2013年12月29日日曜日

靖国と幽霊

幽霊

先日、安倍総理大臣が、靖国神社に参拝しました。

ネット上を見ると、この参拝について、多くの人が意見を書いているようですが、この参拝の外交という側面での問題、つまり、中国や韓国がどうだとか、アメリカがどうだとか、について書いてあるものばかりで、この靖国の慰霊の宗教的な側面の問題について書いている人はあまりいないように思います。そこで、僕は、この宗教的な問題について、僕の思うところを書いてみようと思います。

僕が考えているのは、宗教と言いますか、慰霊の方法のことです。
僕は、靖国が問題になるのは、結局、僕達が幽霊を見たことがないから、ではないかと思っています。

話が飛びすぎました。

僕たちは、幽霊を見たことがありません。生きている人で死んだ人と会ったことがある人はいませんし、生きている人は死者と話すことができません。
死んだ人と話ができるという占い師やイタコのたぐいはいます。しかし、そういうのは、少なくともエビデンスベースドな議論に耐えられるようなレベルの話ではありません。

つまり、僕達の科学では、死んだ人のタマシイみたいなものの存在は証明できません。そうである以上、僕達にとって、科学的には、死んだ人は存在しない、あるいは死んだ人がどうなっているかなんて分からないわけです。

しかし、僕達は、人が死んだら、死んだ人の慰霊をします。お葬式をします。そうして、死んだ人が伝統に従って「正しく」扱われなければ死んだ人が「浮かばれない」なんて感じたりします。もちろん、現実に、お葬式を挙げてもらえなかった人が化けて出たりすることはありません。それでも、お葬式をしなくてもいいということにはなりません。死者を、自分たちの伝統に基づいて自分の信じるように「正しく」弔ってあげなくてはいけないという僕達の感情は非常に強いものだからです。
その感情は非常に強いものですので、自分の身内が死んだ時に、死者が「正しい」扱いをされていないと思うと、僕達は非常にうろたえます。逆に、死者を「正しく」弔ったと感じたら、僕達は、きっと、死者があの世で満足しているはずだと感じます。
そういうものです。

しかし、何度も言っているように、僕達は、だれも死者と話すことはできません。したがって、どのようなお葬式をしても、それで本当に死者が満足しているかは、僕達にはわかりませんし、それゆえ、僕達には、本当にそれが「正しい」お葬式の方法かは、絶対にわからないのです。

お葬式の際、弔い方について身内の複数の人で意見が違った場合、非常にややこしい話になります。他人の信じている弔い方が間違っていると説得するのは困難です。だれも幽霊に話を聞くことができない以上、誰にも、「自分の信じる弔い方のほうが死者が満足する」というエビデンスを提示することはできないからです。自分の意見を無理矢理に押し付けたところで相手は納得しません。僕達は、誰もが、自分の信じるように「正しく」弔ってあげたいという気持ちがあるのです。したがって、議論は永遠に決着がつきません。誰かが満足すれば別の誰かが不満になるのです。

靖国問題というのは、本質的に、そういう問題です。

いくつかの立場

いくつかの、戦死者を「正しく」弔いたいと思っている人の立場について、書きましょう。

立場1
小泉元総理が靖国に参拝したとき、僕が診ていた女性患者の一人が、感激して泣いていました。彼女は、夫を第二次大戦でなくしました。遺骨は戻ってきていないそうです。おそらく、遺骨が戻ってこなかったことも理由の一つでしょう。彼女は、自分の夫が靖国に眠っていると信じており、しばしば、自分でも靖国に参拝していました。
靖国に対する批判が続いたとき、これでは死んだ夫が浮かばれないと思ったそうです。そういうことで悔しく思っていた時に、小泉総理という「偉い人」が参拝してくれたことで救われた気がしたと言っていました。

