2014年3月28日金曜日

自動「無」診断システム

ひとつ前の記事で書いたように、以前、僕は、自動診断システムを作っていたことがあります。

この自動診断システム、一般内科外来の現場での利用を想定したもので、患者の年齢、性別、主な訴えを入力すると、確率の高い疾患から順に列挙し、さらに疾患を絞り込むために患者にするべき質問を表示するようになっていました。そして、その質問の答えを入力すると、可能性の高い疾患をさらに絞り込んで表示し、次にするべき質問を表示します。これを繰り返して、可能性の高い疾患がひとつに絞り込まれるか、これ以上、患者への質問だけで絞り込めない状態になると、終了します。推論の方法としては、単純なナイーブベイズアルゴリズムを使っていました。

そこそこうまくできたので、それをネタにしたショボイ論文もいくつか書きましたし、学会発表などもいくつかしましたので、検索すれば、そういう論文や記録がどこかに転がっているかもしれません。

その時、これをネタに、大学で本格的に研究しようと思っていたのですが、しかし、大学で研究するとなると、ソフトウェアを書くだけでなくて、それなりに本格的な論文を多数書かなくてはなりません。ところが、このネタでは、しっかりした論文を書くのが案外難しかったのです。

新しいソフトウェアを作って、それをきちんとした科学論文にしようとした場合、それが既存の似たシステムとどう違うのか、既存のシステムに比べてどこが優れているのか、そういったことを論文中に明確に書かなくてはいけません。つまり、過去のシステムと比較し、新しいシステムの評価をしなくてはいけません。ところが、複数の診断の方法があるとき、どちらのほうが優れているかを明確に示すことは非常に難しいのです。

そもそも、現在の医学では、僕達は、100%正しい診断を得るということができません。確かに、疾患によっては、ある程度コンセンサスが得られた「診断基準」みたいなものがあります。でも、それにしたって、実際に基準を患者に当てはめてみると、その結果はかなり曖昧なものです。同じ基準を使っても医者によって意見がわかれることはよくあります。100%正しい正解がない曖昧な状態で、各システムの採点をして、その点数の比較をするのですから、結論がぼんやりしてしまうのも当然のことです。

僕は、このとき、診断システムの比較の難しさに直面して、それからずっと、「診断とは何か」「なぜ、診断は曖昧なのか」について、考えてきました。

僕の考えでは、診断とは、患者の体の中で起こっている現象を「診断名」という単語にひもづけること、つまり、診断名という単位で患者を分節化(コード化)することです。患者の体の中で起こっている現象は、一人ひとり違いますし、それぞれの患者の体内で起こっている現象は、それぞれ、一回限りの現象です。だから、「分節化」とは、患者の体験のうち重要でないと考える部分を「捨象」し、似た患者の体験を同じと「みなす」ことです。どれくらい捨象することが正当か、どれくらい同じとみなすことが正しいか、科学的な明確な基準はありません。たぶん、このあたりが診断の曖昧さの本質だと思います。

どこまでを捨象し、どこまでを同じ体験とみなすか、これは医者によって異なります。また、同じ医者でも場面によって異なります。たとえば、救急など緊急性が高い場合は、バッサリと大きく捨象する、大雑把な「みなし」が必要と思います。患者の体験の細かい違いにこだわるよりも、素早い対応が必要だからです。その一方で、たとえば、在宅で「見取り」をするときなど、患者の最後の体験を大切にしてあげたいケースでは、まったく逆になります。細かい患者の体験の違いをこそ大切にしなくてはいけません。その場合、しばしば、診断名のくくりよりも細かい、個別性の高い対応が必要になります。在宅医療をしている先生たちを傍目に見ていると、そういう細かなモヤモヤに合わせた対応は、結構勇気が要るなぁ、と思います。そういった診療の経験に乏しい僕には、明確な基準がない(ようにみえる)状況で、フレキシブルな判断を求められるのは、非常に怖く感じられるのです。

診断の背景には、常に、診断に捨象されたモヤモヤがあります。モヤモヤを気にしないで捨象してしまっても、僕達は、ほとんどの場合は問題にしません。これは、捨象しても大きな問題が起こらないということなのか、それとも、何か大事なものを捨象してしまっているのに誰も気がついていないせいなのか、よくわかりません。もし、モヤモヤを捨象しても大きな問題が起こらないというのであれば、きっと、診断ですくい取れないようなモヤモヤの部分は、僕達が気づかないうちに、生物の中の精緻な仕組みが支えてくれているということなんでしょう。

モヤモヤと診断について、少し一般化して、病気の患者だけでなく、健康な人も含む多くの人の人生の問題として考えてみます。そうすると、診断の背景のモヤモヤと診断の関係というのは、僕達の人生と、僕達のアイデンティティの関係に相当すると思います。

アイデンティティとは、僕の考えでは、たとえば、「僕は、男性で、日本人で、夫で、また、会社員で、、、」というふうに、僕達の人生にラベルを貼ることです。僕達は、人生で何かの行動方針を決めるとき、無意識のうちに、このラベルを大切に考えて決定します。しかし、ラベルは、僕達自身の人生そのものとは微妙にズレています。また、僕達は、人生で本当に重大な決定をするとき、しばしば、このラベルを無視しなくてはいけないことすらあるのです。どのラベルも、人生そのものではありません。たぶん、お釈迦様が諸法無我とおっしゃったのは、そういうことだろうと思っています。

さら、そう考えてきて、僕は、次に機会があれば、「自動診断システム」でなく、「自動診断システム」というのをつくってみたいと考えています。突拍子もないようですが、データマイニングに基づいた推論では、「診断」がないのはそれほどおかしなことではありません。

