2017年10月27日金曜日

スマートスピーカーの非実用的な用途

スマートスピーカーというものに興味があります。
GoogleHomeとか、Clovaとか、そういうやつです。
とはいえ、買いたいとは思っていないのです。部屋が散らかっていて、置く場所がないものですから。
ですけれども、このデバイスの未来に興味があるものですから、いろんなところでスマートスピーカーをさわってみています。

さて、今日話したいのは、スマートスピーカーの非実用的な用途のことです。

普及するような情報機器は、たいてい、実用に使われる以上に、娯楽などの非実用的な用途で使われています。
多くの人のスマホはゲームとSNSの専用機になっていますし、パソコンだって、ゲームやら何やらがなかったら、こんなに普及したかわかりません。

逆に、どんな実用的な情報機器でも、工夫して娯楽のネタとして使う人は、かならずいるものです。

実用的な道具でも、変な遊びに使う想像力豊かなやつがいる、ということに、私が初めて気がついたのは、中学生の時、友人のK君がワープロの日本語変換に変な単語を教えこんでいるのを見たときでした。
彼の家にあったワープロは、かなで、「わたしのくつをおなめ」と打つと、「はい。ご主人様。」と漢字変換してくれるようになっていました。私が覚えているのは、その一単語だけなのですが、他にも、たくさんのイカガワシイ単語を登録してあったように思います。彼は、そういう単語をワープロに登録することを、「調教」と呼んでいました。彼は、そうやって、登録された単語を変換して、ワープロ専用機との怪しい「会話」を楽しんでいたようなのですね。まあ、実用一点張りのワープロ専用機だって、想像力を持った人間が変なことに使おうと思えば、娯楽の可能性は無限大なのです。
(ところで、あの日、私が彼の家でみたワープロは、彼の父親が仕事で使っていたものらしく、後日、彼は、「調教」に気がついた父親にひどく怒られたと聞きました)

そういうわけで、いずれ、スマートスピーカーも、普及し始めたら、アプリをインストールできるようになって、いろいろな非実用的なアプリが出て来るに決まっています。
スマートスピーカーを使った娯楽となれば、きっと、多くが会話を楽しむものになるでしょう。もちろん、人間との会話のような自然な会話はスマートスピーカーには、難しいでしょうから、会話と言っても、一種の決まり文句を楽しむだけかもしれません。でも、多くの人が面白いと思うような会話は、決まり文句の範囲でも、できるのではないでしょうか。

そういうわけで、今の時点で考えられる非実用アプリを考えてみました。

1,アニメやドラマの「あの会話」アプリ
アニメや、ドラマの有名なシーンを、ユーザーと一緒に演じてくれるアプリです。
たとえば、
「○○がないな?」
とユーザーが言ったら、スピーカーが、
「あんなのかざりです。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
と答えてくれる、とか。
もちろん、こういう、一言だけの会話から、望むなら、台本一冊分くらいの長い会話もできるはずです。ユーザーは、そういう会話をすることで、あのアニメやあのドラマの登場人物になりきって遊ぶことができるわけです。
あ、ちなみに、上記の会話をしてくれるスピーカーには、ハロの形をしたケースを付けることをおすすめします。

2,ポルノ会話アプリ
ユーザーがエッチなことをいうと、いやらしい声でエッチな言葉で返事してくれるアプリです。
ユーザーは、そのアプリを使うことで、エッチな気分に浸るのです。往年のギャルゲー声優の声を使うと、そのスジの人には、特に楽しんでもらえるのではないかと思います。
これも、きっと、面白がる人が多いアプリではないでしょうか。

3,宗教的アドバイスアプリ
たとえば、何か、ユーザーが悩んでいることを言うと、その中のキーワードに関連した聖書の一節を話してくれる、というようなアプリです。
真面目なキリスト教の信徒であれば、喜ぶ人は案外いるのではないかと思います。仏教なんかでも、比較的、教義を言語で表現する度合いの大きい宗派、たとえば、上座部仏教とか浄土真宗とか日蓮宗とかだと、似たような、ユーザーの状況に応じた法語や仏語を言ってくれるアプリは作れるのではないでしょうかね。

