2023年2月23日木曜日

2022年で読んで良かった本③ 「漢方概論」

 「漢方概論」

今年のはじめくらいに、私、不意に、伝統医学というのは人工知能と相性が良いんじゃないか、と思いあたったのです。伝統医学っていうのは、多くは、なぜ効果があるのか、はっきりしない多数の薬や治療法の組み合わせで治療を行うものですけれど、そういう、なぜ効果があるのかよくわからないブラックボックスをうまく扱うこととか、多数の相互作用をする因子をうまく調整することとかって、コンピュータの得意分野なんですね。
では、人工知能と一番相性が良さそうなロジックを使っている伝統医学の流派というか先生を探してみよう、と、思って、色んな本を読み漁った結果、たどり着いたのが、この本の著者、藤平健先生。
これは!と思って、ぜひ本人と会って、弟子入りさせてもらえるように、お願いしなくては、と思ったのですが、調べてみると、もう、20年以上も前にお亡くなりになっている人なんですね。残念。
私が無知で知らなかっただけで、なんか、日本の東洋医学の世界では、すごく有名な人だったみたいです。
というわけで、ちまちま、勉強しているところです。来年は、これと、人工知能とうまく組み合わせて面白いことできるといいなぁ。

2023年2月21日火曜日

2022年に読んでよかった本②「マニ教」

この記事は、2022年12月にFacebookに投稿した記事の転載です。


 「マニ教」

なんだか、テーブルトークRPGの設定に出てきそうな、やたら細かな設定がある宗教だな、というのが、読後の印象。おそらく、マニ教がそういう宗教である、というよりも、そういう語られ方をしやすい宗教である、ということなんだと思う。
おそらく、それは、マニ教は、すでに絶滅してしまった宗教だから、だろうと思う。
特定の宗教について書かれた研究書は、多くの場合、その宗教を信じている人自身によって書かれるか、その宗教を信じている人たちへの取材によって書かれるか、どちらかである。著者自身が信じている宗教について書くのであれば、当然、その宗教の価値観に否定的なことは書きにくいし、仮に、本人が信じていなくとも、信じている人たちへの取材によって書かれた本であれば、著作に協力した人たちへの配慮から、その信仰へのリスペクトが文の中に現れる。そういうものです。
だから、たとえば、仮に、その宗教の歴史の中で深く尊敬されている人物に、いかがわしい側面があったとしても、あけすけに、いかがわしいとは書かれないのが普通であるし、その宗教の経典に、他宗教からの大きな影響、さらにありていにいえば「盗作」と言いたくなるような部分があっても、それをあけすけには書かないのが普通である。
この本には、そういう忖度が全くない。
これは、おそらく、マニ教が、すでに滅んでしまった宗教だから、だと思う。この本が題材にするマニ教という宗教は、3世紀にマーニーによって創始され、遅くとも14世紀頃までには、信者がいなくなってしまった、既に滅んだ宗教なのである。
だから、著者は、もちろん、マニ教の信者ではないし、マニ教の信者に取材したわけでもない。忖度しなくてはならない教団も、現代社会には存在しない。
配慮は全く不要なのである。
また、この本には、マニ教を信じている人たちの内面に迫る話も、全くない。こういう儀式がある、こういう神話や教義がある、というだけで、なぜ、彼らがそれを信じたか、という、信じている人たちの気持ちがさっぱり書かれていない。教祖であるマーニーについても、多くの人を引き付ける神話的な物語を作った才能豊かなクリエイターとして描写される。奇跡や救済をもたらす聖者とか、人間の悩みに応える宗教家とか、そういう描き方はされないのである。
でも、これも、考えてみれば、当たり前のことで、マニ教の信者が、何百年も前に絶滅しているからだろう。おそらく、信者の心の中のドラマは、ほとんど記録に残っていないのである。
そういうわけで、この本に書かれたマニ教は、私が中学生や高校生の頃に結構流行った、少し昔のファンタジーRPGの設定に出てきたような神様や経典や儀式のごった煮みたいな薄っぺらさで、なぜ、信者が、それを信じているのか、よくわからない宗教なのだ。
でもね、この宗教が、千年ほど前には、キリスト教や仏教、イスラム教と並ぶ、世界宗教だったのだよ。民族を超えて、ものすごく沢山の人が、それを真実だと信じていたのだ。そして、それが、なぜ信じられたのか、千年後の我々には、わからなくなってしまっている。
それは、つまり、私達が今信じていることも、千年後には、なぜ昔の人(つまり私達)がそれを信じているのか、さっぱりわからず、薄っぺらになってしまっているかもしれない、ということなのじゃないでしょうかね。
なんか、そういうふうに不安になる本でした。