自動無診断システムは、自動診断システムと同じように、医療の意思決定に必要な情報を提供するシステムです。しかし、自動診断システムと違って明示的には診断しません。

自動無診断システムは、治療方針を決定すべき患者のデータを与えられると、過去の様々な患者のデータと比較し、よく似た患者を選び出します。この、「よく似た患者」は、多くの場合は、診断名も同じ患者でしょうけれども、必ずしもそうである必要はありません。ただ、全体にデータが似ていればいいのです。そして、その「よく似た患者」で有効だった治療法やそれほど有効でなかった治療法について検討し、そこから、元の患者でどのような治療が有効らしいか推定します。

おそらく、多くの場合、この自動無診断システムによる治療方針は、通常僕達がやっている、診断に基づいて治療方針を決定する方法と、それほど変わらないものになると思います。では、どのような場合に、自動無診断システムの決定と診断に基づく決定が、異なる結論になるだろうか?僕は、そこに少し興味があるのです。

2014年3月21日金曜日

ウェブ時代における、傲慢な診断のゆくえ

僕は、医学の教科書類のうちでは、診断学の関連の本を読むのが一番好きです。過去に自動診断を行うプログラムを作ったこともありますし、診断を勉強するのが自分は好きなのだな、と思います。

でも、診断が得意なわけではありません。診察室で、その場で適切な診断を思いつけず、後になって、ああ、アレは、ああいう検査をするべきだった、と悔やむことはしょっちゅうですし、そういうことで痛い目を見たことも何度もあります。

自分が診断が得意でもないのに診断について勉強するのが好きなのは、自分では、診断という行為の中にある「ある種の傲慢さ」と、その「傲慢さのコントロール」みたいなものを気に入っているからではないかと思っています。

サービスとしての医療は、ある意味で、奇妙なくらい傲慢なコンセプトを前提にして成り立っています(そして、その傲慢さは、医者にとって当たり前すぎて、普通は意識すらされません)。それは、患者は、「自分が何に困っているか」は、よく知っていて、だからこそ受診するのであるが、「自分がどういうサービスを必要としているか」は自分ではほとんど知らない、という考え方です。そして、「どういうサービスを必要としているか」を、第三者である医療者が患者を観察して明らかにする方法論が診断学です。

こうして文章にしているだけでも、うんざりするほど傲慢でパターナリスティックな考え方です。はじめて、医療現場に出たとき、この感覚がすごく傲慢に感じて嫌になりました。

僕は、この考え方があまりに大嫌いで、そのせいで(もちろん、それだけが理由ではないのですが)、一度は医者をやめて、別の仕事をしていました。

いくつかやった別の仕事の1つが、コンピュータ関連の、いわゆる、SIerの仕事です。でも、こちらの業種でも、多かれ少なかれ、似たコンセプトは存在するのですね。コンピュータを導入したいと思っている顧客企業は、たいていの場合、自分が本当に必要としているシステムがどういうものか、つまり、システムの要求仕様というやつをおぼろげにしか理解していません。システムについての専門的知識がないのですから当然のことです。ですから、システム導入を請け負うIT企業は、まず、顧客にインタビューして、顧客の仕事の様子を観察して、顧客が、「本当は、どういうサービスを必要としているのか」を明らかにしようとします。医療の場合との違いは、顧客の要求の見出し方、仕様書の作り方などのノウハウが、診断学ほどは体系化されていないというだけです。

システムの導入を行う企業の中で、専門家でない人が、自社に導入すべきシステムについて「しったかぶり」すると、システム導入が失敗することがあります。逆に、傲慢に、「顧客は自分が必要としているサービスを知らない」と考えてシステム屋が誘導すると、案外、システムの導入がうまく行くのです。というわけで、「僕の経験からすると、一番やりにくいのは、顧客企業に、中途半端な「パソコンオタク」がいた時でした。

これは、IT企業の中の人間関係でも、同じことです。この会社でエンジニア的な仕事をしていた僕は、非エンジニアから「しったかぶり」をされて怒ってしまったことが何度かあります。もっとも、「しったかぶり」と言っても、大したことではないのです。たとえば、
「なんか、このソフトにバグがあるんだけれど。。」(うるせえ!それがバグか、それともテメエの操作ミスかは、オレが決めるよ。)
「ねえ。これくらいの修正だったら、1週間もあればできるよね。」(できるかもしれないが、でも、工数を見積もるのは、お前じゃなくてオレの仕事だ。)
怒ってしまったのは、その時、特に疲れていたからというのもあるのですが、こういうことは、ある程度、「専門家」に任せてもらわないとうまくいかないのです。

おそらく、「専門家が特定の分野の知識を利用して非専門家にサービスをする」というパターンの業種では、どこでも、「顧客は必要なサービスを知らない」的な傲慢な前提が、一定の合理性があるのでしょう。そのことに気がついて、他の業種に比べて医療もそれほど傲慢なものではないと思うようになった僕は、しばらくたって医療の世界に戻ってきました。

むしろ、今では、医療の世界が体系化された診断学をもっていることは、医療者の傲慢さを医療者自身が制御することに役立っていると思うようになりました。ある程度体系的で客観的な診断学が公開されていることは、個々の医師が、患者が受けるべき治療についてデタラメを言うことを強く抑制します。また、医師は、患者が受けるべきと考える治療について、自分の思い込みを離れて、ある程度客観的に見ることもできるようになります。診断学は傲慢な前提で成り立っているかもしれませんが、それがある程度体系化され、かつ公開されていることによって、自身の傲慢さをコントロールするために役に立っているのです。

アメリカのテレビドラマの「ドクターハウス」には、恐ろしく傲慢な、天才的な診断能力をもった医師が出てきます。彼は、ワガママで傲慢で人間嫌いで、そういう自分をコントロールすることができません。それでいて、診断の天才です。劇中の彼の診断には思わず首を傾げてしまうものも多いのですが、診断学が医師の傲慢さをコントロールしていると感じている僕には、妙にリアリティのある人間描写です。