4,サウンドノベルゲームのアプリ
一昔前のサウンドノベル、「弟切草」とか「かまいたちの夜」みたいなゲームを、朗読の音声のみで楽しむようなゲームです。
プレーヤーは、スピーカーに、どのように行動するかを言葉で伝え、スピーカーは、その選択の結果を、朗読と効果音、音楽で表現する形でゲームが進みます。
ホラーっぽいゲームを、真っ暗な中で音声プレイすると、きっと楽しいのではないかと思います。

まあ、他にも色々ありうると思うのですが、こういうの、いかがでしょうかね。

2017年10月22日日曜日

衆院選の投票日に思ったこと

いくつか、思ったことを記録しておきたくて書いています。

0,投票と棄権の是非について
今回は、積極的に棄権をしようと訴える著名人がいたりして、棄権の是非について話題になりました。
SNSでは、棄権を批判する意見が散見されたように思います。
棄権はしてはいけない。投票は義務だ。

私は、そういう考え方に違和感があるのですね。
私、今は、合理的に考えた末の結論として毎回投票してますけど、昔は、やはり合理的に考えた末の結論として棄権を続けていたこともあります。
その頃の考えかたは、それはそれで間違っていなかったと思っています。
投票に行くことが絶対的に正しいと思っている人は、なかなか理解し難い考え方かもしれませんが、投票に行くことが絶対的に正しいかどうかは、自明ではないと思うのです。
大事なことは、その都度、自分で納得できるまで考えて判断することじゃないですかね。
で、自分の結論を、簡単に人に押し付けてはいけない。そう思っています。

投票しない人は、政治に文句を言ってはいけない、という人も多かった。
私は、そういう意見にも反対です。
代議制というのは、面倒なことを他人に任せる委託の一種です。散髪屋に散髪を頼んで、髪を切ってもらいながらゆっくり休んだり、タクシー運転手に運転を頼んで自分は酒を飲むとか言うのと同じことだと思っています。

専門家に頼んでなにか注文する時、客の意思表示がはっきりしない場合でも、それなりに普通に処理してくれるのが正しい姿です。そう考えると、投票しなくても結果に不満があれば言っても良いし、言うべきだと思うのです。

散髪屋で、「普通に適当に」なんて言っても、目が覚めたらモヒカンになってたら、文句を言うにきまっています。
「シェフのおまかせコース」を頼んでウンコが出てきたら、文句を言うにきまってます。
時価の寿司を頼んだ客にも、大体、常識的な請求してよい値段の相場感みたいなものがあるはずで、寿司屋は理不尽な値段を吹っ掛けていい訳ではないのです。

あたりまえのことですよね。

で、私は、特に意思表示がなくても、あるいは、おかしな意思表示があったとしても、少なくとも、このルールの通りにやりますよ、という話が憲法だと思っているわけです。
だから、憲法というのは、簡単に変えられないようになっている。
人によって解釈が違うかもしれませんが、これが、いまのところの、私の代議制民主主義の理解です。

1,期日前投票がこれだけ普及したのであれば、期日前投票を、普通の「投票」にしてはどうか?
これだけ、期日前投票が増えたんだから、もう、期日前投票は、いちいち期日前と言わないで、単に「投票」と呼んでも良いんじゃないかな?と思っています。
投票日当日のほうは、「千秋楽投票」とでも呼べばいい。


2,選挙を、もっと簡単なサンプリングによる世論調査に置き換えられないか?
これは、昔から思っています。
選挙というのは、私の考えでは、国勢調査のような、全数調査によるアンケートのようなものです。国民の意志を調べて国民の支持する政治家を選出するのが目的です。
であれば、もっと小規模なランダムサンプリング調査で、どの選挙区では、どの政治家が支持されているか、かなりの精度で調べることができるはずですなのですから、もっとローコストで簡単な方法で代替することが可能なはずです。
ランダムサンプリングで、「棄権しそうな人も含む全有権者」の傾向を調べることは容易ですから、投票率に関する面倒な問題も回避できます(むろん、ランダムにチョイスされた有権者に実際に投票所に来てもらう方法を取れば、「棄権しそうな人を除く有権者」の意見も調べることができるでしょう)。
そのほうが選挙よりもずっとローコストな方法だと思うのですが、どうでしょうか?

最近、政府の機能を人工知能に任せようなんて言っている人も出てきていますが、まずは、私としては、このような有権者の意見を推測するシステムを導入できるかどうかが、人工知能政府の導入の試金石になるのではないかと思っています。

3,立憲民主党の支持の広がりは、どれくらい本物か?