立場2
以前の職場の同僚です。福島の会津の出身でした。酔うたびに、戊辰戦争の話になって、「会津ばかりひどい目にあわされた」と、同じ話ばかりグズグズ言う人でした。その話が面倒でしたので、僕は、だんだん飲み会のときは彼を避けるようになりました。
実は、今年、NHKで「八重の桜」を見たとき、彼のことを思い出し、あのとき、もう少し話を聞いておけばよかったと思いました(が、いま、もう一度、かれのクドい話を聞かされたら、やっぱり拒否反応がおこるかもしれません)。
「会津の人は長州の人にたくさん殺されて、殺された後もいじわるされて、靖国にも入れてもらえなかったから、会津の人は浮かばれない」
そんなことも言っていました。
今回、長州出身の総理が参拝しましたが、いまだ、白虎隊は靖国には祀られていません。戊辰戦争というのは、そういう傷を未だに残すくらいの内戦だったのでしょう。
彼は、靖国に政治家が参拝することに反対してはいなかったように思います。しかし、彼は、靖国は祀る神様を間違えている(それも、山口県民の意図的な意地悪のせいで!)と感じているのです。

立場3
僕の知人の一人です。父親と叔父を大戦でなくしています。父親は熱心な真宗の門徒で、「自分は戦死するときにも念仏して死ぬから靖国には行かない。お浄土に行く。」と言っていたそうです。もちろん、彼の父親は二次大戦で戦死したわけですから、靖国に祀られている「みたま」のうちの一柱です。
彼は、自分の父親が、本人の信じていた宗旨と異なる祀り方で神社に祀られていることに気持よく思っていません。以前、酔った時に「本当はオヤジを分祀して欲しいんだけれど」と言っていました。
日本には、神道以外の宗教を強く信じている人も多く住んでいます。そういう身内を持った人にとっては、本人の望まない宗旨で慰霊しないでほしい、というのは普通の感情に思えます。
余談ですが、彼の父親の信じていた真宗は、東西いずれも首相の靖国参拝には否定的です(ということは、日本で一番大きい宗教団体と第二位の宗教団体が、いずれも、この神社に首相が参拝すべきでないと感じているということを意味します)。それは、きっと、彼のような門徒が他にもいるからなんだろうな、と思っています。たぶん、キリスト教系の団体の一部や、宗教色の強い政党である公明党などが靖国に批判的なのにも、似た理由があるのではないかと思います。

立場4
フィリピン人の知人です。日本の首相が、戦犯も合祀した「War Shrine」に参拝することを容認しては、戦争で死んだ自分の親族たちが浮かばれないと言っています(ここでも、要するに、慰霊の問題なのです。日本の靖国のせいで、フィリピン人の戦死者が「正しく」扱われなっている、というわけです)。
もちろん、海外から出てくるこういう意見に対しては、靖国は内政問題だと突っぱねることも可能でしょう。
しかし、こういう不満が感情的には十分に理解できるのも事実です。身内や友人など、近しい人が何かの事故などで死んだら、その加害者は相応の批判を受けてほしいというのは当然の感情だと思います。加害者が、加害者の母国の神社で死後も「顕彰」されているというのは、不愉快だろうと思います。

神道の立場による制約

様々な立場があるのですが、結局、どの立場も、自分が「正しくない」と思う慰霊の仕方をされると、死んでしまった自分の大切な人が浮かばれない、と感じているのです。その感情は、非常に強いものですので、中々妥協はできません。だれかが満足すれば他の誰かが不満になる。だれも不満な人をきちんと説得できる人はいません。死者に話を聞いてきた人なんて誰もいないからです。

少し考えると、上記の人たちすべてを満足させそうな妥協案の一つとして、靖国で祀る神様を入れ替える、という方法がありえるように思えます。
戊辰の幕府軍や西郷軍など、日本人兵士でありながら靖国に祀られていないみたまについて、その子孫が希望したら合祀できるようにする。逆に、遺族が靖国に祀ってほしくないと感じている場合、そのみたまは分祀する。また、明らかに倫理に反した行為をした戦犯については分祀する(もちろん、日本人の手で「歴史を裁く」ことが困難であれば、極東裁判で有罪となった人を分祀することでもかまいません。)。

しかし、この解決策は、これはこれで難しいようです。現在の神道での主流の考え方では、一度、一つとして祀ったら、その神様を分けることはできないことになっているからです。
神道の教義でダメということになっているということは、神道を強く信じている人が、それを「正しくない」慰霊だと感じ、それでは死者が浮かばれないと不満をいだくということです。