ところで、僕は、ウェブ時代になって、ひょっとしたら、この種の「診断」は、なくなっていくかもしれない、と思っています。

上のほうで、僕が、自動診断システムを作っていたことがあるという話を少し出しました。その自動診断システムを開発していたとき、僕は、自動診断システムにウェブ用のインターフェイスをつけて、ウェブから利用できるようにしようと考えていたのです。そのときまで、僕は、ウェブの開発にはあまり経験がなかったものですから、自動診断システムに流用できそうな既存のウェブアプリケーションのユーザーインターフェイスを色々調べたのでした。特によく調べたのは、ユーザーにアドバイスしたり、リコメンドしたりする機能を持ったウェブアプリケーションです。ビッグデータを利用して、ユーザーになにかアドバイスをするというのは、まさしく、「診断」のように思えたからでした。

さて、そのときに気がついたのは、ウェブアプリケーションの中には、「診断学」的な、「ユーザーは、自分が必要としているサービスを知らない」的な前提をもっているものは、ほとんどないということでした。

ユーザーデータを利用して、自社サービスのうち、どれがそのユーザーが利用すべきサービスかアドバイスするタイプのシステムってのは、結構普通にあります。たとえば、オンライン書店で本を買うと、「あなたには、この本もお勧めです」って言ってくるとか。

でも、その中の一つとして、「ユーザーは、自分が読むべき本を知らない」、「ウェブサイトが、ユーザーのデータから彼が読むべき本を決定する」なんて、傲慢な前提を感じさせるリコメンドシステムはなかったように思います。リコメンドシステムは、「ユーザーは、自分が読むべき本を知っている(自分が読むべき本かどうか判断できる)」けれども、自分が読むべき本を探すのが面倒くさいから、「ウェブサイトが彼が読むべき可能性の高い本を推薦する」という謙虚な前提に立っています。これは、医師など人間の専門家が自然に前提にしている考え方とはずいぶん違います。また、ユーザーが、データから判断してどういう状況なのか、「診断」するシステムもひとつもありません。

たとえば、
「あなたは、これまで、ラーメンの本やらお菓子の本やら、カロリーの高い食べ物についての本をいっぱい買ってきましたね。だから、あなたは、ラーメン好きの肥満症である可能性が高いと「診断」しました。そこで、あなたには、このダイエットの本を「処方」します。必ず購入ボタンを押して、届いたらすぐに読んでください。」
なんて、そんな押し付けがましいオンライン書店は、まだ、見たことがありません。
なぜなんでしょう?

ウェブサイトだと、不特定多数が利用するから、「診断」が間違えたときに責任が取れない?
それとも、ユーザーは、人間の専門家ならともかく、たかがウェブサイトからそういうことを指示されるのが不愉快?
ただ単に、現在のウェブが、まだ、そういう「診断」が必要なジャンルに使われていないだけ?

今後、もし、医療情報ウェブみたいなのが普及し、医師のかわりをするウェブ版人工知能が十分に実用になる時代がきたら(そういう時代は、それほど遠くない将来やってくると思います)、その時には、「傲慢」なウェブサイトが登場するんでしょうか?

僕には、「傲慢な前提」がないというのは、ウェブの、なにか本質的なところじゃないかという気がするのです。もし、将来、ウェブでAI医者のアドバイスを受ける時代が来たら、その時には、ウェブにも傲慢な前提が登場するんでしょうか?ひょっとしたら、逆に、その時には、今のような「診断学」がなくなっているかもしれないという気もします。

まったく予想がつかないのですけれど、どうなるでしょうかね。

2014年3月17日月曜日

STAP細胞発見のルーズボールは、まだフィールドに残っているか?

STAP細胞とは何か、今、現時点で分かることをまとめておきたいと思っていたのですが、僕が書くよりも非常によくまとまった良い解説を見つけたので、リンクします。
NHKのサイエンスZEROの番組内容をまとめたページです。

でも、このページ自体が、剽窃というか、無許可転載じゃないかという気もします。たぶん、番組内容を書き下すにあたって、NHKに許可とってないでしょうから。でも、非常に良い記事ですので、消える前に読んでおいてください。
 
さて、ここからは、僕は、上にリンクしたサイエンスZEROのページで書いていないことを書こうと思います(ですので、以下を読む前に、上のリンクを読んでください)。

僕は、今回のこの研究については、論文の作り方は相当に粗雑だったのですが、発見それ自体が完全に嘘だったとは考えにくいと思っています。そして、現時点で、外野が理研を責めすぎることは、日本の国益の観点からも問題がある結果になりかねないと思っています。

報道によると、今回の研究は、小保方さんのチームが「STAP細胞」を作り、若山先生のチームがその細胞を実験して多能性があるかチェックをする、という手順で行われたそうです。そして、皆さんご承知のように、現在、この「STAP細胞」の作り方に関する論文の記述に、様々な問題があるため、この「STAP細胞」自体が本当に作られたのか、疑問が持たれている状態です。

では、仮に、小保方さんが本当はSTAP細胞なんて作っていないのだとしたら、そして、彼女が共同研究者たち全員を騙していたのだとしたら、どのような方法で共同研究者たちを騙しおおせたのでしょう?そもそも、若山先生のところに送っていた「STAP細胞」は、なんだったんでしょう?(若山先生は、相次ぐ疑惑の中で、この、自分が受け取っていた細胞の素性が信用できなくなったから論文取り下げを呼びかけたのでした。)

