2016年7月19日火曜日

合同会社やさしさと医療のソフトウェアの研究室

すでにご存じの方も多いと思いますが、私、今月はじめ、「合同会社やさしさと医療のソフトウェアの研究室」を設立しました。

まだ、会社紹介のウェブページなども作っていないのですが、一応、ご報告まで。

この会社ですが、「人をやさしくするための医療のアドバイスを提供するソフトウェアを作る」ことを目標にする会社です。

自分の家族や友人が痛みや辛さに苦しんでいる時、ちょっとした医療の知識があれば、もっと、苦しんでいる人に優しくなれる。反対に、ちょっとした知識がないために、痛みに耐えている人に自信を持って対応できず、そのため、つい、辛く当たってしまう。

私は、それほどいい医者ではありませんが、医者をやってきて、そういう場面をたくさん見てきました。

ですので、我々が、もう少し、我々の周囲で痛みに耐えている人にやさしくなれるために、ちょっとした医療の知識をアドバイスをするソフトウェアを作ろうと考えたのです。

この新会社は、そのための会社です。

目標は、このように壮大なんですけれど、とりあえず、この会社の当面の業務は、私がこれまで個人で引き受けてきた医療や健康絡みのソフトウェアの開発や保守の仕事の一部を引き継ぐこと、それから、委託の開発の仕事を引き受けることになると思います。

みなさま、よろしくお願いします。

特に、私にお仕事を依頼してみようかと考えてくださっているみなさま、よろしくお願いします。

2016年7月2日土曜日

石田智秀さんの著作について

昨年11月、友人の僧侶の石田智秀さんが「浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない 」という本を書きました。電子書籍なのですが本当に良い本です。石田さんは、浄土真宗の僧侶なのですが、今回の本は、浄土真宗の「信心」について、石田さんが法話でお話した内容をまとめて書籍にしたものです。
法話という言葉からイメージされる堅苦しいものではなくて、なんというか、若々しく青臭く悩む石田さん自身のお坊さんになるまでの青春ストーリーを信心というテーマでまとめた本です。
北海道のお寺で、お寺の跡継ぎとして育てられた石田少年は、成長するにつれ、自分のお寺の宗旨である浄土真宗の教義が分からないと感じるようになります。とくに、その教義の中で大事だとされている「信心」という言葉がさっぱりわからないのです。しかし、お坊さんになれば、自分の宗旨について分からないなんていえません。分からなくても、お坊さんであれば、立場上、自分の宗派の教えくらい分かったふりをしなくてはならない。自分で分かりもしない教えを大事にしているふりをしなくてはならない。そんなお坊さんになることが嫌な石田少年は、やがて、お坊さんではなくジャーナリストになりたいという夢を持つようになり、上京。早稲田大学に入学します。しかし、ジャーナリストになるはずだった上京後の石田少年の関心は徐々に変化していき、悩み、そして、やがて、あるきっかけで、むかしわからなかった浄土真宗の教義の意味に気づくのです。

実は、私、出版の前に、石田さんからこの本の原稿を見せられ、意見を聞かれました。
一読して、浄土真宗の信心のわかりにくいところをわかりやすく説明している良い話だったと思ったのですが、これを電子書籍で一般に売ると聞いて、正直、少し、困惑しました
というのは、これまで浄土真宗の教理に触れたことのない人には、この青春のストーリーを読んでも、石田少年が何を悩んでいるか分かりにくいのではないかと思ったのです。

