2014年3月21日金曜日

ウェブ時代における、傲慢な診断のゆくえ

僕は、医学の教科書類のうちでは、診断学の関連の本を読むのが一番好きです。過去に自動診断を行うプログラムを作ったこともありますし、診断を勉強するのが自分は好きなのだな、と思います。

でも、診断が得意なわけではありません。診察室で、その場で適切な診断を思いつけず、後になって、ああ、アレは、ああいう検査をするべきだった、と悔やむことはしょっちゅうですし、そういうことで痛い目を見たことも何度もあります。

自分が診断が得意でもないのに診断について勉強するのが好きなのは、自分では、診断という行為の中にある「ある種の傲慢さ」と、その「傲慢さのコントロール」みたいなものを気に入っているからではないかと思っています。

サービスとしての医療は、ある意味で、奇妙なくらい傲慢なコンセプトを前提にして成り立っています(そして、その傲慢さは、医者にとって当たり前すぎて、普通は意識すらされません)。それは、患者は、「自分が何に困っているか」は、よく知っていて、だからこそ受診するのであるが、「自分がどういうサービスを必要としているか」は自分ではほとんど知らない、という考え方です。そして、「どういうサービスを必要としているか」を、第三者である医療者が患者を観察して明らかにする方法論が診断学です。

こうして文章にしているだけでも、うんざりするほど傲慢でパターナリスティックな考え方です。はじめて、医療現場に出たとき、この感覚がすごく傲慢に感じて嫌になりました。

僕は、この考え方があまりに大嫌いで、そのせいで(もちろん、それだけが理由ではないのですが)、一度は医者をやめて、別の仕事をしていました。

いくつかやった別の仕事の1つが、コンピュータ関連の、いわゆる、SIerの仕事です。でも、こちらの業種でも、多かれ少なかれ、似たコンセプトは存在するのですね。コンピュータを導入したいと思っている顧客企業は、たいていの場合、自分が本当に必要としているシステムがどういうものか、つまり、システムの要求仕様というやつをおぼろげにしか理解していません。システムについての専門的知識がないのですから当然のことです。ですから、システム導入を請け負うIT企業は、まず、顧客にインタビューして、顧客の仕事の様子を観察して、顧客が、「本当は、どういうサービスを必要としているのか」を明らかにしようとします。医療の場合との違いは、顧客の要求の見出し方、仕様書の作り方などのノウハウが、診断学ほどは体系化されていないというだけです。

システムの導入を行う企業の中で、専門家でない人が、自社に導入すべきシステムについて「しったかぶり」すると、システム導入が失敗することがあります。逆に、傲慢に、「顧客は自分が必要としているサービスを知らない」と考えてシステム屋が誘導すると、案外、システムの導入がうまく行くのです。というわけで、「僕の経験からすると、一番やりにくいのは、顧客企業に、中途半端な「パソコンオタク」がいた時でした。

これは、IT企業の中の人間関係でも、同じことです。この会社でエンジニア的な仕事をしていた僕は、非エンジニアから「しったかぶり」をされて怒ってしまったことが何度かあります。もっとも、「しったかぶり」と言っても、大したことではないのです。たとえば、
「なんか、このソフトにバグがあるんだけれど。。」(うるせえ!それがバグか、それともテメエの操作ミスかは、オレが決めるよ。)
「ねえ。これくらいの修正だったら、1週間もあればできるよね。」(できるかもしれないが、でも、工数を見積もるのは、お前じゃなくてオレの仕事だ。)
怒ってしまったのは、その時、特に疲れていたからというのもあるのですが、こういうことは、ある程度、「専門家」に任せてもらわないとうまくいかないのです。

おそらく、「専門家が特定の分野の知識を利用して非専門家にサービスをする」というパターンの業種では、どこでも、「顧客は必要なサービスを知らない」的な傲慢な前提が、一定の合理性があるのでしょう。そのことに気がついて、他の業種に比べて医療もそれほど傲慢なものではないと思うようになった僕は、しばらくたって医療の世界に戻ってきました。