この詐欺を小保方さんが実行するために、一番考えやすい方法は、ES細胞など、すでに確立されている方法でこっそりと万能細胞を作り、そして、それを「STAP細胞」に混ぜて若山先生のチームに送ることでしょう。

この仮説は、ひとつだけ矛盾点があります。それは、若山先生のところに送られた細胞は、胎盤への分化が確認されているらしいことです。ES細胞やiPS細胞などの既知の万能細胞は、胎盤や羊膜に分化することができません。仮に小保方さんの実験が完全に嘘だとしたらつじつまが合わないな、と僕が思っているのは、この一点がどうにもわからないからです。
 
若山先生は、自分のところに送られた「STAP細胞」が何なのか、小保方さんたちが信用できなくなったとして、自分のところに残っている「STAP細胞」は何なのか、分析を始めたとのことです。おそらく、この「STAP細胞」に、既知のES細胞やiPS細胞が混ざっていないかという点については、比較的早い時期にはっきりすると思います。
では、もし、この発見が全くのウソというわけではないとすると、どういうことになるのでしょうか?
 
「STAP細胞」というものが何なのかはともかく、胎盤への分化ができる、ES細胞などとは異なる何か別の種類の細胞だという可能性が高いということは言えると思うのです。そして、もし、STAP細胞が胎盤への分化ができるということであれば、STAP細胞は、ES細胞などの「多能性細胞(胎盤や羊膜には分化できないが、胎児そのものを作る細胞はすべて作ることができる細胞)」よりも受精卵など「全能性細胞(胎盤や羊膜も含めて、すべての細胞を作ることができる細胞)」に近い細胞かもしれないということを意味しています。もし、そうであれば、やはり、これは生物学や医学に大きな影響を与える発見です。

理研の小保方さんたちは、ゴール直前で「STAP細胞」というボールを取りこぼしました。いま、「STAPと呼ばれた何か」が何なのかをきちんと調べなおすことは、ノーベル賞級のルーズボールをキャッチすることになるかもしれません。僕は、あまり、理研の連中を攻撃することは、この作業を妨害することになるかもしれないと思っています。この件で考えられる最悪のシナリオは、「世間の批判で理研がSTAP細胞に関する論文や特許を取り下げたあとで、誰かがSTAP細胞の追試に成功して特許をかっさらっていく。そして、将来の日本人がSTAPから派生する技術を使うときに、ずっと海外の誰かに特許使用料を支払い続けることになる。」ということだと思います。ここまで公費を投入して進めてきた研究です。そういう結果にしては損だと思いますね。論文の取り下げは、急ぐ必要はありません。じっくり検討して考えればいいことだと思います。

最後に、さして根拠のない僕の予想ですが、どうも、STAP細胞というのは、Muse細胞の一種(だとすると、かなり変わった変種のMuse細胞ですが)かもしれないな、という気がします。Muse細胞というのは、あちこちの組織の中に存在する小さな細胞で、酸などの刺激や機械的刺激に強く、かつ、(限定的ながら)多能性をもつ幹細胞です。外傷などのとき、傷を修復するために働くと考えられています。機械的刺激に強いため組織が傷を負った時に生き残ることができ、かつ、多能性があるため傷を修復するために必要な細胞を作ることができるんですね。

もちろん、酸の刺激で細胞の初期化ができるという可能性もあるのですが、元々、そこには多能性細胞があったという可能性も相当にあるんじゃないかと思うのです。

2014年3月16日日曜日

論文の読み手のバイアスとか、科学ジャーナリズムの難しさとか。

このエントリーは、自分の記録と自戒のために残しておこうと思って書いているものです。STAP細胞の話が出てきますが、このエントリーの中で、STAPとはなにかについては解説していません。たぶん、後日、STAP細胞の謎そのものについては、別のエントリーを書くと思います。

1月31日。理研がSTAP細胞なるものを作ったというニュースの第一報を、僕は、テレビで見ました。体細胞に酸による刺激を与えるだけで多能性細胞が作られるという研究の内容を聞いて、僕が、まず第一に連想したのは、あのニセiPS細胞の森口尚志さんのことでした。発表内容が、あまりに通常の生物学の常識に反していたものですから、即座に嘘だと思ったのです。理研に第二の森口さんが現れたと思ったのでした。

僕は、森口さんと一緒に仕事はしたことはないものの、彼と同じフロアで働いていたことがあって、彼とは何度か話したことがあります。真面目な医師兼研究者だと思っていました。彼が、自分で自分のことを医師だと自己紹介したことがあるわけではありませんが、なんとなく医師然とした態度で振舞っていましたし、右も左も医師が多い医大でのことですから、僕も、彼のことを、なんとなく医師だと思っていたのです。平凡な外見で、あまり印象が強い人ではありませんでしたので、ニセiPS細胞の事件があったときも、すぐには思い出せませんでしたが、何度かテレビで顔を見ている間になんとなく思い出し、その後は、あの平凡そうで真面目そうな彼が、どこで道を踏み外したのだろうと思っていました。彼の顔をテレビで見ながら、きっと長期間にわたって一人だけで実験していると、つい、自分が期待する実験結果をでっちあげてしまいたくなる、そういう誘惑があるのだろうな、と思ったものです(そして、そういう感覚は、科学研究の道を志したこともある僕にとっても、ひとごとではなく、よく分かる感覚でした)。

そこで、はじめに理研の発表を聞いた時、この研究は、森口さんのように、誰か一人の研究者が自分だけで研究をすすめて、その結果ウソをついてしまった研究ではないかと想像したのです。ですから、僕が、理研の発表を少し詳細に聞いてびっくりしたのは、この研究がそこそこ大掛かりなチームで行われていたものだということでした。その時、ひょっとしたら、この研究は本当かもしれない。そう思いました。基礎的な科学論文からは久しく離れていましたが、ひとつ、この論文を読んでみようか、そう思いました。