政教分離

すべての関係者が満足する解決策などありえないというのは理解いただけたでしょうか?
通常、近代国家では、この種のヤヤコシイ問題には国家は立ち入らないことになっています。それぞれの立場の関係者同士、民間人同士で話し合って、適当に折り合いをつけてくれ、というわけです。
これが、政教分離というやつです。
もちろん、多くの国では、自国の兵隊のための慰霊施設というのは必要です。でも、そういう施設は、国民の間でできるだけ不満が出てこないように、慎重に運営されているのです。たとえば、アメリカのアーリントンはそういう施設です。アーリントンでは、特定の宗教色を排除し、内戦の場合は両軍の死者がともに慰霊されるように配慮しています。かつ、アーリントンで慰霊されるかどうかは、本人と遺族の希望に基づいて決定されます。
対して、靖国は、神道の「神社」であり、誰が合祀されるかの決定に遺族の意見は配慮されません。安倍総理は靖国をアーリントンになぞらえたようですが、両者はずいぶん違います。

日本の近隣諸国が、本来は内政問題である靖国を外交カードに使おうとしているという不満も、しばしば耳にします。それは、靖国について日本人の間でも意見が割れていて、そのために付け入るスキがあるからでしょう。付け入るスキがないようにするには、アーリントンのように、できるだけ国民の意見が分裂しないような運営をする国営施設を作らねばならないのだと思います。

僕は、宗教というのは、この上なく大事な、同時にヤヤコシイ問題だと思っています。そういうヤヤコシイ問題に政治家が考えなしにクチバシを突っ込むと、どこの国でも、ろくな事になりません。安倍さんは、外国の誤解をとく、説得すると言いますが、たぶん、無理でしょう。だって、安倍さんも、たぶん、幽霊を見たことがないのですから。

僕は、安倍さんは、参拝する前に、誰か宗教家に相談したら良かったんじゃないかと思っています。伝統的な日本仏教の団体でもいいですし、カトリックや日本基督教団みたいな、メジャーなキリスト教の団体でもいいです。なんなら、連立相手の政党は宗教家が作った政党ですから、そちらに相談されても良かったでしょう。ヤヤコシイ問題に対して、専門家の手引なしにアレコレするのは危険です。

たぶん、今回の参拝の結果、安倍総理は、批判で火だるまになるでしょう。僕は、少し意地悪なので、宗教みたいな大事な問題を軽々しく扱うからバチが当たったんだ、というくらいに思っています。

本当に、どうなるんでしょうね。

それではまた。

2013年12月23日月曜日

人体の形を日用品のデザインに取り入れること

人体の構造を日用品のデザインに取り入れることには、昔から興味があります。

生物の体の構造は、しばしば、日用品として使う時にも実用的で合理的な構造をしているように感じています。その中でも、特に、人体の構造は、デザインとして非常に面白い、人をドキドキさせるような形のものが多いように感じているからです。

これは、どちらかというと、人体がそういう、ドキドキするような優れたデザインで作られているというより、それが我々自身の体の形であるから、そういう形のものに強く揺さぶられるように我々の心や脳ができているのだと思ったほうが正しいのかもしれません。

たぶん、僕が、そういうことに興味を持つようになったのは、学生時代、解剖実習の頃からです。
解剖実習中に面白い形の臓器を見つけるたびに、
「これは、家具に使うと便利かもしれない」
「これは、こういう用途に使いたい」
なんて言ってて、教授から不謹慎だと叱られていました。

確かに少々不謹慎なんですけれど、でも、人体って、非常に面白いデザインの宝庫だと思うんですね。

でも、そういうものを作ってみたいという、僕の気持ちは、プロのデザイナーを目指そうというほど強い気持ちではなく、したがって、解剖実習から今まで20年間、僕のささやかな解剖学の知識がデザインの方面に生かされることもありませんでした。

でも、僕は、実は、将来、3Dプリンタとかがもっと素晴らしい物になれば、プロのデザイナーじゃなくても、「プチデザイナー」みたいな感じで、面白い人体風デザインをいろいろやってみたいっていうくらいは、デザインに興味を持っています。

もちろん、いますぐだってやってみたいんですけれど、今の一般向けの3Dプリンタで作ったものって、まだ、普通に使う道具にするには、耐久性とか、まだまだ問題ある気がするんですよね。