2022年に読んだ良かった本①「ピダハン」

この記事は、2022年の12月にFacebookに投稿した記事の転載です。


今年読んだ、良かった本のリストでも作ろうか。

1冊目。「ピダハン」

南アメリカのピダハン族の言語や生活についての記録。

著者は、言語学者で、キリスト教の教師。南アメリカの原住民の社会に入り、原住民にキリスト教を伝える仕事をしながら、原住民の言語について研究していた。そういう立場の人物による、アマゾン川上流に住むピダハンと言われる部族についての記録である。

このピダハン、我々から見ると、非常にユニークな言語を持っている。

たとえば、ピダハンの言葉には数詞がない。この人達は、基本的に、数を数えることがないのだ。彼らの言語には色の名前もない。方角(東西南北)を表す名詞もない。数や色、方角など、具体的に触れることができないものについて表現する名詞はない、という言語なのである。

ピダハンには、時刻や季節を表す単語もない。これは、ピダハンの住む熱帯雨林が、一日中薄暗い、昼も夜も区別がつかない森の中で、また、一年中、同じように温かい赤道近くであることが関係しているのかもしれない。そのため、ピダハンは、ごく短命であるにも関わらず、自分たち人間の寿命に関する知識もないし、お互いの年齢も知らないのである。

ピダハンの言語の文法には、再帰構文(「Aさんは学校に行ったとBさんが言った」というような、文の中に、別の文が入れ子になるような構文)がない。そのため、ピダハンは、お互いに、人から聞いた情報を伝えることが難しい。普通の言語では、伝聞の構文は、文が入れ子にできることを利用して作られているものだから。だから、基本的に、ピダハンが話すことができるのは、彼ら自身が自分の目で見たものだけである。特に、遠い過去のことについての伝聞情報、つまり、歴史とか神話のような、を伝えることは、ピダハンには、非常に難しい。そのため、ピダハンは、独自の神話を持たない。

ピダパンにキリスト教を伝えようとする主人公にとっては、この最後の問題が決定的な障害になった。ピダハンは、自分で直接見たことがない遠い過去の事件については語ることができない言語でコミュニケーションを取る。そういう人たちに、2000年前のイエス・キリストの話を説明するのは、非常に困難だったのである。

また、言語は、それを使う人達の思考に影響を与える。過去の歴史について語れない言語を持つピダハンは、イエス・キリストについて、たとえ、何かを聞いたとしても、興味をもつことができないのである。

このピダハンについての記録は、言語学の世界に衝撃を与えた。当時、言語学の世界の最大の権威であったチョムスキーが、すべての言語には再帰構造があるはずだ、と主張しており、多くの言語学者は、それを疑っていなかったからである。

一方、言語学の世界には大きな影響を与えた著者であるが、本人は、アマゾンの上流で苦悩を続けた。キリスト教の教義を説明できない言語がある、ということを見せつけられた彼は、彼自身の血肉であったキリスト教の教えの普遍性を信じられなくなっていくのである。しかも、彼の目の前にいるキリスト教を理解できないピダハンは、彼には、悩みなく、幸せに見える人たちなのである。彼は、ピダハンの悩みのなさを、ピダハンが、今ここにあるもの以外を表現できない言語を使っていることと関連付けて考えている。今ここにあるもの以外を表現できない人たちは、未来のことを不安に感じたり、過去のことを悔やんだり、今ここにない物事によって悩むことはできない、というのである。

本の最後で、彼は、悩んだ挙げ句、キリスト教の信仰を棄てる。その結果、彼自身と同じように熱心なキリスト教徒であった彼の家族とは、絶縁してしまう。

今年読んだ一番すごい本である。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観 ダニエル・L・エヴェレット (著), 屋代 通子 (翻訳)


薬効のある植物は、なぜ、薬効があるのか?