実際に論文を初めて読んだのは、2月3日の月曜日のことになります。僕は、毎週月曜日に、某私立大学に勤務しています。その大学の自分の居室でSTAP細胞の論文をダウンロードしました。大学からアクセスした理由は、Natureのような論文誌のサイトは、大学や研究機関からのアクセスでないと内容を読むのが少し面倒だからです。論文をダウンロードしたその頃には、もう、女子力の高い割烹着のリケジョは、世間でちょっとしたブームになっていました。

科学論文を読むときに、しばしば、「批判的に吟味」せよと言われます。これは、その論文が主張している結論が、きちんとした論理的な推論でなされているかどうか、それから、その論理が、きちんとした科学的(あるいは統計的)な実験や観察の結果に基づいているかどうか、その実験や観察は科学的に正しい方法でなされているかどうか、そういったことを、少々意地悪な論文批判者の目になってチェックしながら読んでいくことです。しかし、その時、すでに世間のフィーバーの影響で強い先入観を持って論文を読んだ僕には、「批判的に吟味」はできませんでした。

論文全体をざっと見て、初めの印象は、恐ろしく図表の多い論文だということでした。たぶん、僕が過去に読んだNatureの論文の中では、一番図の多い論文だと思います。大部分の図は、STAP細胞がどのような細胞なのかを調べた追加実験の説明のためのものです。おそらく、Natureで論文を審査した査読者からの要求で、ものすごくたくさんの追加実験を行ったからだと思いました。記者会見で、小保方さん自身が、Natureの査読者からかなり厳しい評価をされて悔しい思いをしたと話していましたので、きっと、その厳しい査読のあとが、このたくさんの図なんだろうと思ったのです。それから、この論文を書いた小保方さんは、きっと、英語があまり得意ではないのではないかと思いました。といいますのは、僕自身も含めて、英作文が苦手な人が英語論文を書く時に、細かいヤヤコシイ説明を下手くそな英語でするよりも、図を使って説明しようとすることがよくあるからです。図で説明すれば、英語が苦手なことによるハンディキャップを多少ですが埋めることができるのですね。

それから、論文を実際に読んで、少し冗長な文章だな、また、図と本文の対応が少し分かりにくい論文だな、と思いました。今から考えますと、この論文には、この研究に関係ない別の論文からコピーした図表や説明が混ざりこんでいたわけですから、この印象はあたりまえのことでした。初めて読んだ時も、それらの不自然な部分に、意識のどこかでは気づいてはいたのです。しかし、文を読んだ瞬間は、そのおかしな部分も目にはつくのですが、次のセンテンスを読むときには、その違和感は忘れ、結局、おかしな部分は飛ばし読みし、頭の中で論旨を補いながら読んでしまっていたのでした。批判的にではなく、相当に「好意的に吟味」してしまったのですね。

一読したあとの僕は、この論文の、あまりに革命的な主張に感動していました。自分は生物学と医学に本当の革命が起こる時代に生まれ合わせたんだな、本当にすごいことだな、と思いました。そして、この発見は、科学だけではなくて、ビジネスと医療を通じて、僕達の社会全体に大きな革命をもたらすことになるだろうとも思いました。これはノーベル賞は確実だとも思いましたし、自分の学んできた生物学の相当部分が、過去のものになった(現在の医学がいずれ過去のものになるのは、STAP細胞などに関係なく当然のことなのですが、この時には、本当に自分の学んだ生物学が過去のものになったと実感したのです)と思いました。

それから、僕は、マスコミが割烹着の話ばかりして、この素晴らしい新しい万能細胞のインパクトについて報道しないのをみて憤るようになりました。これだけ素晴らしい発見があったのだから、リケジョがどうとかでなくて科学的な研究内容を伝えるべきだと思いましたから。

それから、しばらくたって、彼女の博士論文の剽窃や捏造の問題、さらに、今回のNatureの論文の様々な問題が指摘され始めました。今や、この論文自体の撤回が焦点になっているのは、皆様ご存知のとおりです。

今日、改めて、問題だったNatureの論文を読んでみました。依然、この論文には、ウソとは思えない実験の記載があって、論文の相当部分は嘘だったとしても、やはりおもしろい発見があったのだと考えざるを得ない部分も多いです。ですので、僕は、依然として、この論文には、非常に大きな価値があるのだと考えています。

でも、今日の僕には、この論文の不自然なところがいっぱい見えます。そして、あの時、どうして論文の不自然な部分を飛ばし読みしていたのか、また、あの時、どうしてこの論文にあんなに感動していたのか、よくわからなくなってしまいました。世間のフィーバーによる魔法が、僕の中でとけてしまっていたのですね。

3年前、原発事故がおこったあと、放射能に関する様々な話がネットやテレビを通じて飛び交いました。互いに矛盾する情報も多く、発言者たちは、互いに、「放射脳」「御用学者」と罵倒し合いました。さらに、ある人から放射脳と呼ばれた人が別の人から御用学者と呼ばれていたり、わけがわからない言論のバトルロイヤル状態が続きました。

その時、僕は、いろんな人に言っていました。
「結局、基礎的な科学の勉強をしておくことが大事なんだよ。科学の勉強をしておけば、どの情報がウソか、どの情報が本当か、かなりの程度、世間の騒ぎの影響を受けずに正確にわかるものだから。」

もちろん、今でも、科学の勉強の大切さは疑っていません。しかし、今回、たとえ勉強していても、「世間の騒ぎの影響」で、普段と同じように文章を読むことができなくなる、そういうことを身をもって体験しました。科学の勉強をしようとするまいと、「世間の騒ぎの影響」によるバイアスなしに文章を解釈するというのは、非常に難しいことなのです。

