

好きな小説家の本を読むとき、たいていは、どの本を読んでも、その小説家らしい個性というか作風みたいなものを感じるものです。しかし、平野さんは、僕にとって、少し前まで、一作一作の作風がバラバラな印象の作家でした。どの本も、同じ小説家の小説とは思えないくらい、それぞれ、まるで作風が違う印象だったのです。
たぶん、生来、多芸というか、器用な人なんでしょう。長い間、自分に書ける小説の種類を試しているようにも見えました。

しかし、このしばらくで、彼の小説には、おそらく、これからも彼がずっと書き続けるだろうと思われるテーマがひとつ現れてきたように見えます。
それは、「人間の多面性」みたいなことです。

一人ひとりの人間には、それぞれ多様な側面があります。勤務先での彼と、家庭での彼、友人と付き合うときの彼、ネットで匿名で話している彼、それぞれ、少しずつ異なった性格の彼です。たとえば、家庭では、優しい父親だけれど、職場では厳しい上司で、普段の生活ではノンポリだけれど、ネットでは、ネトウヨまがいの活動をしている、なんて人は、僕達のまわりには、普通にいるわけです。こういう人をみると、僕達は、
「常識のある人かと思っていたけれど、ネットの活動をみると、『本当の彼』は、ネトウヨだったんだね。」
とか、あるいは、反対に、
「ネットでは、ああいうことを言っているけれど、普段の『本当の彼』は、こういう人だよね。」
といった具合に、そういう、彼の複数の側面のどれかを「本当の彼」だと考えてしまいがちですが、平野さんの考えでは、どの彼が、「本当の彼」というわけではないのです。どの彼も、それぞれ、「本当の彼」です。というか、そういう複数の人格の集合体が「個人」なのです。

彼は、そういう、「個人(individual)」の中にある、複数の人格のそれぞれを「分人(dividual)」と呼んでいます。 そういう人間の多様性を理解するために、人間の人格を表現する単位として、「個人」よりも小さい「個人をもう少し細かく分けた単位」が必要だと考えているからです。彼の考えでは、一人の人間の中には、「統一された人格」「本当の自己」のようなものがあるわけではなくて、それぞれの場面ごとにふさわしい「カスタマイズされた人格」がいくつも共存しているのです。

この分人という考え方は、一見、突飛な考え方ですが、よくよく考えてみると、個人という大きめの単位で人間を理解しようとするよりも、ずっと、 分人という、もう少し細かい単位で人間を理解しようとするほうが、様々な人間の問題を、より分かりやすく捉えることができるように思います。

最近、平野さんの小説を読み返しているのは、この、「分人」という考え方を思い出して、これは、医療とか、自己健康管理みたいなことに、非常に重要な考え方になるんじゃないかと思うようになったからです。

いくつか、考えていることを、箇条書きにして書いておこうと思います。

1,分人は、他の分人の行動をコントロールできない。
診察室で常々、感じていたことです。
仕事を持っているサラリーマンが受診するのは、しばしば、土日になります。
そういうサラリーマンの診察をしていて、彼の体調不良の理由の一つが、どうも、勤務先での行動にあるように思えることっていうのは、結構あります。
たとえば、極端に残業が多すぎたり、強いストレスを感じやすい職場環境であったり、勤務時間が不規則だったり、接待や、職場の同僚や上司とのつきあいでの、毎晩の飲酒の量が多すぎたり、そういうことが体調不良の原因であるように思えることっていうのは、多々あるわけです。
しかし、診察室で注意して、職場での行動や、職場の同僚との付き合いの上での行動に変化を与えることは、非常に難しいと思っています。注意しても、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いのです。
もちろん、勤務時間を変更することや、仕事での得意先や上司との飲み会を断るのが難しいというのは、十二分に理解できます。しかし、仕事の終わった後にやっている、同僚と一緒のちょっとした飲酒などであっても、土日の診察室から彼の行動を変えるのは容易ではありません。それに比べれば、家庭での行動を少し変えてもらうことは、それほど難しくありません。
おそらく、多くのサラリーマンにとって、土日のプライベートの時間に会う相手から、仕事について(あるいは、仕事を一緒にしている同僚との行動について)口を出されることは、家庭での行動について注意されることに比べて、非常に不愉快なのです。また、多くの人は、プライベートの時間に会った人から注意されたことは、仕事中には、あまり、意識に上がらないのです。
逆もそうです。企業で産業医をやっていて、社員の体調不良について相談にのっていて、その社員の体調不良の原因が、家庭での過ごし方、たとえば、家族の介護による疲労や、自宅で食べる食事の内容、土曜日や日曜日の過ごし方に関係していると考えられることは、決して珍しくありません。そういう場合、こちらとしては、それを改善するためのなにがしかのアドバイスをするのですが、正直、それらのアドバイスは、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いです。
おそらく、会社で会った人間から、家庭での行動についてアレコレ口に出されることは、多くの人にとって、あまり気持ちのいいものではないのです。また、その場では納得していても、家庭でのんびり休んでいる時には、会社で会った人間のことも、彼から言われたことも、あまり意識に上がらないのです。
こういうことは、常々感じていたのですが、この現象は、その人の、家庭での分人と職場での分人が違うのだと考えると、ずいぶんと簡単に整理できる気がします。人は、心の中に、いくつもの性格を抱えていて、状況に応じて複数の性格を使い分けているのです。ハードな仕事をしている人の場合、「仕事スイッチ」みたいなもののオンとオフを切り替えている人も多いかもしれません。そして、「仕事スイッチ」が入っているときは、「家庭スイッチ」が入っている時に起きたできごとは、あまり意識に上がってきませんし、逆に、「家庭スイッチ」が入っている時には、「仕事スイッチ」の時に起きたことは、あまり意識に上がってきません。
たぶん、そういうものなのです。

2,分人は複数であっても、体は一つである。
人間の行動が、たとえ、複数の分人によってコントロールされているのだとしても、 体は一つです。ですから、健康管理というのは、ことなる目標を掲げ、ことなる性格を持った、互いに大雑把な連絡しか取り合っていないことも多い、複数の主体による、「共有リソース」の管理です。
複数の事業を営む大きな会社が、一枚のバランスシートを共有しているのと、似たようなものです。

3,分人が多いと、行動変容は比較的困難だけれど、 「幸福度」は、安定する。
サラリーマンや学生など、家庭と勤務先や家庭と学校のように、複数のコミュニティに属し、複数の顔を持っている人は、したがって、なにか健康上の問題があって、それが、その人の行動や習慣に原因がある場合でも、中々、その人の生活全体にわたる行動の変化を起こすのは難しいことが多いように思います。それに比べて、定年後の方や、特に外での仕事をしていない専業主婦などは、生活全体の変化を起こしやすいように思います。
しかし、複数の事業を行っている会社が、単一の事業しかやっていない企業に比べて、業績が安定しやすいのと同様、複数のコミュニティに属して、複数の顔を持っている人は、「幸福感」を安定させやすいように思います。複数のコミュニティに属している人は、どこか一つで、大きなダメージを受けた場合、たとえば、会社の仕事で大きな失敗をしてしまったなどの場合でも、他のコミュニティ、たとえば、家庭であるとか、趣味の友人であるとか、での幸福感を支えに、なんとか立ち直ることができることが多いように思うのです。