これは、2022年11月に、Facebookに投稿した記事の転載です。


植物は、自身に危険が迫っているときに、それを察知して、様々の反応する。特に、大きな危険があるときには、多くの植物は、新しい芽を出したり枝を作ったりということを一旦止めて、眼の前の危険に対応しようとするらしい。当然、そういう危険の情報を植物の全身の細胞に伝えるための、植物のホルモンのようなものがある。で、コーヒーという植物は、それをハックしているらしい。

コーヒーの実は、多くの植物が危険を感じたときに放出するホルモンににた成分を、大量に含んでいるらしいのだ。そのため、コーヒーの木が、実を落とすと、その周辺の、他の植物のタネは、危険があるものと誤認し、発芽を、いったん延期する。その結果、コーヒーのタネは、周囲の他の植物が芽を生やさないうちに、自分だけ発芽し、太陽光を独り占めし、大きく成長できる。

我々は、その、危険を知らせる植物ホルモンに似た成分を、「カフェイン」と呼んでいる。我々は、そのコーヒーの実を炒って、その抽出液をお湯で薄めて飲んで、我々の神経を覚醒させる効果を楽しんでいる。

植物が、危険の際に放出するホルモンと、人間の交感神経を刺激する成分が、お互いに非常に似通っているらしい、ということの不思議さも面白いが、ここで、当たり前に気づくことは、コーヒーがカフェインを作ることは、本来は、コーヒー好きの人間のためではなくて、コーヒー自身が、成長し、子孫を残し、繁栄するための戦略の中で、必要なものである、ということである。

コーヒー以外にも、人間や動物の体に強い影響を与える物質を作る植物は、たくさんある。そういう植物は、たいていは、植物自身にとって、そういう物質を作ることのメリットが大きいから、そうしているのだと思う。

唐辛子の実は辛い。唐辛子はカプサイシンという成分を含んでいるからである。ほとんどの哺乳動物は、だから、唐辛子を食べることを避ける。哺乳動物は、カプサイシンが粘膜に触れると、痛みや熱に似た刺激を感じるからである。しかし、鳥類は、カプサイシンでそういう刺激を感じないらしい。だから、鳥は、唐辛子を食べる。唐辛子は、そうして、鳥にだけ食べられる。鳥は、空を飛ぶから、哺乳動物よりも行動範囲が大きい。そうして、鳥は、哺乳動物よりも広い範囲に糞を落とす。唐辛子は、鳥の専用の食品になることで、他の類縁植物よりも、より遠くに、鳥の糞に混ざってタネをバラまくことができる。カプサイシンは、唐辛子の繁殖のための戦略なのであり、別に、唐辛子は、人間の食卓を豊かにするためにカプサイシンを作っているわけではないのだ。

彼岸花の根は、毒を持つ。だから、ネズミやモグラなどの地中の小動物は、彼岸花を植えてあるところには、穴を掘らない。墓の近くに彼岸花を植えるのは、昔、土葬が普通だった時代、そういう小動物が遺体をかじって、墓の近くで繁殖することを防ぐための工夫であった。もちろん、彼岸花は、人間の墓を守るために毒を作るわけではない。彼岸花は、夏までに葉をつけ、光合成し、その栄養で、秋に花をつける植物である。秋に花をつける頃には、彼岸花には葉はないのだ。つまり、光合成する時期と、花をつけて繁殖する時期に、明確な時間差がある植物なのである。その時間差の間、栄養は、彼岸花の根茎に蓄えられる。繁殖のための栄養を蓄えた根茎を地中の小動物や昆虫から守るのは、彼らにとっては死活問題なのだ。そのための毒である。

さて、病気や怪我の治療に使える効果を持つ成分をつくる植物は、たくさんある。「薬草」なんて呼ばれる。おそらく、こういった薬草が、薬として利用できる成分をつくるのは、本来は、人間の医療に役立つためではないはずである。植物は、その植物自身が繁殖し成長するために、なにかメリットがあるから、薬を作っているはずだ、と思う。

麻黄という薬草がある。エフェドリンという成分を含み、それを服用した人間の心拍数を増やし、気管支を拡張し、発汗を促す。その性質を利用して、喘息の薬などに使われる。

あるいは、桂皮(桂枝、シナモン)という植物がある。血行を促進し、体温を上げ、発汗を促す効果がある。それを利用して、感冒の薬などに使われる。

「こういう薬用植物は、どういう生存戦略で、こんな成分を作っているのでしょうか?」「こういう薬用植物が繁殖するために、薬の成分を作ることは、どういうメリットがあるのでしょうか?」と、最近、色んな人に意見を聞いてみたのだけれど、みんな、そんなこと考えたこともない。という。文献も探してみたが、見つかった範囲では、そんなことを書いている人は、どうもいないらしい。

でも、薬を作ることは、植物自身にとっても、かなりコストがかかることのはずなのだ。であれば、植物自身にとっても、そのコストに見合うメリットがあるはずだ、と思う。

だれか、そういう事を考えている人、いないでしょうか?