そこで、石田さんに、言いました。
この本は、どのような人を対象に書いたのでしょうか?「私」(*作中の石田さんのことです)と同じように、何度も子供の頃から信心について聞いているのに、信心がわからないと悩んでいる人でしょうか?それとも、もう少し広く、子供の頃から「私」ほどには法話も聞いておらず、真宗の「他力の信心」を日本語の日常語で言うところの「信じる」ことと同じようなものと誤解している人たちでしょうか?
前者の人をターゲットにしているつもりであれば、以下、気にされなくて結構です。ですが、おそらく、kindleで出せば、後者の読者の方がずっと多いと思います。そして、残念ながら、後者の人の多くには、若い「私」が何に悩んでいるのか、よくわからないのではないかと思います。そういうひとのために、子供の頃からの「私」が信心とは何だと聞いてきたか、そしてそれは世間で言う信心とはどう違うか、文章の初め頃、4ページ辺りか、あるいは、文章の半ばほど、8〜9ページあたりで、一度まとめられてはいかがでしょうか?
真宗の信心というのは、世間で、普通に考えられているような意味での「信じる」こととは、随分違います。
世間では、占いやおまじないなど、科学的に証明できないことや不思議なこと、よくわからないことなどを信じたり、そういう物の価値を認めることを「信心」と言うことが多いです。原稿中で、占い好きの女性が出てきますが、当然、そういう人は、自分で好きで選んで、そういうものを大切にする人生を歩んでいるのです。あるいは、強い「信心」を得るために、山の中で修行したり、断食したりする人もいます。また、宗教を、道徳などと似たようなものと思っている人も多いです。そういう人は、たとえば、国や公共のものや伝統を大切にする心とか、親や目上の人に対する尊敬の心とか、「信心」をそういうものに近い「良い」ことと思っています(もちろん、信心は、「わるい」ことではないのですが)。
キリスト教などの「信仰」や、最近流行りのマインドフルネスは、これらに比べると真宗の「信心」に近いと思いますが、これらは、普通の日本人には異文化であり縁の遠い概念です。そして、世間でいう「信じること」が「信心」だといままで聞かされてきた人、つまりは普通の日本人の多くには、「私」が何に悩んでいたのか共感できるための基礎知識がないのではないかと思うのです。
「私」が、浄土真宗のお寺の跡継ぎとして生まれて、しかし、お寺の宗旨である浄土真宗を信じられなくて、それで悩んでいるというのは、おそらく、皆にわかるでしょう。でも、「私」が、信心とはなにかわからなくて悩んでいるというのは、かなり分りにくいのではないかと思うのです。なぜなら、そういう読者にとって、「信心」といえば、なにか道徳的なことや神秘的なことを信じることに決まっているからです。
「信じるというのは、要するに、そういう曖昧だけれど大切なことを一生懸命自分に言い聞かせて信じこむことに決まっているではないか、それがどういうことかわからんというのは、何やら難しい哲学を語っているように見せかけて、要するに、お寺のお坊ちゃんのワガママであろう。正座するのが嫌だったり、辛気臭い葬式が嫌だったりするのだろう。若いうちは、そういうものだからな。それを我慢するのが信心ではないか。伝統を大切にする心ではないか。」
そういう感覚の人は、たぶんものすごく多いのです。
今から読み返すと、随分、失礼なことを書き連ねています(石田さん、本当にすみませんでした)。石田さん、えらく気にされたようで、ほぼ出来上がった原稿を、また書き直しさせる羽目になってしまいました。
上で書いたように、浄土真宗では「信心」というものを非常に大事にするのですが、この宗派で言う「信心」というのは、世間一般で言う「信じる」とか「信心」という言葉とは、少し、意味合いが異なります。
普通の現代語では、「信心」という言葉は、なにか、神様とか仏様とか占いとかなんでもよいのだけれど、そういった、神秘的でよくわからないけれど大きな力を持った「ハイアーパワー的なもの」の存在を信じるという意味合いで使われます。しかし、浄土真宗では、信心という言葉に、そういう意味合いはあまりないのです。
これは、なにも、浄土真宗が宗派独自の特殊な言葉遣いをしているからというわけではありません。私は、実は、この、「信心」という言葉の誤解は、浄土真宗にかぎらず、ほとんどの日本仏教の宗派につきまとう問題ではないかと思っています。日本仏教の多くの宗派は、平安時代から鎌倉時代のお坊さんたちが見出した教えです。当然、その教えは、平安~鎌倉時代の語彙で書かれています。鎌倉時代には、それらの言葉は、多くの人にわかりやすい普通の言葉だったのかもしれません。しかし、言葉は生き物です。おそらく、長い時間をかけて、多くの言葉の意味が変わってしまったのでしょう。当時の言語での「信」という言葉の意味と、現代語の「信じる」という言葉の意味に大きなズレがあるのです。(**)

では、仏教における、「信心」というのは、どういう意味なのでしょうか?

それは、この本を読んでください。

残念ながら、この本を読んでも、信心の意味は、今ひとつ分からないかもしれません。この本は非常にわかりやすい良い本ですが、それでも、信心というのは、誤解されやすく、わかりにくい概念です。多くの人にとっては信心ということの意味が分かるには、「え?そんな簡単なことなの?」みたいな一種の気付きのような体験だと思います。

でも、たとえ、信心の意味がわからなくても、この私の拙い文章をここまで読んでくれた人ならば、この本は、まず、読んで後悔はしません。石田さんの文章は、軽妙なリズムで楽しく、私などの文章よりずっとわかりやすい文章ですから。

おすすめの一冊です。

(**)個人的には、「信心」という誤解されやすい言葉を使う代わりに、もっと現代人に誤解されにくい現代語の訳語を当てるべきではないかとは思います。たとえば、同じ概念を表すのに、「気づき」とか「きれいな心」というのはどうでしょうか。

2016年6月27日月曜日

親にはわからない「小学生の悩み事」に答えてみる。その2

前の続きです。
すぐにでも、つづきを書くつもりだったんですが、忙しくて、随分時間が立ってしまいました。
この記事にある、「小学生の悩み事」に答えてみるエントリーです。