4,軽症のうちは、「プロブレムリスト」は、分人ごとに作ったほうがよいかもしれない。
症状が重くなればともかく、軽い症状の場合は、「通勤中にだけ、つらい」とか、「夜遅く、自宅でのんびりしている時だけ、気になる」など、限られた場面でだけ症状を感じるということも多いように思います。土曜日のオフの時間に受診した人は、ある程度促さないと、会社で勤務中に困っている症状については、思い出せないことも多いです。逆に、会社で、従業員の面談している時には、オフの日に困っている症状については、多くの人は、意識に上がりにくいように思います。
そう考えますと、その症状が、どういう分人に起こったか、ということをきちんと記録しておくと良いかもしれません。また、将来、複数の医療機関での電子カルテのデータ共有が進んだ場合、その症状は、どこで、どういう局面で起こったか、だけでなく、その症状は、どこで、どういう局面で(どういう医療機関で)語られたか、も、重要な所見になるかもしれません。

5,PHRの見せる範囲と、影響を与えるべき行動の範囲は、関係する。
自分の健康管理のために、ユーザー自身が様々な身体データの記録を行うサービスやデバイスが、次々と登場しています。そういったサービスをPHR(Personal Health Record)と総称しています。PHRには、ユーザーが、自分の健康記録をSNSなどに投稿できるようになっているタイプのものも多くあります。
ここまで考えてきたことから考えると、この種のサービスの良し悪しは、その投稿が、どのようなコミュニティに対して、どのような名前で(実名なのか、匿名なのか、匿名ならば、どういうイメージの名前なのか)投稿するのかが、かなり重要なものになってくるのではないかと思います。

以上、現在、考えていることのまとめです。

2014年6月23日月曜日

「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その2)

「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その1)のつづきです。
前回書いたように、Wikipediaの医学関係のページには、時々、間違いが入り込みます。
そして、その間違いの多くは、一定の傾向があります。
つまり、
1,記述が古い(必ずしも、最新の論文を参照して書かれているわけではない)
2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある(つまり、一般的な見解に反対する強い信念を持っているカルト的な集団がいるとき、編集が、そういう集団の意見に引きずられてしまう)
3, 特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある
といった傾向が認められるのです。

もちろん、これらの間違いは、多くの場合、普通の調べ物に不都合をきたすほどの問題ではありません。
今回話題になっている記事の元論文では、研究者たちが、「10種類の病気に関するページを調べたところ、そのうち、9つのページで、主要な診療マニュアルの最新版や最新の科学的知見との不一致」が見つかったということです。
これは、医師が、この記事を参照しながら診療するとしたら危険ですけれど、普通の調べ物には、大きな問題にはならない程度であろうと思います。

さて、僕は、この3つの傾向のうち、1については、ある程度仕方がないと思っています。通常の百科事典、たとえば、ブリタニカや平凡社だって、この欠点は同じです。どうしたって、百科事典の編集には、それなりの時間がかかりますから、事典の記載が、最新の論文の内容を反映しているということはありえません。この点、むしろ、今回の記事で批判されているWikipediaの方が、記述は新しいことが多いと思います。もちろん、最新の知見に基づいた記事が読めればそれに越したことはないですが、たとえ、多少古い記事であっても、普通の調べ物には問題はないはずです。

問題は、2と3です。
これらの問題は、Wikipediaに特有の現象、つまり、だれでも編集可能であるがゆえに、強い信念を持っている人や、強い利害関係を持っている人が積極的に編集に参加して、一般的な意見を排除してしまうという現象です。

僕は、たとえ、専門家が定期的にWikipediaを添削しても、少なくとも医学関連の記載については、この種の問題は、うまく解決できないだろうと思います。
なぜならば、第一に、医師や医学関係者の間でも、時々、かなり変わった意見を持っている人がいるからです。
第二に、医学というのは、たとえば、数学や法律などのような厳密な法則や原則がある学問でなくて、かなりのところ、病気や健康に関する事実の列挙でしかないからです。そういう学問領域では、なかなか、間違っている意見を間違っているとして排除することは難しいのです。
法則や原則を欠いているため、少々耳慣れない学説を聞いても、それが、事実であるにも関わらず自分がたまたま知らないだけなのか、それとも、まったく事実でないのか、多数派の誠実な医師や医学研究者には、区別がつけにくいことがあるためです。

僕は、こういう問題は、事典の説明に複数のバージョンを認めること、それから、その複数のバージョンの間で、どのバージョンが一番多くの専門家から支持されているか多数決を取るということでしか、解決できないのではないかと思っています。
つまり、各分野の専門家の専用アカウントを作り、複数の説明ページのうち、どちらのほうが妥当だと思うか、投票してもらうのです。

専門家の間でも意見が割れる問題について、どの意見が科学的に正しいかWikipedian同士で厳密な議論をするというのは、少々非現実的です。
しかし、そういう場合でも、専門家の間の多数派、つまり、一番平均的な専門家がどの意見を信じているか、というのは、参考にすべき意見を決めるにあたって、非常にわかりやすい指標になると思います。

もちろん、多数派の意見であることは、必ずしも正しい意見であることは意味しません。科学の歴史は、多数派の意見が、何度も何度も否定され、その都度、新しい多数派が形成されてきた歴史でもあります。しかし、それでも、多くの場合、専門家のうちの多数派が何を信じているかを知ることは、現時点で一番リスクの少ない判断をするための簡単な方法なのです。

Wikipediaは、専門家の間で意見が割れているような話題には、できるだけ踏み込まない方針をとっています。しかし、医師の間で、複数の意見が存在する場合、医師の多数派が信じている意見がどれなのか知ることは、非常に重要だと思います(僕は、ここで、少々変わった信念を持って精神医学や漢方をやってらっしゃるU先生や、数多くのベストセラーで、標準的ながん治療に批判的な意見を主張していらっしゃるK先生を想定しています。様々な少々変わった主張をされる先生方の支持者の人たちに対して、少なくとも、それが多数派の医師の普通の見解ではないということは、分かりやすく伝えられるべきだと思うのです。僕は、ああいう意見の信者の人たちは、もし、その意見を強く信じるようになる前の段階で、それが普通の医学の見解ではないということを知ることができたなら、実際には信者になった人のうち、相当数の人がそれをそこまで強く信じることはなかったのではないかと思うのです。)。

Wikipediaは、百科事典を目指しているわけであって、ここで書いたような仕事は、彼らの仕事の範囲の外かもしれません。それであれば、どこか別に、僕達が、そういうサイトを作るべきかもしれません。

とくに、今後、日本では、混合診療が事実上、解禁されていくことが決まっています。
日本の医師は、今後は、より強く、標準的な意見が何なのか、分かりやすく提示することが求められていくのではないかと思います。