最近、代官山の蔦屋書店で、こういうお皿が展示されているのを見ました。


手で作ったお皿がプリントされたお皿です。
なんか、有名なデザイナーの作品らしいんですが、よく知りません。こういうの、疎いものですから。
でも、ゾクゾクしちゃったんですよ。手の絵をお皿にプリントしただけなんですけれど、それだけで、何か、自分のお皿に何か食べ物をよそってもらったり、人のお皿に何かをよそってあげたり、そういうお互い様って感じのありがたい感覚を、ものすごく刺激される感じのデザインですよね。

作った人がそういう意図で作ったのかは全然知りませんけれど。

思わず写真をとりました。

で、そのあと、思い出したんです。
むかし、自分も、これと同じようなデザインを考えたことがあったな。

それから、考えました。
ああ、こういうのなら、いますぐでもできそうだな。
3Dプリンタとかじゃなくて、完成品のお皿とか机とかに、好きな絵をプリントする形で、人体の形を日用品のデザインに活かせないものか。

年末に、時間ができたら、すこし考えてみようと思っているところです。

2013年12月2日月曜日

なぜ自由な投資と相性が悪い業界があるのか

いや、前からずっと不思議だったんです。
アメリカの医療制度では、株式会社が病院を運営することができるなど、日本の医療制度より病院に対する自由な投資が認められています。

一般的には、自由な投資や自由な市場競争は、(それが健全であれば)消費者の利益を増やし、効率を高めるはずです。

なのに、アメリカの医療は、日本やヨーロッパよりもずっと高価で、しばしば、ずっと非効率的と考えられています。

なぜ、こんなことになっているんでしょう?

最近、次の記事を読みました。

ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から
松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

もう一つ、上の記事のなかでも少し触れられているのですが、同じ著者による医療経営の分析です。

なぜ医療機関は医師が経営するのか

この2つの記事を読んで、初めて、医療経営の奇妙な状況についてハラオチした気がします。

以下、上記の2記事の内容についての僕の理解です。

いろいろな例を出して、著者が言っているのは、結局、経営や投資がうまく行くためには、「経営の実質的な決定権を持つ人」と「経営がうまく行かなかった時にリスクを負う人」「経営に関する責任を負う人」ができるだけ一致する必要がある、ということです。別の言い方で言うと、リスクを自分で負わない人が決定権を持つと、モラルハザードを引き起こす、というわけです。

この原則で、社会主義的な公営企業がうまく行かない理由は説明できます。
公営企業において、経営の実質的な決定権を持つ公営企業のトップは、その会社がうまく行かなかった時のファイナンシャルなリスクを負いません。このような場合、投資は、どうしても無責任になりがちで、結果、それぞれのプレーヤーが利己的に振る舞った場合、どうしても投資が過剰になることになります。

では、投資した人が権限を持つ資本主義的な企業では、同じ問題は起こらないのか?
そんなことはありません。なぜなら、資本主義社会の企業においても、必ずしも、投資した人が一番リスクを負っているとは限らないし、実質的な判断をできる人がリスクを負っているとも限らないからです。

たとえば、漁師を何人も雇って漁をする「会社」に(漁師以外の)投資家が投資したとします。万一、漁の途中に海難事故が起こった場合、投資家は、投資したお金のうち、船の代金分を失います。しかし、雇われている漁師は、事故が起こったら自分のいのちを失う可能性があるわけです。漁師が死ぬ危険があることに比べると、投資家が失う船の代金のリスクなどはたかが知れています。

つまり、投資家に比べて、漁師のほうが大きなリスクを背負っていると言えますし、漁師のほうが(自分のいのちを賭けるという形で)より大きな投資をしているとも言えるわけです。

そう考えると、実は大部分の投資をしている漁師でなく、見かけ上の投資だけをしている投資家が経営に関する実質的な権限を持つならば、先の公営企業のトップと同じく、無責任な過剰投資(つまり、漁から会社が得られると期待される利得に見合わない過剰な危険に漁師を晒す)ことになるわけです。

くわえて、漁というビジネスに必要な知識は、投資家よりも漁師の方がずっと豊富です。結果的に、投資家よりも漁師が決定権を持つほうがよい、ということになるわけです。

では、投資家が投資して、漁師が決定権を持つ(経営に投資家は口を出さない)ということになったらどうでしょう。この場合、漁師が合理的であれば、投資を過少にする(つまり、漁で得られると期待される利得に比べて、危険を過剰に避ける)ことになるでしょう。投資家から給与だけをもらって危険を避けるのが、漁師にとっては合理的だからです。

