2019年6月27日木曜日

天才について

最近、FBで、「天才」についてはなしをした。少し面白かったので、記録しておこうと思う。

1、分野ごとの天才
天才であると認められるためには、何か、圧倒的な能力を周囲に見せる必要がある。そして、能力を証明するために必要な条件は、分野によって異なる。スポーツや数学など、能力証明に必要なルールが整備されている分野では、天才は生まれやすい(サッカーの天才、将棋の天才、数学の天才、など)。反対に、ルールが複雑な、医学とか文学とかでは、天才は生まれにくい。そういう分野では、たいてい、「天才」ではなくて、「天才的」にとどまる(天才的な作家、天才的な外科医、天才的なピアニスト、など)。

2,ビジネス分野にも、「天才」と呼ばれている人が、ときどきいる。スティーブ・ジョブズとか、松下幸之助とか。ただ、あれは、1で言うような天才とは少し意味が違うように思う。というのは、ビジネスにおける天才というのは、個人の圧倒的に卓越した能力でもって天才と呼ばれているのではなくて、世の中を変えたとか、お金を稼いだとか、ビジネスにおける成功をもって天才と呼ばれているように見えるからだ。だから、無名で貧乏な天才将棋指し、とか、無名で貧乏な天才サッカー選手、というのは、存在しうるけれど、無名で貧乏な天才ビジネスマン、というのは、存在し得ない。また、天才的ビジネスマンは能力よりも成功によって天才と呼ばれるから、その天才を引き出す右腕役のような存在を必要とすることもある。能力によって天才と呼ばれる人は、本質的に、補佐役を必要としない(能力による天才は極端に社会性がないこともあるので、生活上のサポーターを必要とする場合はありうるが、あれは、補佐役というより介護役だと思う)。

2、天才の欠落
天才(あるいは天才的な人)を何人か見た経験からすると、天才は、普通人に天才的な能力を追加したような感じではなくて、普通人よりも何かが不足している、何かバランスの欠けた感じに見える人が多い。
おそらく、多くの天才は、元々、人並みよりも高い能力を与えられるわけではなくて、何か、大きな能力の欠落があって、その欠落を埋め合わせる形で、天才的能力を発達させるのだと思う。その結果が、あの、バランスの崩れなのではないか。

3、天才とひとりごと
私の知る天才のかなりの部分が、ひとりごとを話す。壁に向かって話したり、人形に話す人もいる。あれは、ルーチーンなのか、脳内会議みたいなものなのか。

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