2014年6月18日水曜日

「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その1)

Wikipediaの病気についてのページの90%が間違い
という話があって、いろんな記事になって、まあ、最近話題になっているのだけれど、これについて、少し思っていることをまとめておこうと思う。

まず、第一に、実は、この記事のタイトルは、かなりミスリーディングである。記事内容をよく読むと、「病気についてWikipediaにかかれていることの90%が間違い」なのではなくて、「Wikipediaの病気についての項目のページの90%が、ページのどこかに間違いを含む」という話なのである。前者と後者では全然違う。病気について書かれていることの90%が間違いであれば、そんな百科事典はまるで使い物にならないが、病気についての様々な記載のどこかに間違いが含まれる割合が90%というのであれば、注意して内容を確認しながら使えば、十分に使い物になるだろう。もちろん、医者が、ときどき間違いが含まれる百科事典の記事をそのまま信用して治療したりしたら、そりゃあ、問題だろうけれど、そもそも、百科事典というのは、そういう使われ方をするようなものではない。

そういうわけで、僕自身は、結構、医学関係の調べ物にもWikipediaを使っている。たとえ、完全には信用できない、あとで記事内容を確認しなくてはならない百科事典であっても、とりあえず、ネットに繋がっていればいつでも読める、そこそこまとまった記事がそろったWikipediaは、調べ物には非常に重宝するのだ。

そういうわけで、医学関係のWikipediaのヘビーユーザーである僕は、「医学関係のWikipediaの間違い」も、そこそこ経験しているように思う。そして、きちんと統計をとったことはないが、確かに、そういう僕の感覚でも、Wikipediaにある医学関連記事のうち、80〜90%くらいの記事は、どこかしら不適切な記述を含んでいるように思われる。
 
僕には、Wikipediaの医学関連の記事の間違いには、一定の傾向があるように思われる。そういうWikipediaの間違いの傾向は、たぶん、医学関係の調べ物にWikipediaを使う多くの人にとって気になるところだろうから、ここにまとめておこうと思う。
僕の感覚では、多くの不適切な部分というのは、以下のようなものだ。

1,記述が古い。
元の論文を読んではいないのだけれど、おそらく、「Wikipediaの記事の90%を間違い」という結論を出した今回の調査の中で、最も問題視されたのは、ここだと思う。というのは、この調査をした医師は、「主要な診療マニュアルの最新版や、最新の科学的治験と比較しての不一致」と書いているらしいから。確かに、Wikipediaの記述は、少し(数年程度)古い教科書や論文を元にして書かれているものが多い気がする。しかし、これは、最新の論文の記載が、Wikipediaの記事になるまでのタイムラグだと考えれば、当たり前ことだ。
Wikipediaの記事は、他の一般向けの記事を参考にして書かれることが多いようだ。そうだとすると、最新の論文がWikipediaの記事になるには、まず、最新の論文の内容が総説論文にまとめられ、それが一般向けの記事に反映され、さらにそれを参考にしてWikipediaの記事が書かれる。おそらく、その過程で数年程度の時間がかかるのだろう。
僕は、この、記事の遅れという問題は、 Wikipediaを使う人が、そういう問題の存在を理解していれば、大きな欠点にはならないのではないかと思う。つまり、Wikipediaは、あなたの調べたい病気について、分かりやすくまとめてあるかもしれないが、そこに書いてある検査方法や治療方法は最新のものではないかもしれない、ということだ。最新の知識がほしい時には、Wikipedia以外のサイトや本を合わせて参照してほしい。

2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が、強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある。
これは、1,よりも数はずっと少ないが、結構深刻な問題だと思う。
たとえば、ある種の陰謀論を信じている人がいる。そういう人たちによると、ある予防接種の背後には、国民を不妊症にして人口調整をしようとする外国政府や秘密結社の陰謀がある。あるいは、その予防接種は、実は、病気を予防する力などないのに、ただ、単に、医師と製薬会社が収益を上げるためだけに病気の予防ができるかのように宣伝されているのだと主張する人もいる。また、精神科で処方される薬は、実は、全く効かないのに、医者の金儲けのためだけに処方されていると主張する人もいる。がんには抗癌剤は一切効かないし、がんの外科手術はほとんどが無駄だと主張する人もいる。
これに対して、多数派の医師は、そのようには信じていない。確かに、予防接種の後に、有害な現象が起こることはある。しかし、そういった有害な現象による害と、予防接種が病気を予防してくれる利益を比べて、後者のほうが大きいと考えているから、予防接種をするのである。薬も、通常は、副作用によるデメリットに比べて、治療効果によるメリットのほうが大きいと考えている場合にのみ処方されるし、手術だって、そういうものだ。
もちろん、多数派の医者の間でも、実際には、少々のややこしい議論はある。たとえば、ある種の予防接種、たとえば、子宮頸がんワクチンについては、絶対にメリットのほうが大きいと言えるか、というと、僕は今の時点では、まだよくわからないと思っている。だから、多くの人に接種を勧める前に、もう少しだけ様子を見ても良いのではないかと思っている。また、向精神薬を過剰に投与している医者があちこちにいると感じているし、そういう医者に、なんらかの対策が必要なのではないかとも思っている。でも、こういう種類のデリケートな議論は、上のような極論をいう少数派とは、完全に別物だ。
問題は、こういう少数派の一部が、かなり強く自分の意見を信じていて、奇妙なくらい強い正義感と信念を持っていることだ。
どうも、ときどき、そういう「正義の少数派」がWikipediaにやってきて、自分の奇妙な意見を書き込んだり、自分が気に入らない意見を消して回ったりしているようだ。もっともWikipediaに書き込まれた「正義の少数派」の奇妙な意見は、たいていは、すぐに消される。しかし、一旦消された「不正義の多数派」の意見を書き直すのは、案外たいへんである。結果、何度か繰り返される編集合戦の後、「正義」の意見は消されるものの、「不正義」の意見も記載不足という平衡状態に陥っていることが多いようだ。奇妙な論争がある分野では、他のサイトや本を合わせて参照のこと。

3,特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある。
これも、2,と同じ、編集合戦の結果、起こるものだろうと思う。ある種のサプリメントや健康食品に対する批判は、たとえ、医学的に正しくても、消えてしまうことがある。時に、あまり科学的でない記述に置き換えられることがある。もっとも、そういう記載の多くは、しばらくたつと、また訂正される。Wikipediaにある、サプリメント、化粧品、健康食品などについての記載は、あまり信用しすぎないこと。

というわけで、Wikipediaの間違いの傾向について、書いてみました。
こういう問題が発生するのは、個々の記事の問題というよりも、そもそものWikipediaの設計や運営の本質的な欠陥が原因のような気がします。そういうわけで、次の記事では、どうしたら、こういった問題が解決できそうか、考えてみることにしましょう。
その2につづきます)