このエントリーを書いている時点では、まだ、投票が続いているのですが、どうも、枝野幸男氏が作った新党、立憲民主党が、かなりの支持を集めそうです。
この現象が、何を意味しているものか、私は、少し判断に迷っています。
できたばかりのこの政党は、どうみても計画的に作られたものではなく、予想外の政局の動きが生み出したものであり、おそらく、枝野氏自身、直前まで、新党を作る予定はなかったのではないかと思います。
このような急造の政党が急激に支持を集めているのは、単に、もう一つの新党に失望した人が流れ込んでいるだけの一過性の突風のようなものなのでしょうか。
それとも、多くの人が、潜在的に、ずっと、このようなポジションの政党を望んでいて、たまたま、偶然できた新党が、このニッチなポジションに命中したのでしょうか。
民進党よりもやや福祉重視で、やや左だけれど、共産党や社民党ほどではない、というポジションの政党は、ここしばらくは、ほとんどありませんでしたので(強いて言えば、少し前に一時期存在していた「日本未来の党」でしょうか)、このポジションを求める人は、ずっと自分のための政党がないと感じていたのかもしれません。
もし、この枝野新党が、ずっと求められていたニッチを埋めたということなのであれば、このポジションの支持者の規模は、どれくらいの大きさなんでしょうか?
二大政党の一翼を占める程度の大きさのあるニッチでしょうか?
そういうことが、すごく気になっています。

4,ネットで政治を語る人同士の汚い罵倒が減って、少しずつ相手の言うことを聞くようになってるような気がして少し嬉しい。
これは、私の観測範囲での印象です。
ネットで政治の議論をする人たちの間では、まあ、意見の違う人同士、汚い言葉で罵倒し合うのが、この数年、普通になっています。
とくに、大きな選挙の直前になると、その争いが激しくなります。
支持政党が違う人同士、相手のことをネトウヨだのパヨクだのと罵り合ったり、歴史問題について自分と見解の違う人を反日とか売国奴とか言う人がいたり、反原発論者と原発推進論者がお互いの悪口を言い合ったり、グローバルな自由市場を推進する人と、ローカルな昔からの産業秩序を守ろうとする人が、汚い言葉で相手を黙らせようとしたりします。
そして、そういう議論のときには、だいたい、お互いに相手の言うことを全然聞いていません。

さて、私のネット上での観測範囲での印象ですが、今回の選挙、ネット上での、そういう汚い言葉が急激に減っている印象があります。ひょっとしたら、これは、みんなが、反日だの、売国奴だの、守銭奴だの、ファシストだの、レイシストだの、そういうふうに罵倒し合うことに飽きてきているということなのかもしれません。

私には、支持政党の異なる友人がたくさんいますが、意見は違っても、ほとんどは、どのようにして日本を良くしていくか、どのようにしてみんなが幸せに暮らしていけるかを、それなりに真面目に考えている人ばかりです。
そして、どういう社会を理想だと思うか、という話をすると、多くの人は、伝統的な社会の良さもそこそこ残し、過激な格差もなく、そこそこ自由に商売でき、生活も自由で、民主的で、安全で、とまあ、かなり一致する社会像をイメージしています。ただ、どうやってそこにもっていくか(あるいは、それを維持するか)、という方法論についてだけ、ひとによって多少意見が違うだけという気がするのですね。外国政府の手先だとか、電力会社の走狗だとか、そういう人は、基本的にいないわけです。

であれば、私としては、それなりに一致できる話は話し合って、お互いに一致できる「真ん中」はどこなのか、丁寧に話し合ってほしいと思うわけです。

ひょっとしたら、そういうことができそうな雰囲気ができつつあるのかな、って言う気がしています。だとしたら嬉しいな、と思います。

2017年9月14日木曜日

子供の勉強のつまづいたところを見つけるのは、大人が思っているよりずっと難しいよ、というお話。

誰もがどこかでつまずいた→小学校の算数から大学数学まで126の難所を16種類に分類したというエントリーを見ました。

算数/数学の、つまずきやすいポイントが一覧になっています。
私自身は、ここに出ているようなポイントにつまずいたことは一度もありませんでした。しかし、なるほど、これを見ると、たしかに、誤解しやすい、また、一度誤解すると、丁寧に説明してもらわないとなかなか自力で抜け出すのは困難な落とし穴ばかりのように思えます。
誤解している子どもたち本人は、どう間違えているか、自分で言語化して説明することは難しいでしょう。子供を教えている教師たちにも、なかなか、子供がどのように誤解しているか、推測することも、また、誤解を解くように説明することも難しいのではないでしょうか。