今では、あの時の「リケジョ報道」にも、それほど憤る気にもなりません。たぶん、メディアの中にいて論文を正確に読み、正確に解説するのは、簡単なことではありません。メディアの外の普通の市井に住んで、そこそこの科学教育を受けているはずの僕だって、メディアのバイアスに引きずられるときには、気づかないうちに簡単に引きずられていくのですから。

大事なことですので、繰り返します。 世間の喧騒やブームによるバイアスから独立に人の話や文章を解釈することは、できません。

このエントリーは、これでおしまいです。
読んでお分かりの通り、このエントリーは、僕の自戒の文章であって、結論らしい結論も主張もありません。

あと、僕は、今回のSTAP細胞の論文の内容が、すべてが嘘だとは思っておりません。やはり、何かはハッキリわからないものの、今回、理研で面白い大発見があったのだと思っています。仮に理研で行われたという実験がすべて嘘だとしたら、若山研でSTAP細胞の胎盤への分化が観察されているという話と辻褄が合わなくなってしまうからです。この件については、また別のエントリーを書こうと思います。

2014年3月3日月曜日

チャイルドロックや隠し本棚つき電子書籍リーダーが欲しい

僕は、本が大好きです。
どうして本が好きになったのか、よく覚えていませんが、たぶん、親の影響は大きいと思っています。物心ついた時には、自宅は古い小さな借家でしたが、その小さな家に似合わない大きな本棚がありました。僕の父親の本棚です。幼い僕には当然読めない難しい本(当時、僕の父は地元の大学で働いていましたので、たぶん、何かの専門書のたぐいだったんだと思います)が並んでいました。

僕には、そこにある本は読めませんでしたが、小さい子供っていうのは身近な大人の真似をするものです。親が本を難しい読んで勉強しているのを見て、幼い僕は、自分には読めない難しい本を広げて、それを読んでいる真似をしていました。

やがて、僕にも文字を読めるようになってくると(僕は、ちょっとばかりスロー・ラーナーだったので、小学校に入っても、しばらくはひらがなを全部は読めませんでした。でも、そういう子供でも、いずれ本が読めるようになってくるものです)、その本棚には、僕の本も並ぶようになりました。

親の真似をしてそういう本を読んでいるうちに、僕は少しずつ、本と勉強が好きな子供になっていきました。

僕の友人の医師のSは音楽が大好きです。特に古いクラシックが好きだそうです。なんで好きになったのか、彼の思い出すには、彼の父親の影響ではないか、ということです。彼の父親は、クラシックが好きで、クラシックのカセットテープを沢山コレクションしていたそうです。テープは、ほとんどがラジオで流れた曲の録音でした。彼は、親の真似をして、それらを繰り返し聞いて、そのうち音楽が好きになりました。

そういう成長をした大人は、多いと思います。

いま、僕達は、カセットテープのない時代に生きています。CDも、見かけなくなりました。そのかわり、音楽は、小さなタブレットやプレーヤーに収まっています。

本は、もうすぐ、電子書籍に取って代わられるでしょう。
そうなれば、今後は、自宅に本棚が並ぶ家は少なくなるでしょう。

先日、友人と話をしました。
部屋の壁に沿ってデンと物理的に鎮座する巨大な本棚を見ないで育つ僕達の次の世代は、僕達と同じように、僕達の文化を継承してくれるだろうか?
部屋の隅に積み重ねられたレコードやテープを見ずに育つ子どもたちは、僕達の文化を継承してくれるだろうか?

僕は言いました。
「多分、心配ない。
今の子どもたちは、使い方を教えられなくても、タブレットやiPodをそこそこ使えるよ。
だから、もし子供が僕達のKindleに興味を持ったら、同じ形のKindleを、子供にプレゼントすればいい。僕達のKindleの中身を見れるように、僕達と同じアカウントで自動同期するKindleをプレゼントすればいい。子供は、僕達の真似をして読むだろう。たぶん、それで、文化は継承されるんじゃないか。」

「うむむ。
でも、僕のKindleで子供に勝手に本を買われちゃ困るんだ。それに、僕のKindleの本棚には、子供に読ませたくない本だってあるんだ。電子書籍でも、自分の蔵書のうち子供に読ませてもいい本だけを並べた本棚を作れればいいのだが。」

「あ、なるほど。
確かに、僕は読みたいけれど子供には読ませたくない本というのは、僕の蔵書の中にもいっぱいあるな。ある種のバイオレンスとか性的描写がある本とか、そういうものだね。」

まだ、電子書籍の世界には、このニーズに応えるリーダーはないようです。

本当に電子書籍が本を駆逐したら、パスワードを入力しないとその端末からは本を勝手に買えないようなロック機能や、隠し本棚(パスワードを入力しないと見れない本棚)などの機能が、必要になる気がします。

どこかの電子書籍の会社で、そういう機能、作ってくれませんかね。

特に、隠し本棚が作れたら、それだけで、電子書籍の売上伸びるような気もするんですけれどね。
みんな、誰だって、こっそり読む本は、欲しいはずですから。

2014年3月2日日曜日

ビットコインの仕組み(私家版、補遺あり)

今回、ビットコインの交換所の一つである、マウントゴックスが破綻し、ニュースになっています。ただ、ニュースを見ていると、報道関係者も、ビットコインとはなにか、よくわかっていない様子です。