むしろ、今では、医療の世界が体系化された診断学をもっていることは、医療者の傲慢さを医療者自身が制御することに役立っていると思うようになりました。ある程度体系的で客観的な診断学が公開されていることは、個々の医師が、患者が受けるべき治療についてデタラメを言うことを強く抑制します。また、医師は、患者が受けるべきと考える治療について、自分の思い込みを離れて、ある程度客観的に見ることもできるようになります。診断学は傲慢な前提で成り立っているかもしれませんが、それがある程度体系化され、かつ公開されていることによって、自身の傲慢さをコントロールするために役に立っているのです。

アメリカのテレビドラマの「ドクターハウス」には、恐ろしく傲慢な、天才的な診断能力をもった医師が出てきます。彼は、ワガママで傲慢で人間嫌いで、そういう自分をコントロールすることができません。それでいて、診断の天才です。劇中の彼の診断には思わず首を傾げてしまうものも多いのですが、診断学が医師の傲慢さをコントロールしていると感じている僕には、妙にリアリティのある人間描写です。

ところで、僕は、ウェブ時代になって、ひょっとしたら、この種の「診断」は、なくなっていくかもしれない、と思っています。

上のほうで、僕が、自動診断システムを作っていたことがあるという話を少し出しました。その自動診断システムを開発していたとき、僕は、自動診断システムにウェブ用のインターフェイスをつけて、ウェブから利用できるようにしようと考えていたのです。そのときまで、僕は、ウェブの開発にはあまり経験がなかったものですから、自動診断システムに流用できそうな既存のウェブアプリケーションのユーザーインターフェイスを色々調べたのでした。特によく調べたのは、ユーザーにアドバイスしたり、リコメンドしたりする機能を持ったウェブアプリケーションです。ビッグデータを利用して、ユーザーになにかアドバイスをするというのは、まさしく、「診断」のように思えたからでした。

さて、そのときに気がついたのは、ウェブアプリケーションの中には、「診断学」的な、「ユーザーは、自分が必要としているサービスを知らない」的な前提をもっているものは、ほとんどないということでした。

ユーザーデータを利用して、自社サービスのうち、どれがそのユーザーが利用すべきサービスかアドバイスするタイプのシステムってのは、結構普通にあります。たとえば、オンライン書店で本を買うと、「あなたには、この本もお勧めです」って言ってくるとか。

でも、その中の一つとして、「ユーザーは、自分が読むべき本を知らない」、「ウェブサイトが、ユーザーのデータから彼が読むべき本を決定する」なんて、傲慢な前提を感じさせるリコメンドシステムはなかったように思います。リコメンドシステムは、「ユーザーは、自分が読むべき本を知っている(自分が読むべき本かどうか判断できる)」けれども、自分が読むべき本を探すのが面倒くさいから、「ウェブサイトが彼が読むべき可能性の高い本を推薦する」という謙虚な前提に立っています。これは、医師など人間の専門家が自然に前提にしている考え方とはずいぶん違います。また、ユーザーが、データから判断してどういう状況なのか、「診断」するシステムもひとつもありません。

たとえば、
「あなたは、これまで、ラーメンの本やらお菓子の本やら、カロリーの高い食べ物についての本をいっぱい買ってきましたね。だから、あなたは、ラーメン好きの肥満症である可能性が高いと「診断」しました。そこで、あなたには、このダイエットの本を「処方」します。必ず購入ボタンを押して、届いたらすぐに読んでください。」
なんて、そんな押し付けがましいオンライン書店は、まだ、見たことがありません。
なぜなんでしょう?

ウェブサイトだと、不特定多数が利用するから、「診断」が間違えたときに責任が取れない?
それとも、ユーザーは、人間の専門家ならともかく、たかがウェブサイトからそういうことを指示されるのが不愉快?
ただ単に、現在のウェブが、まだ、そういう「診断」が必要なジャンルに使われていないだけ?

今後、もし、医療情報ウェブみたいなのが普及し、医師のかわりをするウェブ版人工知能が十分に実用になる時代がきたら(そういう時代は、それほど遠くない将来やってくると思います)、その時には、「傲慢」なウェブサイトが登場するんでしょうか?

僕には、「傲慢な前提」がないというのは、ウェブの、なにか本質的なところじゃないかという気がするのです。もし、将来、ウェブでAI医者のアドバイスを受ける時代が来たら、その時には、ウェブにも傲慢な前提が登場するんでしょうか?ひょっとしたら、逆に、その時には、今のような「診断学」がなくなっているかもしれないという気もします。

まったく予想がつかないのですけれど、どうなるでしょうかね。

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