2015年9月28日月曜日

G FREEの話

今日は、ボールペンの話を書こうと思います。

G FREE
なんの話かというと、セーラー万年筆が出しているG-FREEというボールペンがすごくいいよ、という話です。
私は、筆記用具にはこだわりがあって、これまで、いろいろな万年筆とかボールペンを試してきたのですが、半年ほど前にG FREEを試してからは完全にこのボールペンに惚れ込んでしまい、いまでは、他のボールペンとか万年筆をほとんど捨ててG FREEばかりを使うようになりました。

万年筆に近い書き味
このボールペン、書き味が普通のボールペンより万年筆に近いのです。万年筆って、ペン先に弾力があって、毛細管現象でインクが出るので、ボールペンと違って、筆圧をかけなくても、紙の上にペン先を乗せて動かすだけで文字が書けますよね。
このボールペンは、調整機能付きのサスペンションと粘度の低いインクの組み合わせで、これと似た筆記感覚を実現しているのです。
ただ、いわゆる万年筆マニアが好むようなヌラヌラした万年筆風の書き味ではなくて、ちょっとカリカリした感じの万年筆風です。この辺は、やや好みが分かれるでしょうか。
もちろん、ボールペンなので万年筆のように扱いに手間がかかったりすることはありません。私は、これに惚れ込んで、持ち歩くペンは全部こればっかりです。

「調整機能付きのサスペンション」という発明
このボールペンの一番ユニークなところは、このサスペンションだと思います。
ボールペンのペン先近くにバネがついていて、強い筆圧をかけると、すこしだけペン先が凹むようになっているのです。
似たような機構のボールペンは、これまでにも見たことはありましたけれど、こいつの面白いところは、この「サスペンション」の強さをペンに付いているダイヤルを回すことで7段階で調節できることです。
ここを一番硬くすると、普通の実用的で安価な硬いペン先のペン、たとえばLAMYのサファリとかのペン先とかに感じになって、反対に、一番やわらかくすると、弾力のあるペン先、なんというか、イラストとか書く人の使うGペンとかみたいなフワフワした感じになります(もちろん、ボールペンにバネをつけてるだけなので、Gペンみたいに書き方で線の太さが変わったりはしません。単に、ペン先が柔らかいだけです)。
私の場合、あまり弾力のあるペン先だと普段使いに使いにくいので、サスペンションの強さを強い方から1番目か2番目、つまり、かなり強めに設定して使っています。
この部分、ペン先の弾力の強さって人によって好みが違うと思いますし、場面によっても好みが分かれると思います。
ここがダイヤルで調整できるというのが、すごく嬉しい。

低粘性インク
インクはジェットストリームとかアクロインキとかと似た、最近の流行の低粘性インクを使っています。ペン先の滑りは、ジェットストリームよりやや抵抗が大きい感じです。カリカリって感じですね。

欠点
褒めてばっかりですが、いくつか、困ったところもあります。
一つは、耐久性の問題、もうひとつは、売っているところが極端に少ないことです。

耐久性
このボールペン、構造がユニークで新しいためでしょうか?
結構、壊れやすくて、インクがなくなるころには結構ガタが来ることが多いです。
特に、ペン先のサスペンションのバネが、だんだんヘタってきて、すこしずつペン先の動きが柔らかくなってきます。ペン先が柔らかめなのが好きな人には構わないのでしょうが、固めが好きな私には、ゆるくなったペン先はちょっと困ります。
もうひとつ、ペン先を支えているプラスチックがだんだんひび割れてきます。たぶん、これは、なまじ、感覚が万年筆に近いぶん、私が、普通のボールペンよりも倒して書く傾向があって、それで横向きの筆圧がかかるのでしょう。
ペン先のひび割れ


どこで売っているの?
多少の欠点はあるにしても、このボールペンは、すごく良い製品だと思います。ですが、なぜか、文具店などで売っているところをほとんど見かけません。どうしてなんでしょう?
仕方がないから、ペンも替え芯もamazonで買ってます。送料払ってもほしいから仕方ないんですが、できれば店頭で売ってくれればと思います。

改良点の提案
もし、このブログをメーカーの方が読んでいただけたら、ぜひ、以下、ご検討いただければと思います。
1,できれば、もっと普通の文具店に置いてください。
2,ペン先のプラスチック部品、壊れやすいので金属など、強度の高い部品にしてくれればと思います。
3,横方向の筆圧に対するサスペンションもつけられないでしょうか?たとえば、ゼブラのシャープペンシルのDelgardなどは、横方向の応力に対して弾力があります。似たような機構をつけることはできないでしょうか?