実は、僕、少し前に、ビットコインについて色々調べていたことがありまして、ある程度、この「通貨」のしくみについては、そこそこ知っているつもりです。

昨日、たまたま、Facebookで友人の医師がこのビットコインについて話をしていて、そこで、この、ビットコインの仕組み、つまり、ビットコインがどうやって通貨として機能しているのか、中央の通貨発行者がいないというのはどういうことか、などについて、いろいろ知っていることを話しました。結構長い分量を書いたのですが、Facebookだと、あとで自分の書いた文章を見直すのが面倒なので、こちらに転記することにしました。
(ただ、僕自身で、ビットコインの取引をあまり行っていないので、誤解もあるかもしれません。もし、これを読んだ方で、以下の文章の僕の理解に間違いを見つけた方がいたら、教えていただけると幸いです。)

Hideaki Takata では、ちょっと説明を試みてみようと思います。少し長くなってしまって、このスレッドを占拠してしまうかもしれませんが、かまいませんか?
Hideaki Takata まず、ビットコインというのは、電子マネーの一種です。ですが、スイカやマイルのような電子マネーと違い、「コイン」というように、どちらかというと実際の硬貨や紙幣(百円玉とか千円札とか)のアナロジーを電子情報で実現したんだと考えるほうがわかりやすいです(少なくとも、僕は、そういう理解をしています。)。まず、ビットコインというのは、現実の貨幣みたいなもんだと思ってください。スイカなどのような、残高の記録された通帳データをいじっているのでなくて、ユーザー間で、百円玉ファイルとか、五百円玉ファイルというデータをやりとりしているのだと考えてください(本当は少し違いますが、そういう理解のほうが分かりやすいです)。
Hideaki Takata さて、僕達が、どこかのお店で、たとえば、百円玉でジュースを買う時、お店の人が簡単に百円玉を受け取ってくれるのは、どうしてでしょう。 
Hideaki Takata 答えは色々あり得るのでしょうが、ビットコイン的な回答は、「それがニセガネではないから」です。つまり、僕が自宅で金属を溶かして作った百円玉や、コピー機とプリンタで作った千円札ではないから、です。
Hideaki Takata 実際、どこの国でも、硬貨や紙幣のようなおかねが偽モノだったらすぐわかるように、硬貨や紙幣は精巧で偽造しにくいようにつくっています。
Hideaki Takata ただ、お金がニセモノでないことを証明する方法は、中央機関が通貨を精巧に作るという方法以外にもいくつかあります。
Hideaki Takata ビットコインが採用している方法は、硬貨の履歴を提示するという方法です。 
Hideaki Takata 硬貨の履歴を提示するというのは、「今僕が払おうとしているこの百円玉は、何月何日に、○○から僕に支払われたもので、その前は、何年何月何日に、××から、○○に支払われたものであり、その前は、、、、で、いついつに造幣局で作られたものです。」という風に説明することです。 
Hideaki Takata この履歴の提示が正しければ、自動的に、この硬貨はニセモノではない、という証明になります。
Hideaki Takata そして、ニセモノを作れない「貨幣」であれば、たとえ電子データであっても、十分に取引に使えるはずである、というのが、ビットコインのコンセプトです。
Hideaki Takata 問題は、履歴の正しさの確認を、それを証明する中央機関なしで、どうやって実現するか、です。
Hideaki Takata ビットコインのやり方は、こうです。まず、ビットコインで取引するときには、まず、すべての取引が公開されます。公開されているので、たとえば、こういうところで見ることができます 。 
1193の未確認取引blockchain.info未確認のビットコイン取引リスト
Hideaki Takata ここで公開されているのは、たとえば、「AさんがBさんにいくら支払おうとしている」みたいな情報です。
Hideaki Takata ここにあるものは、「未承認取引」です。この「取引」のことを、「トランザクション」といいます。未承認というのは、まだ、支払えていない状態です。未承認取引は、承認されて、初めて、実際の支払いができます。
Hideaki Takata この承認というのは、ビットコインの場合、複雑な計算をとくことで行われます。この承認作業を、世界中のコンピュータが競争してやっています。なぜ、これらのコンピュータが競争して一生懸命承認作業を行うかというと、この「承認」が儲かるからです。承認作業に参加したコンピュータの所有者には、その作業に使われた計算量に応じて、ビットコインが支払われます。
Hideaki Takata ここで支払われるビットコインは、新規に生成されるものです。これが、ビットコインにおける、「通貨発行」に相当します。つまり、この承認作業の報酬レートが、ビットコインの世界における、通貨供給量やインフレ率を決定します。 
Hideaki Takata さて、この「複雑な計算」がなんのためにおこなわれているのかというと、これが、さきほどの、中央機関無しで、貨幣の履歴の正しさを証明するため、なのです。
Hideaki Takata 個々のビットコインの貨幣には、履歴情報がひもづいています。この履歴情報は、「Aさんの所有する100円玉、何年何日にBさんからAさんに支払われた、その時に、こういう計算問題を解いた。答えは、いくつ。何年何日にCさんからBさんに支払われた、その時に、こういう計算問題を解いた、答えは、いくつ。、、、、この百円玉は、何年何日にNさんによって、生成された。」みたいな感じになっています。 
Hideaki Takata もし、悪意ある人が、ビットコインを偽造しようとしたら、その人は、この履歴情報を偽造しなくてはいけません。そのためには、この計算の部分も作らなくてはいけませんから、いま、承認作業に参加している沢山のコンピュータに張り合えるだけの、膨大な計算をしなくてはなりません。これは、不可能ではありませんが、割に合わないのです(というか、これが、割に合わないように、「計算問題」の難しさが設定されているのです)。百円玉を偽造するために百円以上かかるようであれば、偽造はされないはずである、という理屈になります。
Hideaki Takata これが、ビットコインの、中央機関無しで偽造を防ぐ仕組みと通貨発行のしくみです。
Hideaki Takata 今回、破綻した、マウントゴックスというのは、ビットコインの取引所です。取引所というのは、ビットコインと日本円や米ドルなどを交換できるサービスを提供している会社です。ビットコインの取引自体は、ビットコインのソフトウェアをインストールすれば、普通のパソコン同士、スマートフォン同士でも、簡単にできます。ただ、各個人同士で取引するのは効率が悪いので、通貨交換のマーケットがあるほうが便利なのです。そういう取引を行う会社です。リアルな通貨の世界で言うと、銀行とか証券会社とかFXの会社みたいな感じです。
Hideaki Takata 仮に、日本の銀行がひとつ破綻したというようなニュースがあれば大事件ですが、それは、もちろん日本円自体の破綻を意味するわけではありません。今回の事件で、ビットコインの価格は大きく下がっていますが(日本の銀行が破綻したニュースで、円安になっているという感じに近い)、下がりきったところで買い戻そうとしている人も多いのではないかと思います。 
Hideaki Takata 今回のことについて、いいまとめがあったので、リンクを貼っておきます。
ビットコインと交換所に関する基礎知識(議論や取材の前提として最低限の正しい理解が得られるように書きました)(大石哲之)
Hideaki Takata では。質問もしくはコメントがあれば、明日よろしく。

