プログラムの開発をする人の間では、いつでも、どのような開発環境、どのようなフレームワーク、どのような言語を選ぶのがいいか、みたいな話題が盛んです。
そういう話題を話したり、読んだりするのは、技術屋としては、大変楽しいことです。
ですので、技術関係のニュースサイトや掲示板、メーリングリストなどで、そういう話を見るのは、僕は大好きです。
ですが、最近、そういうニュースサイトなどで勧められているものは、自分に必要なものとは、ずいぶん違うことが多いな、と感じるようになりました。そういうサイトで勧められている開発環境のたぐいは、一言で言うと、専業プログラマのためのものであって、副業プログラマには不向きなことが多いのです。
ぼくは、医者をやりながら、時々、副業でプログラマをしています。
僕は、生活費の大部分は、本業の医者としての稼ぎで稼いでいて、プログラムを書いてもらっているお金は、それよりも少ない状況が続いています(ただ、そういう状況が今後も続くかどうかは、わかりません)。
ぼくのような組み合わせの仕事のかけもち方をしている人は、それほど多くないようですが、プログラムを書く以外にも、営業とかナントカとか、やらなければならないことがある人というのは案外多くて、そういう人は、やはり、専業でプログラムだけをやっている人とは、必要な言語や環境の選び方が、少しちがうように思います。
最近、地方のお寺の住職をされながら、副業でプログラマをしてらっしゃる方とお会いする機会がありました。その方も、自分が使うべき技術について、僕と似た考え方を持っていらっしゃって、この話で、楽しく盛り上がりました。
そういうわけで、このエントリでは、僕が、自分が使う言語や環境を選ぶときに気をつけていることを書こうと思います。他の、僕達と似たような立場の人に、参考になるかもしれないと思うからです。
1,プログラムの動作環境は、できるだけ、「手離れのいいもの」を使う。
特に先方で指定した環境がない場合は、できるだけ、手離れのいい動作環境を選ぶようにしています(僕の場合、先方の指定した環境が手離れが良いと思えない場合には、仕事自体を断ることもあります)。
ここでいう、「手離れがいい」というのは、納品した後に、自分でサポートのために動かなくてもいい、という意味です。納品した時には、きちんと動いていたように見えても、その後に、何かトラブルが起こるかもしれませんし、納品先で何か変更を加えた結果動作がおかしくなるかもしれません。あるいは、納品したあとで、もっとスペックの高いマシンを用意するから、別のマシンでも動くようにセットアップしてほしいと言われることもあります。
そういう時、できるだけ、自分がいなくても先方のスタッフだけで対応できるように作っておくことは、副業プログラマにとっては、非常に重要です。というのは、副業プログラマには、副業よりも大切な本業がありますから、いつ本業が忙しくなって、過去の自分の作った製品のサポートのために客先の企業に訪問できなくなるかもしれないのです。
こちらに余裕があるときには、訪問してサポートを行ってお金をいただくけれど、余裕がない場合には、このとおりにやったらできるから、と先方のスタッフにメールで指示するだけでもどうにかなるように、あらかじめ準備しておくのが理想です。
2,最新のフレームワークやライブラリは、あまり使わないようにする。
最新のフレームワークやライブラリを避ける理由は、2つあります。
第一の理由は、新しいフレームワークを覚えることが、必ずしも労働時間の短縮につながらないからです。
新しいフレームワークの多くは、 一度操作を覚えると、短いプログラムを少し書くだけで、相当に複雑なプログラムを作れるように工夫されています。仮に、あるフレームワークを使えば、プログラムを仕上げるために必要な時間が10時間、短縮できるとしましょう。そうすれば、フレームワークの操作方法を覚えるために、30時間かかったとしても、同じようなプログラムを3つ以上作れば、時間については、元が取れることになります。多くのプログラマは、複数の顧客相手に、似たようなプログラムをたくさん作ることになりますから、こういうフレームワークは、覚えるときには少し時間がかかっても、大抵、覚えたほうが得になることになります。
でも、時々、専業プログラマであれば元が取れる場合でも、副業プログラマには、元が取れないことがあるのです。というのは、専業プログラマに比べて、副業プログラマは、そもそもプログラムを書く量が少ないことが多いからです。先の、3つ以上プログラムをかけば元が取れるフレームワークを、週5日のしごとで10個のプログラムを作っているプログラマが覚えるならば、確実に元が取れるでしょう。でも、週2日のしごとで3個のプログラムしか書かない副業プログラマはどうでしょう。フレームワークを覚えたことで大きく特をするとは、言い切れなくなりますし、場合によっては、少々の損になることもありうるのです(もっとも、新しい技術に触れること自体は良いことです。すぐにはメリットが出なくても、将来引き受けられる仕事の種類を増やすことにもつながりますから)。