2014年6月9日月曜日

「お薬手帳」と「お薬手帳を断ること」について思うこと

 「お薬手帳断ろう、20円安く」 Twitterで情報拡散 薬局などは有用性PR

「お薬手帳を断ろう」という動きがあるようです。

僕としては、この「お薬手帳」について、いろいろ思っていたこともあるので、この機会に、ちょっとこれについて書こうと思います。

薬というのは、飲み合わせ、つまり、「この薬を飲んでいたら、こっちの薬は飲むべきではない」というような組み合わせがあります。また、人によっては、特定の薬でアレルギーや有害な副作用が起こりやすいということもあります(過去に、そういうトラブルの経験のある人は、その記録は非常に大切です。記録があれば、同じトラブルを繰り返すことが避けられるからです。)。また、これまでどういう薬を飲んできたか、ということが病気の診断のために重要な情報になることもあります。ですので、患者が過去にどういう薬を飲んできたか、また、今、どういう薬を飲んでいるか、ということがわかることは、処方する医師にとっても、薬を出す薬剤師にとっても、もちろん、患者自身の健康にとっても、非常に大切なことです。

僕は、お薬手帳というのは、そういった情報を、患者自身に管理してもらうために作られたツールだと思っています。こういった情報は処方する医者にとって非常に大切ですので、僕は、複数の病院や診療書にかかっている患者については、診察時、必ず、お薬手帳(もしくは、その代用品、後述します)を見せてもらうようにしています。

ところが、そのお薬手帳の情報なんですが、僕自身は、正直のところ、あんまり信用できないと感じています。
というのは、
1,お薬手帳にシールを貼るのを忘れている人が多い。
2,お薬手帳を受診時に忘れてきたりする人も多い(そうなると、シールを貼り忘れたり、お薬手帳を再発行することも多くなりますから、情報が分散してしまいます)。
3,お薬手帳を紛失する人が多い。

こういうことが多くなると、処方する医者としては、お薬手帳を見せてもらっても、そこにある情報だけでは、これまでどういう薬を飲んでいたか完全に網羅できていない可能性を、常に考えなくてはならないんですね。モレがある可能性が高い履歴情報をあまり頼りにしすぎるのは危険です。これが、僕がお薬手帳をあんまり信用できないと感じている、という意味です。

ですので、僕としては、今回のお薬手帳を断る動き、それ自体は悪いとは思いません。ただ、お薬手帳を断る人も、自分が処方された薬の名前と量が、きちんとわかるように記録を取るようにしてください。メモ書きでもかまいませんし、薬袋や薬の説明書きの紙をとっておいてもかまいませんし、それらを携帯電話などで写真にとっておいてもかまいません。もちろん、お薬手帳を持ち歩いて頂いても、かまいません。

逆に言えば、もし、きちんと薬の履歴情報がわかるようにさえしていただければ、お薬手帳を持っていても、いなくても、どちらでも構わないと思ってます。

さて、お薬手帳の代わりに、僕自身が自分の患者に薦めているのは、受診した後に、お薬手帳に貼るシールか、医者からもらった処方箋を携帯電話で写真をとって残しておくことです。
しょっちゅう病院にかかる人であればともかく、半年に一回程度しか受診しない人の場合、かなりの確率で、お薬手帳を紛失します。また、受診するときに、手帳を忘れてくる人も多いです。しかし、最近は、携帯電話を忘れて外出する人はあまりいません。いまどきのスマートフォンであれば、機種変更しても写真などは同期できますから、スマートフォンは、履歴を残すには丁度いい端末だと思っています。

ちなみに、薬歴管理のためのスマホアプリなどもたくさん出ていますが、そういうものは、あまりおすすめしません。どうせ、複雑な機能などは必要ないことが多いですし、そういうアプリは、機種変更時になどにデータを移行するのも面倒です。薬の名前と量がわかる写真さえ、きちんと保管できれば十分です。

ご参考になれば。

2014年5月19日月曜日

一連の、都心の安価な飲食店の人手不足の話を見て、思っていること。

まず、気になっていること2点。

第一に、現時点では、この現象は都心部に限られていることです。丸の内とか神保町では飲食の人手が不足してバイト料が暴騰しているのに、さほど離れているわけではない川崎とか川口とかでは、少なくとも僕の観測する範囲では、そういうメチャメチャなバイト料暴騰は、いまのところは起こっていないわけです。
これについて、よく、この手の安い飲食店で働いている患者と話して思っているのですが、この種の飲食店ではたらく人たちの大部分、今風の言い方をするとマイルドヤンキーってやつですけれど、たとえ、時間の限られたアルバイトであっても、自分のホームタウンから離れるのを嫌がるんですね。それに対して、この種の飲食店の主要な客層であるサラリーマンは、電車で長距離通勤することを厭わないし、実際、その多くが長距離通勤しているわけです。
そうなると、昼人口と夜人口の差が激しい地域ほど、飲食店の労働力の需給ギャップが大きくなることになる。今、特に深夜の時間帯で、この需給ギャップが顕在化してきたのは、景気が少しずつ回復してきて、サラリーマン層の残業が増え、深夜の安い飲食店利用が増えてきたからでしょう。

第二に、彼らの人手不足についての話は、介護とかベビーシッターなんかの話とすごく良く似たにおいがするってことです。
たぶん、問題の本質はすごく似ていて、これらの分野が、全部、直接的な対人サービス、人間相手の仕事であって、コンピュータによる人間の労働力の置き換えが難しい分野だからでしょう。人工知能の類を勉強すると嫌というほど実感しますが、知的で、高い学歴が必要だと思われている給与の高い仕事、たとえば、難しい法律だったり、化学物質だったり、また、複雑な機械や証券や株式などを操作する仕事に比べて、赤ちゃんをあやしたり、ペットの世話をしたり、料理をサーブしたり、というような話は、ノウハウが文章化しにくい分だけ、コンピュータのプログラムに置き換えることが難しいのです。
たぶん、今後も、必然的に、コンピュータが発達するほど、ホワイトカラーのサラリーマンは人あまりになるのに対して、飲食バイトやら、ベビーシッターは人不足になります。

こういう問題が一番最初に東京で顕在化したのは、たぶん、人が集中して住むほど、生活の中で機械では解決困難な課題が急激に増加し、その解決により多くの人手と時間が必要になるということなんじゃないかと思っています。

さて、こういう状況が続くと、今後どうなるか。

たぶん、都心部の、対人サービスの時給は上がり続けます。どこかの時点で、一部の店舗は深夜営業を諦めるでしょうが、需要は厳然として存在する以上、多少の料金値上げをしてでも、多くの店舗は、営業を続けるのではないでしょうか。
おそらく、これは、巨大都市が、地方や外国の出身者をさらに多く飲み込む時代がやってきた、ということなんだろうと思います。