  1. なぜ勉強しなくてはいけないのか
  2. 友達ができない
  3. 死んだあとどうなるのか
  4. 運動が苦手だ
  5. 人前でうまく話せない
  6. もっと小遣いがほしい
  7. 兄弟姉妹と比べられるのが辛い
  8. ペットの死が悲しい
  9. 朝なかなか起きられない
  10. キレイに(カッコよく)なりたい

前回は、このうち、1位の「なぜ勉強しなくてはいけないのか」に答えてみたのですが、今日は、いったん、2位の質問を飛ばして、3位の質問「死んだあとどうなるのか」に答えてみようと思います。
というのも、この3位の質問に対する、大人たちの答えが、あまりにもひどいと思うからです。

というわけで、書いてみました。例によって、少し長いです。

いま、あなたは、「死んだあとどうなるのか」について悩んでいるそうだね。

じゃあ、まず、話の本題の前に次のことを確認してほしい。

あなたは、いま、極端にお腹が空いていないか?最後に食事をしてから二三日何も食べていないということはないか?あなたの今いるところは、寒すぎないか?あるいは、反対に熱すぎないか?あなたは、体調が悪かったり、大きな怪我をしたあとではないか?何かの病気の治療中ではないか?

特に最後。もし、自信がなかったら、だれか医者に相談してみてほしい。

人間の心と身体はつながっている。 だから、身体の調子が悪かったり、身体の周りの環境が悪かったりすると、訳の分からない不安に襲われたり、ものがかんがえられなくなったりすることがあるんだ。

そして、体の調子が悪いせいで心が不調に陥って悩んでいる状態と、「死んだらどうなるのか」みたいな簡単に解決の付かない悩みを考えている状態って、本人にとっては、なかなか区別がつかないものなんだ。だから、ただ単に体調が悪いだけなのに、哲学的に難しい問題を考えているつもりになっている人というのが、世の中には結構いる。だから、まず、自分の身体の調子は大丈夫か、自分はちゃんとご飯を食べているか、部屋のエアコンのスイッチは入っているか、確認してほしい?

あなたは健康?問題ない?

じゃあ、先に進もう。

さて、私も、昔、死んだらどうなるのかが気になって仕方がなかったことがある。
夜中に急に不安になって眠れなくなったりしたこともある。また、まわりの大人たちに死んだあとどうなるのか質問して、「そんなこと考えなくていいよ。もっと楽しく前向きに生きよう。」なんて言われて、自分がおかしいのだろうかと感じたこともある。

でも、安心してほしい。おとなになって振り返ってみるとわかるんだけれど、「死んだらどうなるのか」みたいな問題で悩むのは、ごく普通の健全なことなんだ。もちろん、そういう悩みをどれくらい強く持つのかはひとによって全く違う。本当に毎晩のように不安になる人もいるし、人によってはさらに、昼間も不安になる人もいる。反対に、ほんの少しだけしか不安にならない人もいる。

だから、「もっと前向きに楽しく生きよう」と考えることで不安感を吹っ切れる人もいれば、ずっと、そのことで悩む人もいる。あなたがどれくらい深く悩んでいるのかわからないけれど、もし、あなたの悩みが、そういう言葉で吹っ切れる程度であれば、それはそれで、あなたは幸せだと思う。悩みを忘れて生きていってもいい。

で、もし、あなたのこの悩みが、簡単に忘れられないほど強いものならば。

おめでとう。たぶん、あなたは、そういうすごく大事な問題を考えるために生まれてきたんだと思う。
大いに悩むといい。悩んで勉強するといい。そうすれば、なにかわかるようになるかもしれない。

さて、「死ぬとどうなるのか」 については、究極的には、誰もその答えは知らない。誰も、死んだことがある人がいないからだ。もちろん、死んだらどうなるって話をまことしやかに話すいんちき臭いまじない師や霊能者はあちこちにいる。テレビにも出てくる。でも、そんな連中は信用できる連中ではない。あなたの生死に関わる問題の答えを委ねていいような連中ではない。つまり、あなたの信用できる人間は、誰も死んだことがないんだ。誰も本当の答えは知らないんだよ。

じゃあ、考えても無駄じゃあないかって?
さっき、なにかわかるようになるって言ったのは、嘘だったのかって?
そうでもない。こういうことは考えることはすごく大事なんだ。世界には、そういうことを真剣に考えたことのある人じゃないとわからないことっていうのもいっぱいあるんだ。

あなたは、まだ子供だけれど、将来もずっと、こういう悩みを持ち続けていたら、こういう問題に関するいろいろな本を読んだり、いろいろな人の話を聞いたり、いろいろな人と議論したりすることになるかもしれない。

そうしたら、長い歴史の中で、どれほどたくさんの人間が「死ぬとどうなるのか」っていうことについて考えてきたのか、知ることになるだろう。そういう人の中には、上に上げたようないんちき臭いまじない師のたぐいもいっぱいいるけれど、「死ぬとどうなるのか」っていうことについて誠実に考えて、それなりの結論を出した人たちがいっぱいいることも、きっとわかるようになると思う。