2015年9月22日火曜日

安保法制についての私的なメモ

安保法制について、今思っていること、考えていることを、メモ的に残しておこうと思います。
なぜ、このタイミングでこういうエントリーを書くかといいますと、ちょうど、先日、この法律が成立して、今後、この法律に関しての議論が下火になるだろうと思うからです。つまり、このタイミングであれば、このエントリーを書いても、妙な議論をふっかけられることはないだろうと思っているのです。
私は、安保法制について自分の考えていることをメモしておきたいと思っているけれども、この件について議論したいとは思っていないのです。
なお、これは「私の思っていることについてのメモ」でしかないので、内容の正しさは保証しません。間違った思い込みもあるでしょう。そういう思い込みも含めて、とりあえずメモしておきたいと思っているのです。

1,そもそも、先日、国会で決まった「安保法制」とは、何か?今回、国会で何が成立したのか?
多くの人は、日本が「集団的自衛権」なるものを行使できるようになったのだと思っているでしょう。そういう報道がなされていたからです。
しかし、話はそう単純ではありません。
というのは、私は、何度かこの一連の法案を読み返しましたけれど、少なくとも私が読んだ範囲では、法律の文章の中に「集団的自衛権」なる言葉は一度も出てきていないように思うからです。私の見落としでなければ、この法律の文章の中には「集団的自衛権」なる言葉は含まれていないと思います。
では、この法律と「集団的自衛権」は、関係ないのか?
それも違います。
少なくとも、政府が、この安保法制を「集団的自衛権の限定的な行使」を可能にする法律だと解釈しているということは間違いないのです。
別の言い方で言いますと、「安保法制は集団的自衛権の行使を可能にする法律である」というよりも、「安保法制の一つの解釈として、集団的自衛権の行使が可能になるという解釈もできる」と言ったほうが正確だと思います。もちろん、一つの解釈に過ぎないとは言っても、時の政府の解釈ですから、他の解釈よりも遥かに重要な解釈であるとは言えると思いますけれど。

2,憲法違反なのか?
なんとも言えません。それは、安保法制と憲法の解釈次第だからです。
つまり、
A.憲法は、集団的自衛権の行使を禁止しているか?
B.安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むか?
のふたつの問題に対して両方とも「イエス」ならば、この法律は違憲と考えざるを得ないでしょう。けれど、いずれかが「ノー」ならば、合憲と考えることになると思います。
もちろん、政府は、「安保法制による実力行使は集団的自衛権の行使を含むものだけれども憲法は集団的自衛権を禁止していない(つまり、Aがノーで、Bがイエス)」という立場です。
その一方で、多くの憲法学者は、より法的安定性を重視した見解をとっていて「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」と考えています。ですので、もし、そうした立場をとりつつ安保法制を合憲とするならば、この法律による実力行使は集団的自衛権の行使ではないと立場(つまり、AがイエスでBがノー)しかありえないと思われます(あとでもう一度触れますが、衆議院で提出された維新の党の対案は、そういう考え方で作られています)。

3,では、安保法制を「集団的自衛権」の法律ではないと解釈することも可能なのか?
可能です。今回の安保法制に基づく実力行使は、私の理解するところでは、国際法的には、個別的自衛権とも集団的自衛権とも、いずれとも解釈できる範囲内です。
であれば、それを、「集団的自衛権の行使」とみなすか、「個別的自衛権の行使」とみなすかは、その時の日本政府が自由に決めてよいはずです(もちろん、最終的には最高裁が決定することですが、実質的には、これでよいはずです)。
たとえば、日本周辺で日本を防衛するために活動しているアメリカ軍が攻撃された際に自衛隊が弾薬を供給したり、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃したりするとしても、それを、日本政府が「個別的自衛権の行使」と解釈すれば、個別的自衛権の行使になります。
実は、先にすこし触れたように、維新の党が衆議院で提出した対案は、この考え方に基づいています。あの対案を採用すれば、政府案とほとんど同じ実力行使をしても、今後、そういう実力行使は、個別的自衛権の行使であると解釈することになります。そういう解釈をせざるを得ないように、あの対案では、政府案よりも解釈の余地が狭くなるように書かれているのです。
誰でしたか、国会で政府案を違憲と言った有名な憲法学者が、維新の案であれば合憲であると言ったそうですが、それは、たぶん、こういう理由です(正直、維新案の法案の文章を初めて読んだ時、すこしずるいと思いました。いかにも弁護士の先生が作った政党が考えそうな、弁護士らしいずるい文章だな、と思ったのです)。