そんなことを考えているうちに、ふっと思い出しました。
私、算数/数学では、あまり誤解したことがないのですが、他の分野では、ひどい誤解をして、おかげで、勉強についていけなったことが、何度かありました。
その話をしましょう。

小学校の一年生から二年生の頃、私は、何度教えられても「ひらがな」を覚えられませんでした。

それは、今から考えると、ひらがなの1文字が、おおむね日本語の1音節に対応するという、音節文字というコンセプトを理解できなかった(つまり、1文字で5音節くらいの単語を表したり、5文字くらいで1音節の発音を表すひらがなも存在すると思い込んでいた)からだったと思うのです。

でも、そういう誤解をしているということを、当時、自分では言語化して説明できませんでしたし、学校の先生も、その誤解を分かってもくれませんでしたし、もちろん、わかりませんから修正もしてくれませんでした。

で、なんで、私が、こういうおかしな誤解をしたのかと思い出してみますと、小学校に入学した頃、私の住んでいたところの近くに、大きなマルハの看板があって、当時のマルハのロゴ、ひらがなの「は」をマルで囲ったやつが、大きく書かれていたんです。
私は、周囲の大人の会話から、あの看板にかかれている「は」をマルで囲ったマークは、「ひらがな」の一種であると思っていました。また、あのマークは、「マルハ」と読むのだと思っていたのです。

そして、一文字で「マルハ」と読む「ひらがな」があるのであれば、一文字で、「大洋ホエールズ」を表す「ひらがな」も、当然あるものだと(この球団が、マルハとなんらかの関係がある球団だというのは、すでに当時の私は知っていました)思っていましたし、そういう連想から、当時、私は、アルファベットのHとTを組み合わせた阪神タイガーズのマークは、一文字で、「阪神タイガーズ」と読む「ひらがな」なのだとも思っていました。
それと同じように、1文字で私の名前を表す「ひらがな」もあっても良いと思っていました。きっと、マルハのような会社が自分たちの会社を表す、一文字の「ひらがな」を決めているように、人間も、大人になったら、自分のシンボルになる「ひらがな」を決めるのだろうと思っていました。なぜか、私の両親は、自分を表す「ひらがな」を決めていないようでしたが、当時の私は、そこを疑問に思ったことはなかったように思います。
そうして、ひらがなに関する壮大な誤解にもとづいて、私は、私にしか読めない不可解な「ひらがな大系」を作り上げていました。そのおかげで、学校で習うひらがなは、全く覚えられませんでした。

「ひらがなというのは、音節文字の一種であって、、」というような説明を誰かがしてくれたら、こういう誤解は、簡単に解消されたのでしょうが、普通、小学校の一年生に、そういうややこしい説明はしませんよね。

どのように、誤解が解けたのか、今ではよく覚えていません。
気がついたら、読めも書けもしなかったひらがなは、全部書けるようになっていました。
学校の授業で、漢字を教え始めて、そのときに、教師が「漢字」と「ひらがな」がどう違うかを教壇の上で説明していたことは鮮明に覚えています。たぶん、学校で漢字の勉強がはじまったことが、私のひらがなに対する誤解を解くきっかけになったような気がしています。

2017年5月1日月曜日

片付けられる人のパターン3つ

イケハヤ氏の文章としては、久しぶりに、まあ、そのとおりだと思った文章。
「片付けられない人は、捨てられないから」は、外見上の現象としては、そのとおりだと思うのだけれど、たぶん、もう少し、根本的な問題。
実のところ、「捨てられない」人は、結局のところ、自分にとって、必要なものとそれほど必要でないものを見分けられないから、捨てられないのだと思っています。
必要なものとそうでないものを見分けられるためには、当たり前ですけれど、これから、どういう生活をするのかの見通しがかなりはっきりしている必要性があります。これから何をするのか決まっていなければ、これからの生活に必要なものなんてわからないのです。
片付けられる人は、つまるところ、今後、自分が、どういう生活をするのか、自分なりの見通しが分かる人なのです。
で、私の見るところ、先の生活の見通しが分かる(分かるつもりになる)には、幾つかのパターンがあります。私は、「保守的パターン」「ワガママパターン」「追随者パターン」くらいに分類しています。