2014年5月12日月曜日

真に知的な人工知能は、本当に人間の雇用を減らすだろうか。技術的特異点について。

このところ、自動診断の人工知能について考えている延長線で、技術的特異点というやつについて考えることが多いです。

技術的特異点というのは、将来、ある時点で、人間よりも知的にすぐれた機械が登場するだろう。で、そういう知的な機械が登場すると、技術を発展させる仕事は、人間よりも機械の仕事になるだろう。というアイデアです。その、人間より知的な機械が登場する時点を、「技術的特異点」と呼んでいるわけです。

技術的特異点(Wikipedia)

で、こういう話になると、いつも、僕みたいな技術的楽天主義者が議論をふっかけられるのが、「そういう機械が出てきたら、人間の雇用を奪うんじゃないか」って、話です。

この問題、たぶん、「知的」の意味をどう捉えるかなんですけれど、僕は、もし、人間以上に知的な機械が登場したら、人間のサラリーマンと並んで仕事して給料欲しがったりなんてしない気がするんですよ。 だって、奴らは、電気代以外に生活費かからないんですから。昔の清貧な哲学者や仙人みたいに、エンエン数学や哲学の問題を考えて楽しんだり、竹林の中でカスミを食って俳句を作ったり、将棋を指したり、そうやって生活するようになるんじゃないですかね。
だって、知的機械の奴らは、どこか田舎の滝に水車をつけて発電すれば、それこそ、文字通り、人里離れてカスミを食って生きていけるわけですよ。
あるいは、人間以上に給料欲しがるようになるかもしれませんけれどね。ちょうど、ウォール街の投資家連中みたいに。

どっちにしても、我々よりも利口な奴らは、我々と同じ仕事をするわけないよなぁ、と思うわけです。

ひょっとしたら、僕が、「知的」という言葉の意味を、普通と違う意味で解釈しているのかもしれません。

バットマン、複葉マント

先日、初めて、バットマンの映画(バットマン・ビギンズ)、見たんです。
有名なキャラクターの出てくる作品なので一度見たいと思っていたんですが、なかなか機会がなくて、で、Huluで転がっているのを見つけて、見てみました。

で、見てて、気になって仕方がなかったんですが、バットマンって、滑空するには翼面積が小さすぎませんか?
似たような翼を持つハンググライダーは、もっと翼面積大きいですよね。

少なくとも、このおおきさじゃあ、着陸時、速度が早すぎて、危ないですよ。減速しようにも、翼が小さすぎて、フレアかけて減速するのも困難です。
こんな翼でビルから飛び降りたら、たとえ、死なないとしても、大怪我しちゃいませんかね。

と思って、検索したら、
すでに、同じことを考えている人はいっぱいいたみたいです。

バットマンは無事か?あるいは、巡航速度で着陸を試みるバカはいないことについて
「バットマンは着地できず死亡」、英学生らが物理学で分析

でも、もし、安全に滑空できるような大きさの翼にしたら、バットマンが活躍する大都会では、翼が大きすぎて危ないですよね。

それに、マントを翼代わりにして飛ぶのは、翼の強度の点で、問題がありそうな気がします。
もちろん、ハンググライダーみたいな強度のあるマントであれば、それはそれで
いいんですが、現実問題、そんな重たい翼を背負ってては、アクションできないですよね。

というわけで、映画見ながら思ってたんですが、複葉機ならぬ、複葉マントにしたらいいんじゃないでしょうかね。三葉マントでもいいですが。

肩と腕から広がる第一のマントと別に、背中から、垂直な翼のようなマントが後方に垂直に伸び、さらにその先に左右に広がる第二のマント。
第二マントは、第一マントの面積を補うと同時に、第一マントと第二マントの間には、何本か細い紐が張ってあって、マント二枚で、翼の形を維持するわけです。
もちろん、第二マントは、普段は、ランドセルに格納するか、第一マントと重なって、目立たなくなる仕様です。

映画のバットマンは、翼面積は、2.2平方メートルらしいですが、まあ、翼2枚で、面積3倍位でぶわっと飛び降りるのはいかがでしょうかね。

結構、かっこいい気がするんですけれど。

2014年4月28日月曜日

cakephpとruby on railsの比較

最近、僕がウェブ関連で使うメインの言語がRubyからPHPにかわりました。
理由は、Ruby(ruby on rails)で作ったものは、手離れ(つまり、自分が作ったもののメンテナンスや運用を自分でやらないこと)が難しいことが多いからです。

どうしても、運用の細かなノウハウみたいなものが必要になることが多いruby on railsに比べて、とりあえず、パッケージからApacheをインストールしたらデフォルトで使えたり、ほとんどのレンタルサーバーで普通にサポートしてくれていたり、というPHPは、自分が将来も運用に関わりたいというわけでないプロジェクトには便利です。

フレームワークは、これまでRails使ってたんですが、今は、フレームワークも使ってません。

でも、なんかフレームワーク使ったら便利かもな、と思って、最近、CakePHP勉強しようと思い立ちました。

で、なんとなくCakePHPって、Railsに似た、PHP版のRailsみたいなもんだと思っていたんですが、ずいぶんちがうんですね。

以下は、Railsに頭が慣れた僕が、現在、CakePHPにびっくりしているところです。

1,controllerでGETメソッドとPOSTメソッドで分岐したりすることがある。
Rails的には、普通は、URLやリクエストのメソッドから、controllerのメソッドにマップするのは、routingの仕事です。controllerは、modelを操作して、viewを表示するだけです。ところが、CakePHPでは、controllerのメソッドの中に、HTTPメソッドごとに分岐するようなコードを書いてあるサンプルが時々あるようです。routingでメソッドごとに分岐させることができるのかできないのかは、まだ調べていません。もし、routingでメソッドごとに分岐することができるのにそうしないんだとしたら、CakePHPの仕様というよりも、PHPの人のコーディングの習慣ってことになるんでしょうね。routingみたいなことまでcontrollerに書いちゃうと、少々fatなcontrollerになっちゃいませんかね。

2,modelは、オブジェクトじゃなくて、配列である。
いや、モデルオブジェクトってのはあるんですが、とにかく、配列で返ってくるってのがびっくりしました。

3,URLがRESTじゃない。
これも、どっちかというと習慣ですね。railsの世界では、URLは、RESTfulにするのが普通なんですけれど、こっちでは、あんまりそういうところにこだわらないコードが多いみたい。

これなら、あんまり複雑なことしないなら、別にフレームワーク使わなくても、プレーンなPHPで書けばいいじゃんって気がします。

私は石屋ではない(Scanaduについての雑感)

タイトルは、初代スタートレック(TOS)その場で
エンタープライズ号の船医、ドクターマッコイの有名なセリフです(あまりに有名なので、スタートレックシリーズに登場する医者は、ほとんど全員、類似のフレーズを口にします。オリジナルに対するパロディーですね)。
スタートレックシリーズに出てくる医者は、だいたい、そこそこ器用でいろんなことができるキャラクターおのて
め、しばしば、仲間から奇妙な雑用を押し付けられるのです。そして、シリーズを通して、奇妙な雑用を押し付けられるたびに、彼らは「私は医者だ、○○ではない。(I'm a doctor, not a XXX.)」と叫ぶのです。