4,では、この安保法制で、何が新しくできるようになったのか?
これは、新しい安保法制でできることのうち、古い法律でできなかったことは何か?という問題と同じだと思います。
実は、これは、よくわかりません。
なぜかといいますと、これまでの古い法律は、新しい安保法制以上にややこしくて、解釈の余地の大きい法律だったからです。
日本や日本人を守るために活動しているアメリカ軍が誰かから攻撃された際、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって反撃することは、たぶん、これまでの法律でも解釈次第で可能だったと思います。
たとえば、民主党の岡田党首は、外相時代、そういう活動が可能だという見解を表明していたように思います。もちろん、今回の安保法制ができる前のことですから、それは今回のような安保法制がなくても可能であるという解釈なのです。
最近、彼の外相時代のその発言を引用して、外相時代には集団的自衛権を容認していたのに、野党党首になると安保法制に反対するのはおかしいと批判するエントリーを見ましたけれど、これも、批判としては微妙にずれていますね。もし、岡田さんのように、日本人を守る米軍が攻撃を受けた際の自衛隊の実力行使について、これまでの法律でも可能であったと解釈するならば、今回の安保法制に反対しつつ、かつ米軍との共同行動が可能だと主張することは、特におかしくないことだからです。
そういう見解がある一方で、「駆けつけ警護」などは、まったく新しくできるようになったことだと思います。
ただ、こういった小さな変化以上に一番大きく変わったのは、とにかく法律の解釈が分かりやすくなったことだと思います。
新しい安保法制は、これでも随分ややこしいのですが、これまでの法律に比べると国防に関わる公務員(官僚や自衛官)のするべきことが随分分かりやすくまとまっていますし、解釈の余地が小さくなったと思うのです。
法律で解釈次第で行動できるかもしれないという状態と、法律の解釈の余地が少なく、行動すべきことがわかりやすいという状態では、当然、法律を解釈して法律通りに行動せざるを得ない公務員の負担や法的リスクは大きく異なります。

5,もし、新しい安保法制が、本当に今までの法律と対して変わらないのであれば、なぜ、これほど大騒ぎになったのか?
よくわかりません。
正直、私は、安保法制について、これまでの法律とそれほど大きく変わるものではないし、大騒ぎするほどの話ではないと思っています。
ですから、政府の立場では、正直に、「これは大した法律の変化ではないし、今後も自衛隊は個別的自衛権の範囲内の行動しかしない」と言って法律をサッサと通してしまった方が簡単だったのではないかと思っています。もし、そうしていれば、反対運動も、それほど盛り上がらなかったでしょう。
そして、もし、どうしても、そういう実力行使を集団的自衛権の行使と呼びたいのであれば(そういう呼び方をしたい理由は、現時点では考えにくいですが、今後、そういう必要性が出てくるかもしれません)、法律を通した後になって、「実は、あの安保法制は集団的自衛権を容認しているとも解釈できるし、そう解釈せざるを得ない状況の変化があった」と言っても良かったのではないでしょうか。
しかし、政府は、「集団的自衛権」とか、「切れ目のない安全保障」とか、これまでとは違う自衛隊の活動が可能になる法律であると強調してきました。なぜ、政府は、このような「茨の道」を歩もうとしたのでしょう?

6,なぜ、政府はこれまでと違う自衛隊の活動ができると強調し、「茨の道」を歩むことを選んだのか?
一つには、政府は、これほどの反対運動が起こるとは想像していなかったからでしょう。茨のトゲがこれほど鋭いとは思っていなかったのです。
もうひとつ、政府は、自衛隊がこれまでと違う活動をできるようにすると対外的に強くアピールしたかったのではないでしょうか?
日本政府が、「日本を守るためには、これまでとは違う自衛隊の使い方をするぞ」と対外的にコミットメントすることは、日本の周辺国のうち、外交や防衛面で利益を共有しにくい一部の国に対して、日本の強い姿勢のアピールになります。アメリカに対しても、日米同盟を強化したいという強いアピールになります。また、国内の保守的な自民党支持層にも、喜ばれるかもしれません。
たとえ、実質的にはあまり意味のない法律だったとしてもです(もちろん、ここまで大きな騒ぎをするほどの法律ではないというだけで、この法律は、そこそこの大きな意味のある法律です)。
たぶん、政府は、そういうことを考えていたのではないかと思います。