私は、さっき「死ぬとどうなるのか」の答えは誰も知らないって言った。そういう問題に、それなりの結論を出した人がいっぱいいるってどういうことだろう。

実は、ちょっとしたトリックがある。
もちろん、「死ぬとどうなるのか」なんて、どれだけ考えてもわからない。でも、わからないけれど、いずれ、みんな死ぬ。
そういう、「誰にでも必ず起こることなのに、わけがわからないこと」に対して、どういう態度で望むべきか。実は、「死ぬとどうなるのか」という問題に結論を出した人たちは、みな、「死ぬとどうなるのか」という問題に結論を出そうとしながら、そのかわりに「人間は死ぬことをどう受け止めるとよいか」という問題に結論を出しているんだ。実は、この2つの問題は、ほとんど同じものなんだよ。

そして、その「人間は死ぬことをどう受け止めるべきか」という問題の答えは、その答えだけどれだけ読んでも、「死ぬとどうなるのか」について真剣に悩んだことのある人間以外には、なかなか理解しにくい話なんだよ。
「死ぬとどうなるのか」に悩むことでわかるようになることがあるっていうのは、そういうことだ。

最後に。
「死ぬとどうなるのか」みたいな話を悩む人をバカにする人が、世の中には結構いる。でも、この問題に悩むことは、たとえ、人に馬鹿にされても大事なことだ。
そういう問題に真剣に悩んだことのある人にしかわからない、わかってあげられない問題を抱えた人たちが、この社会にはいっぱいいるからだ。

あなたが、もし、いま、「死ぬとどうなるか」 について悩んでいるならば、きっと、その悩みを持ち続けることで、将来、同じように「死ぬとどうなるか」について悩んでいたり、「人間は死ぬことをどう受け止めるべきか」について悩んでいたりする人たちの悩みを聞いてあげられるような、そういう大人になれると思う。それは、とても素晴らしいことだと思う。

今はしんどいかもしれないけれど、しっかり悩み続けてほしい。

2016年6月10日金曜日

親にはわからない「小学生の悩み事」に答えてみる。その1

数日前に、こういう記事がありました。

親にはわからない「小学生の悩み事」ランキング10

悩みのベスト3はこういうもの。
1,なぜ、勉強しなくてはならないか
2,友だちができない
3,死んだあとどうなるのか

うん、わかりますよ。私も、小学生の頃、よく悩みました。死んだらどうなるのか、不安になって夜寝られなくなることも何度もありましたし、当時は「なんで勉強しなくてはならないのか」も、よくわからなかったですし。

こういう疑問に、企業の経営者や役員が答えるという内容なんですが、なんでしょう。
質問に対する答えがグチャグチャというか、答えられていないというか、はぐらかしているだけというか、現在の自分の主張をぶつけているだけというか、とにかくひどいんです。

というわけで、私なりに、もし、子供に、こういうことを聞かれたらどう答えるか、考えてみました。
今日は、まず、一番目の質問に答えてみようと思います。

1,なぜ、勉強しなくてはならないのか

元記事を読むと、この質問に「勉強したくない奴はしなくていい、自己責任だ。」とかなんか、変なことを書いている人もいたけれど、たぶん、この質問を聞いているあなたは、勉強したくないからこんな質問しているってわけじゃあないと思う。まったく勉強していない人、まったく勉強したくない人は、こんな質問するわけがないからね。

私自身、子供の時、勉強しなさいっていう大人は大嫌いだった。私は、勉強をするのは嫌いじゃなかったけれど、でも、何のために勉強しているんだろうってよく考えた。

小学生の頃は、周りの大人にも、「何のために勉強するのか」ってよく聞いた。 でも、聞いても、たいてい、満足できる答えは帰ってこなかった。何のために勉強するのか、大人に聞いたら、たいていは、いい高校に入るためだって言われた。じゃあ、何のためにいい高校に入るの?って聞いたら、いい大学に入るためだ。なんのためにいい大学に?いい会社に入るためだ。それから、勉強してる人は、いい会社で、いい給料もらって、それから出世して。。。
そういうことをいう大人がいっぱいいたけれど、でも、全く納得できなかった。だって、そんなの、小学生の私にはものすごく遠い先の話に思えたし、それに、そんな頑張っていい会社に入ったって、どうせ、結局、いずれ同じように死ぬんだと思ったからね。

なので、今日は、私が「なぜ勉強するのか」という質問についてどう考えているか、書いてみようと思う(ただし、この質問の答えそのものは書けないかもしれない)。

まず第一に、何のために勉強するにしても、とりあえず、あなたたちは勉強はしておいたほうがいいと思う。もちろん、あなたたち子供だけじゃなくて、私達大人も、もっともっと勉強しておいたほうがいい。それから、あなたたちが勉強した方がいい理由なんだけれど、それは、これから、あなたたちが勉強して、それからあなたたちが自分で考えるんだよ。