結局、漁をする会社が漁から得られる利得を最大にするためには、投資家を募らず、漁師自身が(投資でなく)融資を受けて、自分の責任で船を買って、自分で自分の会社を運営する形にするのが、一番良いということになります(実際、多くの漁の事業は、そういう方法で営まれているそうです)。

似た問題は、医療にも発生します。

医師を雇って医療を行う会社に、(医師でない)投資家が投資するという状態を考えてみてください。

投資家は、医療の知識が医師ほどにはありません。もし、投資家も医師も合理的に振る舞うとならば、投資家が個々の経営の判断をするときには、どうしても、(投資家が、自身に判断できない投資を抑制するため)投資が過少になります。一方、医師が経営の判断をするときには、どうしても、(医師が投資家の無知につけ込んで、過剰に投資家からお金を引き出そうとするので)投資が過剰になります。

結果的に、医療機関は医師自身が投資して経営する。投資を募る代わりに、医師が銀行から融資を受けて、お金を集める(つまり、医師が全面的にファイナンシャルなリスクを負う)形が、社会的に見て、もっとも適切な医療投資がなされることになるというわけです(詳細はここ参照)。

僕が、これを読んで思い出したのは、日本で、「投資」を集めているいくつかの医療機関の経営の話でした。

いや、実は、日本でも、病院が合法的に投資を集めるスキームは、いくつかあるのです。病院に投資したいという投資家も、何とかして投資家からお金を集めたいという病院も、沢山ありますので、この種のスキームを利用した「投資」は、今後もなくならないでしょう。

なるほどね。

ふーん。

ま、この話はこのあたりで。

東京モーターショーに行ってきました。

東京モーターショーに行ってきました。
正直、普通のクルマというか自家用車には、あまり面白い展示はなかったです。

だって、これからは電気自動車の時代ですよ。電気になれば、ガソリンエンジンを使った自動車よりも、ずっとデザインの自由度が増すはずです。

これまで、エンジンの制約で実現できなかったデザインってのは、多かったはずなんです。内燃機関は、パイプやタンクの取り回しなど、結構、大きさや形の制約が大きいですからね。スターウォーズとか、攻殻機動隊に出てくるような、ユニークに見えるデザインは、内燃機関を前提に考えると、あまり合理的ではないのです。つまり、カッコイイのに実現しないというのは、なにか理由があるわけですよ。

で、これからは電気自動車の時代です。もっとカッコよくてユニークなデザインをいろいろ試して展示してくれているんじゃないかと期待するじゃないですか。

でも、どのデザインも凡庸で、面白くなかったんですよね。

そのかわり、僕が一番面白いと思ったのは、日野自動車がやってたバスを改装して作った移動診療車の展示でした。

こんなやつです。

中身は、こんな感じ。車体の最後部が、診察室になっています。
で、車体の前半分が待合室。
いや、ちょっと、この診療車で、移動診療所をやれと言われたら、正直、ちょっと足りないものがいっぱいある気もするんですが、この展示で、僕が面白いと思ったのは、そこじゃないんです。

最近のハイブリッド車や電気自動車のなかには、特にバスやトラックなどの大型のクルマのなかには、メチャクチャに大容量のバッテリーを積んでいるものがあるってことなんです。これだけの大容量のバッテリーがあれば、ちょっとした医療機器や検査機器を動かすのに必要な電力を十分まかなえてしまうんですね。

まあ、あれだけの大きさの車体を動かすバッテリーですから、当然のことではありますけれどね。

大したものです。

で、一つ気になったのは、バスの昇降口の階段。診療所ってのは、普通は、病気で体調が悪い人が来るもんです。ここに入る昇降口に、これだけ面倒な急階段があるのって、どうなんでしょうかね。

気になって、そう聞きましたら、
「あ、これはハイブリッドですから。本当の電気自動車になれば、エンジンが小さくなる文だけ床は低くできます。車椅子でも、簡単に入れますよ。」

ほお。

こんな感じ。ふうむ。

これは、いいなぁ。

バスというものに対する印象が大きく変わりましたぞ。

いや、結論は特にないんですが、面白かった、ということで。

それではまた。