7,これから、どうなるでしょう?
私見ですが、反対運動は、次の国政選挙までには落ち着いていると思います。もし、そうであれば、次の選挙で自公が勝っても、野党が勝っても、安保法制には大して変化はないでしょう。逆に、もし、反対運動が持続していても、自公が勝てば、安保法制が元に戻るとは考えられません。
問題は、安保法制反対運動が持続していて、かつ、それに支援を受けた野党が勝った場合です。
私は、たぶん、実質的な自衛隊の活動は、それほど変わらないと思います。たぶん、表面的には集団的自衛権を否定しつつ、かつ、実質的には自衛隊が米軍と共同行動できる、そういう新安保法制が成立するんじゃないでしょうか?
ここで長々書いてきたように、そういう法律は可能だと思いますし、国会で猛反対した野党の提案も、本質的な部分では与党と良く似た議論だからです。

2015年6月1日月曜日

日本のディズニーとアメリカのディズニーのキャラは違うけれど、それは、ライセンス料なんて持ちださなくても説明つくよ

東京ディズニーリゾートの未来~キャラクター戦略から考える
この記事を見て、全く賛同できなかったので。
東京ディズニーリゾートと、アメリカのディズニーリゾートと、フィーチャーしているキャラクターがずいぶん違うのは周知のことです。ですけれど、それは、OLCがキャラクターのライセンス料を抑えるためにやってるとかじゃなくて、単に、日本とアメリカでウケるキャラが違うからなんじゃないか、というのが、私の意見です。
日米両国民のキャラクターの好みは、ずいぶん違います。現に、日米両方でフィーチャーされていても、日米でウケ方が全然違うキャラクターは、結構います。たとえば、日本で人気の高いキャラクターの一部、たとえば、くまのプーさんやスティッチは、アメリカでは日本ほどの人気ではありません。
なぜなのかは知りませんけど、私には、これは、両国の国民性の違い以外にも、両国の人口動態の違いが関わっているように思えます。どちらの国でも、パークは、それぞれの国の、一番人口の大きい層に合わせて作りこまれています。そして、日本とアメリカで、人口の年齢構成が微妙に違うため、日本でパークが恋人同士で行くところだった時代に、アメリカでは子供を連れて行くところだったり、あるいは、その逆だったりというのがあるわけです。
当然、子供っぽいキャラは、そのフィーチャーされた時代が、子供の入場者が多い時代だと、よりウケやすく、反対に、大人っぽいキャラは、その時代に、大人の入場者が多い時代だとウケやすいのだと思っています。
両国民では、馴染んでいるストーリーも全然違います。たとえば、何年か前の映画「Saving Mr. Banks」は、日本では、「ウォルト・ディズニーの約束」という邦題で公開されました。「バンクス氏」って言われて誰かわかる人が、日本では、それほど多くないからでしょう。
この映画、ディズニーが作った昔の映画、「メリー・ポピンズ」のメイキング映画でした。そして、バンクスさんというのは、「メリー・ポピンズ」に登場する銀行員のお父さんのことです。要するに、「メリー・ポピンズ」が、日本では、アメリカほど馴染みがあるストーリーじゃないから、この作品は、本国とはまったく別のタイトルをつけて、別の売り方をしなくちゃいけなかったんですね。
もっと、アメリカの伝統に則した作品、たとえば、西部劇やら、マーク・トゥエインの原作の作品なんかだと、日本での展開は、もっと大変です。
そういうわけで、日本のパークは、かなりアメリカのパークと違うキャラクターをフィーチャーしてることが多いんですけれど、それは、日本でウケるキャラがアメリカと違うよ、ってことで結構説明がつくように思うんですよね。
(このあと、ユニベアシティと、ダッフィーについて、書こうと思ったんだけれど、時間がないので、また、いつか)