勉強の理由は勉強してからわかるよっていう言い方は納得しにくいかもしれない。普通は、行動する前に理由があるものだから。

普通は、行動の前に理由がある。お腹がすいてごはんを食べたくなるのはごはんを食べる前だし、普通は、友達に悪口を言っちゃう前に、友達にムカついて悪口言いたくなるから、そうするんだ。

でも、案外、この順番が逆になることも多いんだ。そういうことがあることもわかっておいたほうがいい。

たとえば、あなたは、「何のために自分が生きているんだろう」って考えたことがあるかもしれない。そういうことを考えたことのある人は、なんのために生きるのかわかるより前に、生まれてきてしまったんだ。あるいは、あなた達の中に、「なぜ、人を殺してはいけないか」って考えたことのある人も多いかもしれない。でも、そういう人だって、「自分には、なぜ人を殺してはいけないかまだわからないから、今は人を殺してもいい」なんて考えないだろう。

世の中で、一番平凡なことや大事なことっていうのは、実は、理由がわかる前にスタートすることが多い。
なんのために生きるのかがわかってから生まれてくる人はいない。むしろ、逆で、なんのために生きるのか、わかるようになるために生きるんだと言ってもいいくらいだと思う。
で、「なぜ勉強をするのか」も、そういう種類の話なんだ。勉強はした方がいい。そして、もし、あなたがしっかりと勉強していけば、やがて、なんのために勉強するのかについての自分なりの答えもみつかるかもしれない。勉強ってのは、そういうものだ。それは、案外楽しいことだと思う。

ちなみに、もし、あなたが勉強しなかったら。
勉強しないのは自己責任だって書いている人もいたけれど、私は、そうは思わない。私は、子供が勉強しなくちゃいけないのと同じように、大人は、自分の勉強をしながら、同時に、子どもたちに勉強したいと思わせなきゃいけないんだと思うからだ。だから、もし、あなたが勉強しなかったなら、責任を取らなくちゃいけないのは、わたしたちなんだ。

つづきは、別のエントリーで、明日にでも書きます。

2016年3月14日月曜日

トンデモに騙されないために必要なのは、科学の知識というより人を見る目だと思います

トンデモに騙されないために必要なのは、科学の知識というより人を見る目だと思います。

これ、トンデモについての私の持論です。


外来診療してますと、私のよく知らない治療法や健康法をしてらっしゃる患者さんが、時々いらっしゃいます。
たいてい、その治療法について、「あれって本当に効くんでしょうか」と意見を求められるのですが、もちろん、私としては、私が知らないものについて話を聞かされても、それが正しいかどうかなんてすぐには分かりません。ですので、それが、どういう根拠でどういう治療をすすめているのか、その患者から話を聞いたうえで、ネットやら本やらで、その治療法の「発明者」の主張を読んだりします。

で、まあ、ある程度調べてから、まっとうな治療法だと思うとか、効果があるかどうかわからないけれど、まあ効果があるとしても不思議じゃないと思うとか、あるいは、これは、全く効果があるとは思えないとか、まあ、私なりに意見を言うわけです。

で、そういう経験から常々思っているのですが、いろいろ調べてみて、やっぱり、全く効果があるとは思えない、つまり、トンデモの部類のものだってわかるものって、たいてい、その見た目からして怪しいんですよ。
正直、
「なんで、こんな変な奴に騙されるの?」
って感じるような怪しい匂いが立ち込めているんです。

そういう患者さんに、
「あの治療法はおかしいですよ」
っていうと、
「そうですか。私には、科学的な知識がありませんから、先生とあの人と、どっちが正しいことを言っているのかなんて分かりませんけれど。。」
なんて答える人がいます。たぶん、なにか、それを信じたい心理的な理由があるんでしょう。けれど、大抵の場合、その種の怪しさを感じ取るのに科学的知識の有無は関係ないのです。

以下、私が思っている、信じて良い意見を言っている人の見分け方です。

1,信じて良い意見を伝えようとする人は、たいていは、できるだけ煽らず、スキャンダラスにならないように、落ち着いて話そうとします。
なぜなら、科学的に正しいことを伝えるには、お互いに、感情的にならずに落ち着いて話せなくてはいけないからです。
ですので、正しいことを伝えようとすると、どうしても、落ち着いて、煽らず、怖がらせたりしないように言葉を選んで話さなくちゃいけません。
そういう話し方をしない人は、自分が正しいと思っていないことを言っているのかもしれません。少なくとも正しいことを伝えようという努力が不足している人だとは言ってもいいと思います。