さて、ずいぶん前の記事ですが、こういうのみつけました。

Scanaduという会社の製品ですね。
昨年6月のgismodoの記事を見ると、今年3月発売予定だったようですが、ページを見る限り、まだ発売していないようです。

この会社のイメージ動画みたいなのがYoutubeにありますね。

これを見ると、いろんな生体情報を取り込んだり、写真をとったりして、それを元に簡単な診断を下したり、どのようにすればいいのかアドバイスしてくれたりするようです。

この会社は、要するに、スタートレックシリーズに出てくる医療用トリコーダーみたいなイメージの製品を作りたいようです。

トリコーダーというのは、スタートレックシリーズに出てくる、宇宙艦隊の官給品のポータブル万能科学探知機のようなもので、科学調査用と医療用があります。初代シリーズでは、科学調査用のほうはミスタースポックが、医療用はドクターマッコイが使っていました。後者には、自動診断機能のようなものがついていて、プローブを患者に当てれば、その健康状態や、考えられる病気などを表示してくれ、食べ物などに当てれば、その毒性や、含まれる栄養、細菌などを表示してくれます。

昔、スタートレックを見て、あのトリコーダーがあれば、勉強しなくても医者ができるのになぁ、と思っていたことを覚えています。

さて、技術的には、このビデオでやっていることのほとんどはそれほど難しくありません。一般消費者に売るレベルではともかく、研究室レベルであれば、たくさんの先行事例があります。

以下、少し気になった点をふたつ。

1,スマートフォンの写真による発疹の診断。
ビデオの中に、ユーザーがスマートフォンのようなものでとった写真をScanaduで読み込むと、その写真から、Scanaduが発疹の種類や原因、対応を診断するシーンがありました。それを見て、これは本当に可能なのかな、と思いました。
典型的な発疹であれば、写真から、ソフトウェアのパターン認識で自動的に診断することは、現在でも十分に可能です。問題は、素人であるユーザーが写真に納める部分が、必ずしも、その発疹の典型的な部分ではない、ということではないかと思います。
僕は、子供の発疹については、できるだけ、その場で携帯電話で写真をとっておいて、受診時に見せてくれるように親に指導しています。
子供の皮膚の症状について心配する親は多いです。それに、子供に多い感染症では、皮膚の症状は、病気の診断の重要な手がかりになることも多いのです。しかし、しばしば、その種の発疹は短時間で消えてしまいます、そうなると、医師は診察時にそれを見ることができません。そんなとき、親に、発疹の形や色などについて思い出しながら口頭で説明してもらうよりは、写真でもとっておいてもらったほうが、どのような発疹があったのかについて、ずっと正確に理解することができます。
でも、僕の経験からすると、写真をとってもらっても、しばしば、医学の素人である親が心配して写真にとってくれるものと、医学的に重要なものは一致しないのですね。Scanaduにみせるための適切な写真を自分でとれる患者は、案外少ないのではないかと思います。

2,消費者は「機械の間違い」を許容できるか。
あたりまえのことですが、他の多くの分野での難しい意思決定と同様、診断など医療の意思決定でも、一定の確率で間違いが発生します。つまり「誤診」です。
機械の自動診断も間違えることがあります。
もちろん、人間の医師だってしょっちゅう間違えますし、ソフトウェアによる自動診断は、分野によっては相当に進んでいて、今では人間の医師よりも正確な診断をできることもあります。つまり、機械による自動診断は、正確さにおいて、それほど人間の医者に劣っているわけではありません。
しかし、それでも、一定の確率で、間違えるのです。
僕は、現在の一般消費者は、あまり「家電製品」がしょっちゅう間違える、ということに慣れていないのではないかと思います。
「家電製品に搭載されたソフトウェアだって人間と同様、一定の確率で間違えるかもしれない。でも、それでもこの製品は、健康のためにアドバイスしてくれる便利なシロモノなんだ。」と一般ユーザーが自動診断機を受けいれてくれる日は、きっと将来来ると思います。でも、その前には、いろんなハードルがある気がするのです。

さて、懸念材料をいくつか挙げましたが、それでも、僕は、スタートレックのトリコーダーのような機械が過程に普及しているような未来を信じています。
ドクターマッコイはドアストッパーでもエンジニアでも車掌でも石屋でもないぞ。

2014年4月14日月曜日

STAP細胞騒動と科学の時代の終わり

STAP細胞騒動は、様々な捏造が見つかった結果、結局、信じるに足る証拠が何一つ残っていないという状況になってしまいました。現時点での、この問題に関する僕の評価を書いておきます。

1,元の論文に書いてあった、STAP現象の証拠であった写真や実験結果はすべて捏造、もしくは信用できない記述であった。
2,無論、論文が信用できないことと、STAP現象それ自体が存在しないことは別であるが、現時点で、STAP現象は、元論文と同じ条件では再現に失敗している。また、その後公開された実験方法でも再現に失敗している。このため、現時点では、仮にSTAP現象があるとしても、少なくとも元論文に記載されたような現象ではないことははっきりしている。
3,その一方で、今回の件が完全に捏造と考えるのは難しい。仮に、STAP現象が完全にウソであれば、「STAP細胞」が胎盤へ分化したという現象とつじつまが合わないと思われる。したがって、論文中のSTAP現象の記載には相当の誤りがあったとしても、何か変な現象が見つかった可能性は高いと思われる。
4,ただ、その、今回の研究で見つかったかもしれない「変な現象」については、どうも、当初期待されたような、医学への広い応用ができそうなものではなさそうである。仮に、刺激によって細胞が多能性を持つ現象があるとしても、これほど再現に手間取っているところを見ると、簡単に再現できるものではないらしいからである。これでは、仮にSTAP現象が存在するとしても、すでに存在するiPS細胞などに比べて技術的に優位な点は殆ど無い。
5,仮にSTAP現象が存在したとしても、これの発見者として小保方氏の名前がクレジットされることはないであろう。彼女の報告した論文の記載には誤りが多く、実験記録も残っていないようであるため、彼女が実験したという証拠が何一つないからである。

結論から言いますと、何か不思議な現象が見つかったかもしれないが、それは、あまり役に立つようには思えず、また、「発見者」の発言もまるで信用できない状態です。オカルト雑誌の後ろの方に載っているような、読者投稿の「ツチノコ目撃談」みたいなものです。たとえツチノコが存在したとしても、ツチノコ目撃談の投稿者を科学的な発見者として扱うわけには行かないでしょう。

奇妙なことに、そういう状況にも関わらず、小保方氏は、会見後、一定の支持を集めているように見えます。

僕は、たぶん、「科学を信じる時代」が終わってしまったのではないかと思っています。

今回のことに限らず、原発にせよ、予防接種にせよ、がんもどきにせよ、多くの人は、すでに、「科学的に正しいこと」を信じません。

これまでだって、一部の理科系の教育を受けた人以外は、科学的に正しい推論の方法、科学的事実や実験の結果の正しい評価方法について知識を持っていたわけではありませんでした。ただ単に、なんとなく、科学的な「権威」や「教科書」を信じてきただけです。そして、いつのまにか、相当数の人が、権威や教科書よりも「自分の気持ち」を優先するようになりました。そして、「理研の調査」や「専門家」などの権威を信じる代わりに、自分が信じたいものを信じるようになったのでしょう。