我々の生命観や宗教観は、バルタン星人にも受け入れられるほど普遍的か。

表題のようなことを、しばらく考えています。
仏教とかキリスト教とか、世界宗教になっているような宗教っていうのは、その多くが、神とか、その摂理とか、仏とか、法(縁起)とか、そういった、人間を超えた「宗教的真理」みたいなものがあることを前提にしています。
宗教的真理っていうのは、なんていうか、人間の誕生以前から存在していた普遍的な事実であり、かつ、人間には理解できない、人間の理解を超えた事実です。たとえば、創造主を信じている人は、創造主は、人間に先立って存在していた(それが人間を作ったわけだから当然です)と信じているのであり、また、また、人間には、それが、なぜ、どのように世界を作ったのか、理解できない(それは人間の知性を超えた優れた存在なのですから)と信じています。
あるいは、法とか縁起とかを信じている人は、それは、人間が存在するか、また、人間が認識するかどうかにかかわらず、この宇宙に存在し続ける「法則」のようなものだと信じています。そして、この種の宇宙の真理は、普通は、人間には完全に理解できるものではありません。
こういう、「真理」を強く信じている人は、しばしば、その存在を「信じている」という言葉を使わず、それが存在することを「知っている」という言い方をします。「信じる」という言葉には、「事実かどうか不確かなものを、人間が信じる」という含意があるからです。それを強く信じている人は、それが事実であることを、「知っている」のです。
むろん、我々がよく知っているように、人によって、国によって、宗教は違います。キリスト教徒が信じていることでも、イスラム教徒は信じていなかったりします。でも、それは、そういう宗教を信じている人にとっては、その信じている「真理」に普遍性がない、人によって違うということは意味しません。
宗教的真理を信じている人は、人によって宗教的真理についての意見が違うのは、相手が(また、自分たちも)宗教的真理を十分に理解していないからだ、と考えるのが普通です。
そもそも、宗教的真理というのは、人間の知性を超えた真理ですから、我々が完全に理解できるものではないのです。ですから、真理についての各人の意見の相違は、真理の普遍性を否定するものではなく、むしろ、我々の知性が真理に及ばないことを示しているのであり、したがって、それは、普遍的な真理の存在を、より強固に支持しているものと考えられるのが普通ではないかと思います。
こういう考え方をしない人から見ると、これは、不思議で異様な考え方に見えるかもしれません。しかし、こういう考え方をしている人も、世界には多いのです。

さて、表題のバルタン星人。
ウルトラマンのシリーズに登場する超有名宇宙人のバルタン星人。うろ覚えなんですが、確か、「いのち」という概念を持っていませんでした。
バルタン星人は、地球人類とは比べ物にならない高度な知性を持った宇宙人ですが、元々、一度の産卵で数億から数十億の子供を産む圧倒的に多産の生物です。そのため、バルタン星人の世界には個々の命という観念が育たず、したがって、バルタン星人の言語にもそれを表す言葉がありませんでした。
ために、地球の言語にある「いのち」という言葉も彼らの言語には翻訳できなかった。
地球人との交信の中で、バルタン星人は、「イノチ、ワカラナイ」と繰り返すことになります。
これを初めて見た時、なるほどと思ったのを覚えています。数億の子供を同時に生む生き物に、個々の生物のイノチという観念が希薄になるだろうことは、当然に思えたのです。人間の世界でも、もし、同時に数億人の人間が生まれれば、子育ても、教育も、医療も、今よりもずっと大量生産型にならざるを得ないでしょうし、それが常態化すれば、個々の個体の命という概念は、徐々に失われていくだろうと思ったのです。
となると、バルタン星人は、我々とは、その生命観や倫理観を大きく異にすると考えざるを得ません。そのバルタン星人の世界でも、宗教的真理を主張するような宗教はあるでしょうか?(私には、それは、十分にありえるように思われます。)
もしあるならば、バルタン星人と我々が邂逅した時、我々の宗教家とバルタン星人の宗教家は、
1,「宗教的真理」は、「生命とはどうあつかうべきものか」といった「倫理」とは、全く無関係である(倫理は、あくまで、それぞれの生物の社会での約束事であり、「真理」は、それに無関係である)。
2,「宗教的真理」は、生命倫理を含んでいるが、我々もバルタン星人も、双方ともに、それを十分には理解できていない。
のどちらだと考えるでしょう。
私、昨日、日曜日の昼間、そういうことをぼんやりと考えていたのでした。
結論は、無論出ないのですが、そんなことを考えているのは、私、最近、生命倫理と宗教と混線させないほうがいいのじゃないかとアレコレ考えるようになったからなのです。