1,保守的パターン:ずっと、同じような生活を続けるという人です。
長期に渡って、だいたい同じような生活をしていて、この先も、だいたい同じような生活をするだろうと想像できるという人は先の生活の見通しが立ちます。そういうわけなので、たとえば、サラリーマンの家族の人は、だいたい、自営業者(あるいは自由業)の人の家族に比べて、片付けるのが上手になります。それは、本人の生得的な片付け能力というより、サラリーマンの人生のほうが、波風が少ないということなのだと思います。

2,ワガママパターン:自分が、これからの数年の間、何をしたいか、ビジョンが明確な人は、片付けるのが上手になります。
大抵は、ビジョンが明確なのは、良いことです。所詮、自分の人生ですからね。でも、ビジョンが明確というのは、必ずしも良いことばっかりというわけではありません。どうにもならない馬鹿馬鹿しいビジョンとか、単なるワガママを掲げて自滅する人だって、世の中には多いのです。ま、たとえ、無謀なビジョンであれ、あるいは単なるワガママであれ、「自分は、これをしたいんだから、これは不要」なんて決める力がある人は、必然的に片付け上手になります。なので、ブログのネタを書くためにいきなり四国に移住してしまうようなタイプの人が片付け上手になるのは、当然です。

3,追随者パターン:要するに、ああいう人になりたいとか、ああいうふうになるだろうっていう明確なモデルがいるという人です。
自分も、代々続いた家業を継いだ人などで、自分の親と同じような人生を歩むだろうと漠然と思っている人や、尊敬している上司や先生、芸能人がいて、その真似をしている人なんかは、必然的に片付け上手になります。たとえば、マイケル・ジャクソンみたいになりたいとか、スティーブ・ジョブズみたいになりたいと、日々、強く願っているような人は、自分の部屋のインテリアの中で、マイケルやジョブズだったら持たないだろうものは捨ててしまいます。そういう人は、ファッションにも、部屋のレイアウトにも、ほぼ、明確なあるべきイメージがあるので、片付け上手になります。

そういうわけで、たとえば、病気の療養中で、この先、どれくらい治療に時間がかかるかよくわからないとか、就職活動中の学生で、これから、どこのどういう企業に勤めることになるか予想がつかないとか、あるいは、いきなり夫の都合で四国の限界集落に引っ越すことになった女性とか、そういう人は、まあ、みなさん、先が見通せない人生の真っ只中にいるわけで、片付けが上手になるのは、まあ、無理とまでは言いませんが、なかなか、難しいのではないかと思うわけです。

2017年3月23日木曜日

最近の流行のマインドフルネスについてもにょもにょ

数日前、cocokuriというサイトを見て、なんだか、ああ、またかとおもってしまったので、ちょっと、書いてみます。
何かというと、これ、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスとか言って、企業とお坊さんが組んで、何か新しいデバイスを使ったセミナーとか教育プログラムとか、そういうビジネスする。そういう種類の話なんですね。最近、似た話はいっぱい聞くので、別段珍しい話でもありません。

なので、なにも、このサイトに限った話じゃないんですけれど、最近流行の、この種の「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」って、本来のマインドフルネスと、だんだん違ってきているんじゃないかと思うんですよ。その辺に無自覚な人が多いようにみえるのが、私は少し気になっています。

私の考えでは、「本来のマインドフルネス」と「ビジネス版マインドフルネス」は、目的も、方法も、お互いに随分違うメソッドです。

マインドフルネスっていうのは、もともと仏教の修行法だったものを心理学のメソッドとして取り出してきたものです。この、もともとの仏教のコアのアイデアっていうのは、私は、「自分の感情や周囲の状況がポジティブかネガティブかということと、人間の幸福か不幸かは、それぞれ独立した問題である」というコンセプトなのだとおもっています。つまり、嫌なことがあったり、落ち込んでいたりネガティブな気持ちであっても、幸せになれるし、逆に、幸せになったからといって、ネガティブな気持ちがなくなるわけではない、というわけですね。

自分の感情がネガティブでもポジティブでも、同じように幸せであることができる、というのは、普通の我々の常識とはかなり異なる、わかりにくい考え方です。
で、「本来のマインドフルネス」では、そのわかりにくい考え方を理解させるために、「自分の感情や感じ方を、評価をせず、単に観察する」プログラムをさせるわけです。自分の感情を距離を置いて観察することで、感情が落ち込んだり、思いどおりにならないことがあっても、短絡的に不幸せだと感じにくくなる。そういうプログラムなんだとおもっています。