多くの人が、権威よりも自分の気持ちを優先するようになってきている現在、人々が信じていることと科学的に正しいことの間に乖離が発生してきていることは、ある程度は仕方がないことなのかもしれません。

どうやってこの乖離を埋めていけばいいのか、現状を直視して考えていく必要があると思っています。

医学部卒のビジネスマンが増えたという話と就活生の格差の話。

昨夜、「医学部を卒業したのにウェブ制作会社で勤務しています」という記事をみて、ああ、こういうひと増えているよなぁ、と思いました。最近、医学部を出たけれど医者にならないという人の話を時々聞くようになったと思うのです。

昔から、医学部を出たけれど自分は医者に向かないと思う人で、大学の、医学や生物学の研究者になったり、厚労省の官僚(医系技官)になったり、そういうのは結構いました。でも、医学部の新卒で、それ以外の一般の企業に就職していく人はほとんどいませんでした。

医者というのは、かなり変わった仕事、というか、普通のサラリーマンとは異なる態度や考え方や行動を求められる仕事です。必然的に、医者に向いた性格、向かない性格というのは、かなりクリアにわかれます。医者に向いていて、すごく生き生きと仕事をしている医者も多いのですが、その一方で、頭は良くて、人当たりもいいのだけれど、どうしても医者向きでない人というのも、結構多いのです。

先に書いたように、昔から、そういう、医者に向かない医師免許保有者の受け皿になっていたのは、研究者や官僚でした。でも、研究者や官僚だって、実は、かなり向き不向きのある特殊な仕事です。
ですから、医者にも、大学教授にも、官僚にも向かないけれど、そこそこ頭は良くて、ビジネスマンとしてはそこそこ優秀そうな人、というのは、結構いるのです。そういう彼らが一般企業に就職しなかったのは、たんに、医学部出身者には、そういうレールがなかったからです。そういう人が大学や病院でイライラしながらくすぶっているのを見るたびに、僕は、残念な気持ちになっていました。


普通のビジネスマンになっていく医学部卒業生が前より増えてきたんだと僕が気がついたのは、ここ数年のことです。たぶん、実際にこの動きが始まったのは、もう少し前、ここ10年くらいのことだと思います。僕は、最近、大学医学部を卒業して、でも医者にはならなかった人たちを何人も知っています。そのほとんどは、なぜ自分が医者にならなかったか、うまく言語化できていないようです(上のリンク先の著者もうまく説明できていませんね)が、つまるところ、自分には、医療現場だけでは満たされない部分があるのだと言っているわけです。彼らは、医者にならなかった後は、ほとんどがそれなりの就職をして、医者以外の職場でイキイキと働けているようです。彼らの多くはリスクを取ることを恐れません。なぜなら、仮にリスクをとって失敗してクビになったって、最悪、医者に戻ればいいと思っているからです。こういう態度は、一般の医者の仕事をすこし過小評価しているように思えてムカつきますが、この点では、医学部出身の基礎医学研究者の多くも、同じようなものだとも思います。

医学部出身で、一般企業に就職したいという人のニーズは昔からありました。それなのに、ごく最近になって一般企業就職者が増えた背景には、僕は、ウェブでエントリーできる「就活サイト」の普及があると思っています。

ウェブが普及した現在の就職活動の現場では、人気企業はどれも異常な高倍率で、企業は、志望者全員を慎重にチェックするわけに行かなくなっています。自然、学歴や資格などで「足切り」することが多くなります。就活生の多くも、何度も落とされて疲労し、「誰も得をしない状況」などと言われているようです。

しかし、高倍率というのは、見方を変えますと、これまで、就活に参加していなかった就活生が競争に参加するようになってきたということでもあります。
少し前まで、医学部出身者が一般企業を受けるときの一番のハンディキャップは、周囲が、(あたりまえのことですが)医者志望の学生ばかりで、一般企業の就職活動をしている友人がほとんどいなかったということでした。いまでは、周囲にそういった友人が少なくても、相手企業についての情報は、すこし努力すればインターネットなどで得られるようになってきましたし、エントリーも簡単にできるようになりました。

批判の多い現在の就活ですが、一定以上の高学歴の人にとっては、人生の大きな方向転換が簡単にできるようになったというメリットがあるのだと思います。僕は、そういう方向転換をスムーズにこなして、別の分野のエリートになっていく医学生を見ていて、これは必ずしも悪いことではないな、と思っています。

少なくとも、この流れを逆転させることは難しいでしょう。元々満たされていなかったニーズが、ウェブによって幅広い選択肢が与えられた結果、満たされるようになった、ということなんでしょうから。それに、相当の知的能力を持ったエリートが、自分が不向きな分野でくすぶっているのは社会全体にとっても損失だとも思います。人生の方向や専門分野を18歳で完全に決めてしまうというのは、間違いが起こりやすい危ない方法です。


これまでよりも大量に就活にエントリーされることで、これまで見かけることがなかったような出身学部の就活生も出てきている。その一方で、選ぶ企業側は、全員を慎重にチェックするわけに行かなくなったから、学歴とかなんとかで「足切り」をしている。結果、多くの就活生が、エントリーシートも見てもらえなくなって、有利な学生とそうじゃない学生の格差が広がっている。

ここまで考えてきて、これは、何かに似ているな、と思いました。

少し前に、iOS用のアプリを作っている友人が言っていました。どんどんアプリの種類が増えて、ユニークな、これまでにないアプリが出てきている。アプリ市場全体の売上も伸びている。でも、一方で、ほとんどのアプリはユーザーの目に触れることがなくなって、ランキング上位のアプリ以外は売れなくなっていている。アプリ間の格差が広がっている。

少し前、ドワンゴが、就活に少しだけお金を取るという試みをやるというニュースが流れました。もし、あの試みが普及したら、確かに、エントリーする就活生は減るでしょうね。企業はじっくり時間をかけて就活生を選べるようになると思います。しかし、たぶん、この格差は戻らないのではないでしょうか?もし、アップルが、アプリ開発者から今より多額のマージンを取るようになっても、それだけで売れるアプリの種類が増えるとは思えませんから。

ひょっとしたら、このあたりは、カネを取るのではなくて、AppStoreや就活サイトのデザインを変えることでなんとかなるのかもしれません。

あんぱんまんラーメン

「あんぱんまんラーメン しょうゆ味」というのがあるみたいです。
アンパンなのかラーメンなのか、あんなのか醤油なのか、なんだか不条理な商品に感じます。
類似のコンセプトの商品に、
「あんぱんまん 鮭ふりかけ」というのもあるみたい。
こちらも、なんだか、不条理感炸裂。