で、今朝、いくつか追加質問がありました。
1. 偽造防止のための「計算」というのは取引や履歴そのものとは関係のない暗号解読のような作業ですか?md5の逆演算みたいな?
2. ビットコインをリアルマネーに交換する際のサイバー空間上の出来事は日本円を米ドルに交換(購入)するのと同じ様なものと考えればいいですか?つまり自分の円口座から数字が減って米ドル口座の数字が増えるみたいな?

履歴で真正性を担保してリアルマネーとの交換価格は市場が決める…事件屋の間を流れてく約束手形みたいな感じですな。
Hideaki Takata >質問1。ハッシュの逆演算みたいなものです。
Hideaki Takata 実際の計算は、次のようなものです。未承認取引は、いくつかまとめられてブロックと呼ばれる取引群にまとめられます。
Hideaki Takata その、ブロック全体の情報のハッシュ値h0をまず求めて、そのあと、SHA(逆演算が困難なハッシュを求めるアルゴリズムの一つ)で、SHA(key, h0)=z0としたときに、z0の上位32桁がゼロになるようなkeyを求める。というのが、「承認」の作業です。 
Hideaki Takata お分かりと思いますが、承認作業は、正しいkeyが得られるまで総当りでやらなくちゃいけませんが、逆に、承認結果が正しいかどうかは、ハッシュ値を一回求めるだけで確認できます。これが、ビットコインの「承認」でやっている計算です。
Hideaki Takata >質問2。ビットコインと日本円の取引の際の取引所のやっている仕事は、ほとんど、日本円と米ドルの取引と同じです。というか、後者をモデルにして前者が作られたんです。
ハッシュ値の遡上を競い合うことで通貨供給量が増えるというのが実に斬新なアイディアですね.確かにこれは面白い.まだ自分で投資しようとは思わないけど
Hideaki Takata 僕も、今投資しようとは思いません。ビットコインが取引に使えることは、間違いないのですが、貯蓄や投資に向くかは、まだ未知数だと思うのです。
Hideaki Takata 通貨には、交換機能と貯蓄機能があります。論理的には、ビットコインに交換機能があることと貯蓄機能があることは全く別かもしれません。
匿名性は、どうなのでしょうか?資金洗浄に使われるとか聞いたことがありますが・・・
Hideaki Takata ビットコインを持つためのアカウントは簡単に作れますし、アカウント作成時に本人確認もしていません。適当なアカウントを作って資金洗浄をするのは簡単です。実際、ビットコインの取引で一番多いのは人民元からビットコインへの交換です。おそらく、中国の金持ちが、 身元を隠しながら外貨を手に入れるためにやってるのだと思います。 
Hideaki Takata 中国では、本当は、ビットコイン禁止されてんですけどね。

補遺。あとで出てきた追加の質問。
Mt.Goxが主張する「クラッキングによる不正引き出し」はどういう風に行われたんでしょうか?犯人は、今後ちゃんとつかまるんでしょうか?
Hideaki Takata それは、僕もよくわからないんですけれど、どうも、マウントゴックスが使っていたソフトウェアにバグがあって、それを突かれたみたいですね。通常、ビットコインを支払って、支払いの処理がうまくできたら、お金を払った側のコンピュータも、受け取った側のコンピュータも、それぞれ、「支払い成功」と分かる(反対に、ネットワークのエラーなど何らかの理由で支払いが失敗したら、「支払い失敗」と分かる)ものなのですが、マウントゴックスの使っているソフトウェアでは、マウントゴックス側からビットコインを支払った時に、条件によっては、たとえ支払い成功していても、支払い失敗と認識してしまうバグがあったみたいなんです。
Hideaki Takata ですので、そのエラーを突いて、マウントゴックス側「支払いました」 クラッカー側「支払い失敗してますよ。もう一度支払ってください」 マ側「もう一度支払いなおしました」 ク側「また支払い失敗してますよ。もう一度支払いやってみてください」。。。という風に、複数のアカウントから、なんども繰り返し支払いをさせたみたいなんですね。
Hideaki Takata もし、クラッカーが十分に賢ければ、この犯罪に使われたアカウントはとっくに削除されて、その時に入手されたビットコインは、とっくに、別のアカウントを通じて、リアルマネーに交換されてしまっているんじゃないでしょうか。
Hideaki Takata 個人的には、警察が、この件を犯罪としてきちんと捜査するか、まだわからないと思っています。そもそも、ビットコインは通貨ではないし、無保証であるというのが日本政府の公式の見解ですし、また、金融当局は、ビットコインみたいなものが世の中に普及することを嫌っています。こういう状況で、警察が捜査するというのは、かなり制約があるんじゃないかと思うんです。