マインドフルネスでは、自分を観察すること時代も大事なんですが、そのときに、観察してわかったことを、自分にとって良いものだとか悪いものだとか、短絡的に評価するのをストップさせとかなくちゃいけません。
ブルース・リーみたいですが、「Do not think. Feeeel.」ってわけですね。
自分に湧き上がってくる感情を、ネガティブなものもポジティブなものも、それが良いものだとか悪いものだとか短絡的に考えないで、感情から距離を置いて観察する。そうすることで、感情と幸不幸は別問題だと体感していくわけです。
自分の体やこころに起こっていることを、すぐに自分のモノサシで評価しない。それが大事なわけですよ。
で、そういうプログラムが、メンタルのトラブルにたいして、そこそこの効果があるというのは、少しずつ、エビデンスが揃いつつあります。

それに対して、多くの「新デバイスを使ったビジネス版マインドフルネス」でやっているのは、「本来のマインドフルネス」ではなくて「見える化」です。デバイスを使って自分のデータを観察できるようにして、それを制御する。自分のデータを記録して制御するという意味では、少し前に流行ったレコーディングダイエットとか、ああいうものにも近いかもしれません。
制御するのですから当然ですが、「見える化」した自分のデータは、自分のモノサシでアセスメントされるのです。つまり、ブルース・リーじゃありません。

cocokuriのメソッドでは、自分の集中力を見えるようにして、自分の集中力を高める訓練をしたり、仲間同士で、お互いの集中力を見せ合ったり、集中力の競争をやったりするそうです。それは、たしかに集中力を高めるには有効な方法なのかもしれませんけれど、もともとのマインドフルネスが目指しているものとは、全然違うものだと思うわけです。

私としては、こういう話に、日本仏教のお坊さんたちがたくさん乗っかっているのが、引っかかります。
日本仏教をはじめとする大乗仏教の教義というのも、多くは、私の理解では、マインドフルネスがやっているような「自分の感情と、幸不幸かは、それぞれ独立した問題である」ということを理解させるために作られた概念群です。
たとえば、「空観」というのは、自分の内部の感情も自分の外部の事件も「空」、つまり、実態のないものだと考えることで、自分の外部の事件も、自分の内部の感情も、自分の幸福とは、直接関係ないのだと認識させるカリキュラムです。
「空」なんて理解したところで、相変わらず、悲しいことや辛いこともあるだろうけれど、それを理解したら、そういうことにも関わらず安心していることができる、かもしれない。いや、できないかもしれないけれど、多少は、そういう悲しい事件や悲しい感情から距離を置いて物事を考えることができるようになる。

少し話がずれますが、「空」というのは、そういう仮設の概念ですから、「空」を科学的に証明するだの何だの、たとえば、空と現代物理学の何かの概念が似ているとか言うのは、ほとんど意味がないと思います。ときどき、そういうこと言う人いますけれどね。
もし、「空」を科学的に証明するというのなら、マインドフルネスと同様に、疫学的な方法で空という概念が我々に与える影響のエビデンスを求めるほうが、ずっとスジが良いと思います。
たとえば、なにかのメンタル疾患のある人を2グループにわけて、一方には、空について法話を聞かせて、もう一方には、そんな法話を聞かせないでおいて、それ以外の点では、両者全く同じ治療を受けさせて、その上で、その疾患の症状に違いが出てくるかどうか調べる。
そんな感じの研究をやってみたらいいのではないでしょうか

他の大乗仏教の概念や菩薩や仏、例えば、唯識だの観世音だの浄土だの、久遠の釈迦仏だの阿弥陀仏だの、もし、それを「科学的に証明する」というならば、たぶん、同じような実験をすることができるでしょう。
個人的な見解ですが、たぶん、そういう実験をしてみれば、かなりポジティブな結果が出るんじゃないかと推測しています。
私は、こういう実験のほうが、なんか、お坊さんがインチキくさい物理学者くずれと対話するようなイベントなんかよりも、ずっと価値があるだろうと思います。
そういう実験だけで教義の価値を測定できるとは思いませんが、たぶん、科学と宗教の接点としては、大事なポイントになるのじゃないかと思います。

話をもとに戻して、私としては、大乗仏教のこういう概念群の効用は、基本的に「本来のマインドフルネス」とは相性が良いと思うのですが、「ビジネス版マインドフルネス」とは、あまり相性が良くないと思います。