2,科学的な専門知識の体系をきちんと身につけた人は、あまり、非専門家の前で、世の中のいろんな組織の悪口を言いません。
なぜなら、正しい専門知識の体系を身につけるまでには結構な時間がかかります。そして、その間に多くの人に教えてもらったり、世話になったり、迷惑をかけたりするものです。
だから、専門知識を身につけた人には、過去に教えてもらった師匠や迷惑をかけた上司や世話になった同僚が社会のあちこちにいます。ですので、世の中のいろんな組織の悪口など、簡単には言えないのです。それに、社会は、お互いにつながっているものです。不用意に誰かの悪口を言ったら、それは、彼から説明されるあなたの親族や勤務先の上司かもしれないのです。
もちろん、世の中は、きれいなことばかりではありませんから、批判をしなくてはならない問題も時々あります。でも、そういう場合にだけ批判をする人と、普段から悪口ばかり言っている人は、分かりますよね。

3,信じないほうが良い意見を主張する人は、しばしば、派手好きで見栄っ張りで知ったかぶりです。
なせなら、彼が、そういうふうに、あまり正しくない意見を堂々と言う理由は、たいていは虚栄心だからです。

4,世の中の大きな話、たとえば、いくつもの役所やたくさんの会社が関係する話の裏に何かテレビや新聞で報道されない隠し事があり、それがあなたの健康を害しているという話が出てきたら、たいていは間違いです。
絶対とまでは言い切れませんが、たいていは間違いです。
なぜなら、そういう大きな話を動かすには、たくさんの会社やたくさんの専門家の協力が必要であり、そういう人たちの大部分は、たいてい、あなたと同程度には善良だからです。ですから、陰謀のような話やスキャンダラスな話では、多くの会社や専門家の協力を仰ぐことが難しいのです。


いろんなうさんくさい話の、そういった部分を良く見てください。きっと、科学的な知識の有無に関係なく、大抵の場合、そういうトンデモ話の嘘を見分けられることがわかるはずです。

神楽坂すしアカデミーに行ってきました

ずっと、気になっていたんです。

ネットで、合理的な考え方をすることで有名な人たちが、
「寿司屋になるために、なにも長期間下働きしながら修行なんてしなくていい。寿司屋の学校で勉強したほうが早い。」
みたいな発言をしていて、それに対して、ちょっと保守的な考え方の人たちが、激しく反論していたことがありましたよね。

で、本当のところ、学校で寿司を学べるのだろうか、と。一度、寿司学校で寿司を学んできた板前の寿司を食ってみて決めても良いのではないだろうか、と。

で、行ってきました。以下、感想を書いてみます(為念。当然、私が店に行ってきた時の感想ですから、他のタイミングで行った人は、また違う感想を持つかもしれません。)。


結論。
結論から言いますと、決して旨くはありません。安い回転寿司よりすこしマシという程度です。

接客オペレーションについて。
ネットでは、この店の接客オペに問題があると批判が出ていました。
私の印象としては、接客の態度や店員教育が特に悪いとは思いません。けど、この店でトラブルが頻発するのは理解できます。
注文の受け方、料理の配膳の仕方など、少々特殊なルールがいくつもあり、わかりにくいのです。
ルールは、殆どが、食べ切れない量の寿司を注文させないためのルールです。おそらく、寿司の食べ放題ということで、食べ切れない量の寿司を一気に注文する客が多かったのでしょう。その対応で他の客のオペレーションが滞るというトラブルもあったのでしょう。おそらく、それに対応しようとして、注文のルールをいろいろ追加していったのだろうと思います。
ただ、そのルールが煩雑で理解が難しいのです。私が食ってる間にも、店内で、ルールが理解できず店員に食ってかかる人がいました。

板前の腕と寿司ネタ。
ネタ、ハッキリ言って、あまり質が良くなく、大きさも小さいです。まあ、価格も3000円で食べ放題ですから、こんなもんかも知れません。
板前の腕はピンキリです。
私が行った時は三人板前がいましたが、一人は、ほとんど素人みたいな包丁さばきで、握り方も下手くそでした。
ほか二人は、普通の安い寿司屋並みだったかと思います。
そういうわけで、最初に書いたように、あまり旨くありません。神楽坂で食うなら、もっと旨い店が周囲にいっぱいあると思います。
ただ、寿司学校の批判をしている保守的なひとがいうような、寿司屋の伝統には学校などでは学べない大事ものがあるというような話ではなくて、何か、工夫で乗り切れそうな種類の問題が多いような気がしました。

板前と寿司学校について。
最後に、私、個人的に気になっていたのは、どういう人が、こういうところで板前として働くのだろうか、ということです。
学校に安くない授業料を支払い、その上で、こういう店で、おそらくは決して高くない給与か、あるいは無給で働くというのは、普通の寿司屋で下積みをするのと比べて損とまでは言いませんが、すごく得とは言いにくい気がするからです。
また、最近は、大手の寿司チェーンが作る社員研修システムもあります。
そういう中で、どういう人がここに来るんだろうか、と。