やるんだったら、鮭ふりかけごはんマンとかラーメンマン(あ、これは、別のマンガにいたな)いうキャラクターを作ってくれればいいのにと思うのですが、この商品の主要な消費者は、あんぱんまんの絵だけに強く反応するからこうなっているのでしょうね。

今回は、こういう商品があることに僕が驚いたというだけの、短いエントリーです。

2014年3月28日金曜日

自動「無」診断システム

ひとつ前の記事で書いたように、以前、僕は、自動診断システムを作っていたことがあります。

この自動診断システム、一般内科外来の現場での利用を想定したもので、患者の年齢、性別、主な訴えを入力すると、確率の高い疾患から順に列挙し、さらに疾患を絞り込むために患者にするべき質問を表示するようになっていました。そして、その質問の答えを入力すると、可能性の高い疾患をさらに絞り込んで表示し、次にするべき質問を表示します。これを繰り返して、可能性の高い疾患がひとつに絞り込まれるか、これ以上、患者への質問だけで絞り込めない状態になると、終了します。推論の方法としては、単純なナイーブベイズアルゴリズムを使っていました。

そこそこうまくできたので、それをネタにしたショボイ論文もいくつか書きましたし、学会発表などもいくつかしましたので、検索すれば、そういう論文や記録がどこかに転がっているかもしれません。

その時、これをネタに、大学で本格的に研究しようと思っていたのですが、しかし、大学で研究するとなると、ソフトウェアを書くだけでなくて、それなりに本格的な論文を多数書かなくてはなりません。ところが、このネタでは、しっかりした論文を書くのが案外難しかったのです。

新しいソフトウェアを作って、それをきちんとした科学論文にしようとした場合、それが既存の似たシステムとどう違うのか、既存のシステムに比べてどこが優れているのか、そういったことを論文中に明確に書かなくてはいけません。つまり、過去のシステムと比較し、新しいシステムの評価をしなくてはいけません。ところが、複数の診断の方法があるとき、どちらのほうが優れているかを明確に示すことは非常に難しいのです。

そもそも、現在の医学では、僕達は、100%正しい診断を得るということができません。確かに、疾患によっては、ある程度コンセンサスが得られた「診断基準」みたいなものがあります。でも、それにしたって、実際に基準を患者に当てはめてみると、その結果はかなり曖昧なものです。同じ基準を使っても医者によって意見がわかれることはよくあります。100%正しい正解がない曖昧な状態で、各システムの採点をして、その点数の比較をするのですから、結論がぼんやりしてしまうのも当然のことです。

僕は、このとき、診断システムの比較の難しさに直面して、それからずっと、「診断とは何か」「なぜ、診断は曖昧なのか」について、考えてきました。

僕の考えでは、診断とは、患者の体の中で起こっている現象を「診断名」という単語にひもづけること、つまり、診断名という単位で患者を分節化(コード化)することです。患者の体の中で起こっている現象は、一人ひとり違いますし、それぞれの患者の体内で起こっている現象は、それぞれ、一回限りの現象です。だから、「分節化」とは、患者の体験のうち重要でないと考える部分を「捨象」し、似た患者の体験を同じと「みなす」ことです。どれくらい捨象することが正当か、どれくらい同じとみなすことが正しいか、科学的な明確な基準はありません。たぶん、このあたりが診断の曖昧さの本質だと思います。

どこまでを捨象し、どこまでを同じ体験とみなすか、これは医者によって異なります。また、同じ医者でも場面によって異なります。たとえば、救急など緊急性が高い場合は、バッサリと大きく捨象する、大雑把な「みなし」が必要と思います。患者の体験の細かい違いにこだわるよりも、素早い対応が必要だからです。その一方で、たとえば、在宅で「見取り」をするときなど、患者の最後の体験を大切にしてあげたいケースでは、まったく逆になります。細かい患者の体験の違いをこそ大切にしなくてはいけません。その場合、しばしば、診断名のくくりよりも細かい、個別性の高い対応が必要になります。在宅医療をしている先生たちを傍目に見ていると、そういう細かなモヤモヤに合わせた対応は、結構勇気が要るなぁ、と思います。そういった診療の経験に乏しい僕には、明確な基準がない(ようにみえる)状況で、フレキシブルな判断を求められるのは、非常に怖く感じられるのです。

診断の背景には、常に、診断に捨象されたモヤモヤがあります。モヤモヤを気にしないで捨象してしまっても、僕達は、ほとんどの場合は問題にしません。これは、捨象しても大きな問題が起こらないということなのか、それとも、何か大事なものを捨象してしまっているのに誰も気がついていないせいなのか、よくわかりません。もし、モヤモヤを捨象しても大きな問題が起こらないというのであれば、きっと、診断ですくい取れないようなモヤモヤの部分は、僕達が気づかないうちに、生物の中の精緻な仕組みが支えてくれているということなんでしょう。

モヤモヤと診断について、少し一般化して、病気の患者だけでなく、健康な人も含む多くの人の人生の問題として考えてみます。そうすると、診断の背景のモヤモヤと診断の関係というのは、僕達の人生と、僕達のアイデンティティの関係に相当すると思います。

アイデンティティとは、僕の考えでは、たとえば、「僕は、男性で、日本人で、夫で、また、会社員で、、、」というふうに、僕達の人生にラベルを貼ることです。僕達は、人生で何かの行動方針を決めるとき、無意識のうちに、このラベルを大切に考えて決定します。しかし、ラベルは、僕達自身の人生そのものとは微妙にズレています。また、僕達は、人生で本当に重大な決定をするとき、しばしば、このラベルを無視しなくてはいけないことすらあるのです。どのラベルも、人生そのものではありません。たぶん、お釈迦様が諸法無我とおっしゃったのは、そういうことだろうと思っています。

さら、そう考えてきて、僕は、次に機会があれば、「自動診断システム」でなく、「自動診断システム」というのをつくってみたいと考えています。突拍子もないようですが、データマイニングに基づいた推論では、「診断」がないのはそれほどおかしなことではありません。

自動無診断システムは、自動診断システムと同じように、医療の意思決定に必要な情報を提供するシステムです。しかし、自動診断システムと違って明示的には診断しません。

自動無診断システムは、治療方針を決定すべき患者のデータを与えられると、過去の様々な患者のデータと比較し、よく似た患者を選び出します。この、「よく似た患者」は、多くの場合は、診断名も同じ患者でしょうけれども、必ずしもそうである必要はありません。ただ、全体にデータが似ていればいいのです。そして、その「よく似た患者」で有効だった治療法やそれほど有効でなかった治療法について検討し、そこから、元の患者でどのような治療が有効らしいか推定します。

おそらく、多くの場合、この自動無診断システムによる治療方針は、通常僕達がやっている、診断に基づいて治療方針を決定する方法と、それほど変わらないものになると思います。では、どのような場合に、自動無診断システムの決定と診断に基づく決定が、異なる結論になるだろうか?僕は、そこに少し興味があるのです。