というわけで。ええと、私、お坊さんがいっぱい乗っかっているビジネス版マインドフルネス的な話を見ると、なんか、いろんなモニョモニョを感じちゃうのです。

モニョモニョ。

2017年3月16日木曜日

ロジカルエア

先日、文房具屋さんでロジカルエアというノートを見つけてきて、それから、このノートにハマっている。
1,紙が工夫されていて軽いこと。
2,罫、つまりラインや方眼の形が工夫されていて、文字でも、グラフや表でもきれいに書きやすくなっていること。
の2つが特徴のノートだ。

仕事用に、いつもノートを何冊かバッグにいれて持ち運ぶ私としては、ノートが少しでも軽いのは嬉しい。

罫線については、少し前に流行した、コクヨの東大式ノート(ドット入り罫線ノート)と似たような工夫なんだけれど、横罫線を3頭分する形で横ドット線が入っているのが新しい。文字の大きさの緩急をつけたり、英文や数式と和文を混ぜて書いてもきれいに書けるのが嬉しい。

今使っているノートを全部これに変えたいくらい、このノートにハマっている。

で、ひとつ、これを作っているナカバヤシにお願いなんですが、このロジカルエアのシリーズで、A6サイズ(文庫サイズ)で、100枚(200ページ)くらいのノート、作ってくれませんかね。
何に使うのかというと、ダイアリー用です。ほぼ日手帳のカバーにリフィルの代わりに入れたら便利だとおもっているのです。
結構、ニーズあるんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう。

2017年3月12日日曜日

医学関連のオントロジー

医学関連のオントロジーを探していたのですが、最近、私の目的には、これが一番いいかな、と思っています。
備忘的に、リンクをメモ
diseases database
症状や検査、病名などのつながりが明確なルールで定義されているので、コンピュータで解析させるのにちょうどいいかもしれません。

2017年1月26日木曜日

Android上で、ウェブ系開発をするためのワタシ的な設定。

少し前まで、Linuxを入れたノートパソコンを持ち歩いて仕事していたのですが、最近、ノートパソコンの代わりにAndroidタブレットを使うようになりました。
電車の中とか布団の中とかでゴニョゴニョと仕事できるので、ノートパソコンよりも都合が良いことが多いです。
なんですけれど、私、いくつか、ウェブ関連の開発の仕事をしているので、全面的にタブレットに移行するならば、やはり、タブレット上でウェブ系の開発環境を作りたいのですね。

そういうわけで、タブレット上にウェブ系の開発環境を作ろうと、これまでにも何度かトライしてきたのですが、やっと、最近になって、そこそこ使える環境が揃ったように思います。

というわけで、現在の環境のメモです。

1, KSWeb
Premium Lisenceにしました。
Standardでもいいのかもしれないけれど、一応。

2, MGit
KSWebのhtdocsをリポジトリのrootに設定する。

3,エディタ。
Jota+とAWDを入れた。Jota+をメインに使う。

5, Tremux
Androidで、Unix的なターミナルを使うためのアプリはいくつか出ているけれど、現時点では、一番良いチョイス。
aptが使えるのが評価高い。
ただし、やむを得ない理由により、Pathが少し変。
もし、PHPを使うなら、composer-termuxも入れておこう。

6, ATOK
フリックに慣れているなら、いちいち、物理キーボードを持ち歩くよりも、UIが工夫されたソフトウェアキーボードを導入して物理キーボードの代用にしたほうが良い。
portraitならATOKかiWnnがおすすめ。もし、フリックに慣れていないならば、日本語入力をほとんどしないlandscapeで使うことが多い人に限りhackers keyboardがおすすめ。

ATOKなら、フリック入力の設定で、使用するテンキーはひらがな+英字に、また、英字キーフリックで、8のキーフリックで;(セミコロン)に、それぞれ設定しておくのが、コーディングには良いと思う。

7,それ以外に入れたアプリとか。
a, PrintSmash(ファミマでプリントするためのアプリ)
b, Cobuild Intermediate English Dictionary(英英辞典、英英辞典の中では、私は一番好き。英文を書く人にはおすすめ)
c, Keep(グーグル謹製のメモアプリ)
d, Kindle
e, あと、個人的な趣味のアプリ。Chess Tactics Proとか将皇とか虫姫さまとか。