実は、私が一番驚いたのは、板前の年齢層が高いことなんです。
私が行った時いた一番若い板前は40前後、次が60くらい、一番高齢の方は70近いくらいの方に見えました。

私が思ったのは、これまで、こういう年齢層の人が、第二の人生として寿司職人を目指すルートというのはなかったのではないかということです。
伝統的な寿司職人の世界では70で見習いを始めるとか言っても門前払いでしょうし、大手チェーンの入社試験もその年齢では厳しいでしょう。
でも、実は、高齢になってから職人を目指してみたくなる人というのは、これまでそういうルートがなかっただけで案外多いのかもしれません。
もう一つ、昨今の求人の状況では中高齢男性の再就職市場は慢性的に厳しくなっています。ですので、ひょっとしたら、その年齢層の人にとって、普通の就職を止めて寿司学校に行って職人を目指すという選択肢のサンクコストは小さくなっているのかもしれません。
また、もうひとつ厳しく言えば、この業態は、中高齢男性の生きがい搾取的な側面もあるのかもしれません。



で、私は思うんですが、ややこしい注文ルールを作るよりも、食べ放題やめて、もう少し旨いネタでやったほうが良いですよ。

良いネタ使えば、そこそこ良い寿司になると思います。

2016年1月25日月曜日

映画「千年医師物語 ーペルシアの彼方に」見てきました

「千年医師物語 ーべルシアの彼方に」見てきました。

非常に良い映画だったと思います。ただ、なんというか、非常にリアルな部分とやや首を傾げるおかしなところの混じった奇妙な映画です。
なんというか、「オタク的」な映画なんですね。

この映画の舞台は11世紀のイギリスから始まります。いわゆる暗黒の中世です。ローマ時代の優れた科学は忘れ去られ、都市は不衛生で様々な病気が蔓延しています。しかし、病気にかかっても医者にかかることも出来ません。せいぜい、怪しげな旅の理髪師が、効くか効かないかもはっきりしない稚拙な「治療」を行うだけの時代です。

主人公は病気で親をなくし孤児として育った少年です。親をなくした彼は、村々を馬車で巡回しながら治療サービスを提供する怪しげな理髪師の助手として成長していきます。

しかし、そんな暗黒のヨーロッパの外、イスラム世界では、ギリシャの科学を受け継いで、さらに後の近代科学につながるような新しい科学が生まれていました。そして、そこには、そんなヨーロッパの理髪師たちよりはるかに進んだ医療技術が存在していたのです。

オリエントとヨーロッパを行き来するユダヤ人たちから、主人公は、自分たちヨーロッパ人より遥かに高い技術を持つイランの医師イブン・シーナーの話を聞きます。そして、彼の住むイスファハンへの渡航を決意するのです。

そして、なんとか憧れのイランにたどり着いた主人公はイブン・シーナーに弟子入りするのですが。。。
まあ、この先は映画を見てください。

この映画は、凄まじくリアルな部分と、どうにも考証のアラが目立つ部分が混在しています。

当時の医療技術は、この種の映画としては非常にリアルに再現されていると思います。病気もリアルに描かれていますし(あまりリアルすぎて、こういうものに慣れていない人には、少しグロテスクに感じられるかもしれません)、暗黒のヨーロッパの稚拙な治療技術も、世界に冠たる先進地域であったイスラム世界の優れた治療技術も、非常にリアルです。

その一方で、イスラム世界の社会的・政治的な状況については、かなり偏見が混じっていると思います。

映画の設定では、イスラム教国ではキリスト教徒が弾圧されています。ですので、キリスト教徒たちはイスラム教国に入国できません。そのため、キリスト教徒である主人公はイランにいくためにユダヤ人に化けるのです。ユダヤ教徒は、社会的に下層の扱いではあったものの、イスラム教国とキリスト教国の両方で容認されていたからです。そういう設定なのです。

しかし、本当のところ、イブン・シーナーの時代のイランは、非常に他宗教に寛容な時代です。この時代のイランを支配していたブワイフ朝は、キリスト教徒もユダヤ教徒もそれほど弾圧しなかったはずです。それなのに、この映画では、当時、世界一の文明人であったはずのイスラム教徒たちが、やや狂信的な「怖い」人たちに描かれているのです。

作中では、イブン・シーナーは、国王の権力に翻弄される、優秀であるが政治的には無力な学者として描かれています。しかし、実際の彼はイランの宰相になったこともある権力者でした。また、イブン・シーナーがイスラムの教えに反する「あること」をしたため処刑されるシーンもあります。しかし、史実では、彼は処刑や戦争で死んだのではありません。彼の死因は「原因不明の腹痛」でした。「原因不明」というのは、イブン・シーナー自身が自身の腹痛を診断できなかったからです。彼自身が当時最高の医師でしたから、彼がわからないということは、すなわち、当時の医学では原因がわからないということになったのです。

妙にリアルな部分と妙におかしな部分が混在している映画です。こういう落差は、オタク的な作品にはよくあります。

たとえば、すこし前に流行った「ガールズ・アンド・パンツァー」は、戦車に乗って女の子が戦う作品です。この作品では、細かいディテールまでリアルに描かれた戦車が走り回ります。しかし、この作品中では、このリアルな戦車の重たいハッチを小さな女の子が軽々と開け閉めするなど、どう考えてもリアルでない描写もたくさんあるのです。
たぶん、この作品を作った人は戦車の詳細なディテールにはすごく興味があるのでしょう。そして、自分が興味のある部分についてはリアルに書きたい気持ちがあるのだけれど、大して興味のない部分は、まったく真面目に書く気がないのでしょう。

この「千年医師物語」も、映画を作った人がこだわりたい部分だけがリアルに作られて、作った人が気にしていない部分は適当に作られたんではないかと思います。

イブン・シーナーは伝説的な人物ですが、いうまでもなく歴史上の実在の人物であり、たくさんの記録が残った科学史上の著名人です。それを扱った映画で、あまり事実に反する描写が多いようでは、お話にのめり込みにくくなってしまいます。また、あまり、イスラムへの偏見が見え隠れするようでは、この映画に不快になる人も多いでしょう。

これはこれで良い映画だと思いました(エンターテイメントとして十分楽しめました)が、次は、もっとリアルな、事実に即したイブン・シーナーを見たいと思いました。でも、そもそも、こういう題材を扱った映画って、少ないんですよね。

2016年1月7日木曜日

AEDの場所を調べるスマホアプリについて ー政治、あるいは地方政治に関係した立場の人への質問ー

行政とか政治(あるいは、地方行政や地方政治)に関係した立場の人へのお願いというか質問です。

いま、私、自分の近くにあるAEDの場所を素早く調べることができるスマホアプリを作ろうと思っています。

町の中で、目の前で急に倒れた人がいたとき、一番近くにあるAEDの場所を素早く調べることができる、そんなアプリが普及すれば救命の確率は今よりもずっと向上すると考えるからです。

ただ、その開発にあたってすこしばかり面倒な問題を抱えておりまして、おそらく、この問題を解決するためには、皆様のような立場の人の協力が必要なのではないかと考えています。

実は、上に書いたようなAEDの場所を調べられるようなアプリやサービスは既に幾つか存在します。

しかし、既存のアプリやサービスは、どれも動作が遅く操作も複雑で使いにくく、また、アプリが示すAEDの設置場所に誤りやモレがあることも多いため、正直のところ、とても満足できる品質ではないのです。

なぜ、こういうことになっているのかといいますと、全国レベルのAED設置場所の公式データが存在しないからです。

市区町村別の設置場所のデータならば存在します。これは、それぞれのAEDの設置者が設置場所の情報を公開しているものを各自治体ごとにまとめているのです。

しかし、こうしたAED設置者の善意によって集まっているデータにもかかわらず、このデータは各自治体ごとにまちまちの扱いづらい形式で公開されており、そのため、こういったアプリなどにそのまま使える状態ではないのです。

現在は、こうしたサービスやアプリは、サービスの必要性を感じた人たちが、それぞれの自治体の提供するエクセルファイルやテキスト、HTMLなどに含まれるデータを読んで、有志で一件一件入力してアプリのためのデータを作っているのが実状です。

これは、大変な手間です。そう言う状況ですので、アプリ作成者にとっては全国のデータをもれなく遅滞なく入力することは困難ですし、また、データをまとめる手間が大きすぎて、わかりやすいユーザーインターフェイスなどを工夫するところまで手が回らないのです。

しかし、よくよく考えてみれば、それぞれの市区町村が元データを持っているわけですから、はじめから各自治体がある程度共通した形式で公開すること(あるいは、なんらかの公的な機関が全国レベルでまとめて公開すること)は難しくないはずです。もし、全国レベルでのデータ形式の合意が難しければ、現在、市区町村毎になっているデータを都道府県単位にまとめてくれるだけでも、こういうアプリは随分作りやすくなります。

そうしてくれれば、データを一生懸命入力する手間はなくなり、ちょっとプログラムが得意な人ならばこの種のアプリを簡単に作ることができるようになるはずです。そうすれば、似たようなアプリはたくさん出てくるでしょう。たくさんのアプリが出てくれば、その中には、きっと使いやすいアプリも出てくるでしょう。そうすれば、そういったアプリが今よりも普及し、町の中で倒れた人の救命される確率も今よりも上がるだろうと思います。

ただ、私には、こういう問題について、どのような機関に働きかければ聞いていただけるのかわかりません。ご助言いただければ幸甚です。