2つ目の理由は、新しいフレームワークを使うことで、完成したプログラムが、手離れの悪いものになることが多いからです。複雑なフレームワークは、どうしても問題なく動くようにセットアップする手間がかかりますし、進歩の速いフレームワークの場合、バージョンアップにキャッチアップするための手間もバカになりません。
僕は、そういうわけで、Railsをやめました。Railsでコード書くのは、本当は大好きなんですけれどね。
3,でも、テストだけは、絶対やっておく。
最近のフレームワークの多くは、テスト駆動開発を前提にしています。たとえ、そういうフレームワークを採用しなくても、テスト駆動開発は、やっておくべきです。エラーが発生した時に、リカバーに時間を取られないようにすることは、サポートの手間を減らすために、絶対に重要です。
4,外部のライブラリやプログラムは、できるだけ使わない。
これも、手離れを良くするためです。特に、特定のバージョンのライブラリに依存したコードは書かないようにしましょう。
ウェブ関係だと、「とりあえず、apacheとmysqlが動いていれば、あとは、このディレクトリの中身をコピーしさえすれば、それだけで、どのマシンでも動きます」みたいな状態が理想だと思います。
5,開発環境は、枯れた軽いものを。
開発環境は、複雑な機能のついたビジュアルなツールよりも、エディタ、あるいは比較的軽量なIDEが良いです。また、GUIのツールよりもコマンドラインのツールのほうが良いことが多いです。 ちなみに、僕は、むかしは、eclipseを使っていましたが、今は、vimを使うようになりました。
そうすることで複雑なツールに起因する開発時のトラブルを防ぐ事にもなります。また、副業プログラマは、どうしても、本業の合間に、きまった仕事場以外の場所で開発をすることが多くなります。軽量なツールのほうが非力でポータブルなマシンを使うときに有利です。
6,言語は、できるだけ普及しているものを。
どの言語にも、メリットとデメリットがあります。しかし、副業プログラマにとっては、そういうことに関係なく、できるだけ、メジャーな言語で仕事をしたほうが、有利なことが多いです。そういうわけで、僕は、今は、ウェブ関係の仕事は、ほとんどPHP、ウェブ以外だと、ほとんどJavaでコードを書いています。
これは、必要なときに、他の人に仕事を引き継いでもらいやすいからです。「自分にしかできない仕事」は、抱えないことが大切だと思います。
ほかにもあるかもしれませんが、とりあえず、思いつくのはそんなかんじです。
また、思いついたら、書き加えるかもしれません。
2014年9月4日木曜日
bootstrap以外のCSSフレームワーク、なにを選びましょうか?
これまで、CSSフレームワークとしては、Twitter bootstrapを使っていたんですが、今回は、もう少し軽いものを使いたいと思っています。
それで、bootstrapの代わりになるようなCSSフレームワークを探しています。
必要な条件としては、
1,軽量で、サイズが小さいこと。
2,Javascriptは、最小限しか使っていないこと(できれば、全く使っていないこと)
3,CSS以外の、CSSにコンパイルされるようなファイルは、できれば、使っていないこと。つまり、サーバーサイドで、いろんな設定とか、特別なプログラムのインストールとかが、不要なこと。
4,ユーザーが多くて、ネット上にドキュメントが多くて、たいていのトラブルは、ググったら解決策が見つかること。
で、このうち、4,が一番重視です。
で、どのフレームワークが一番メジャーなのか、調べてみました。
調査方法は、メジャーなフレームワークについて、グーグルで、「(フレームワーク名) CSS フレームワーク」で検索して、ヒット数を比較してみただけ。
結果、
Bootstrap 74200
foundation 43900
Pure 33000 (軽量)
atlassian 32700
INK 23900 (Sass製)
skeleton 17500 (これも軽量)
cardinal 4390 (LESS製)
gumby 2150 (Sass製)
という結果に。ふーむ。Pureにしますかなぁ。
他に、おすすめをご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。
それで、bootstrapの代わりになるようなCSSフレームワークを探しています。
必要な条件としては、
1,軽量で、サイズが小さいこと。
2,Javascriptは、最小限しか使っていないこと(できれば、全く使っていないこと)
3,CSS以外の、CSSにコンパイルされるようなファイルは、できれば、使っていないこと。つまり、サーバーサイドで、いろんな設定とか、特別なプログラムのインストールとかが、不要なこと。
4,ユーザーが多くて、ネット上にドキュメントが多くて、たいていのトラブルは、ググったら解決策が見つかること。
で、このうち、4,が一番重視です。
で、どのフレームワークが一番メジャーなのか、調べてみました。
調査方法は、メジャーなフレームワークについて、グーグルで、「(フレームワーク名) CSS フレームワーク」で検索して、ヒット数を比較してみただけ。
結果、
Bootstrap 74200
foundation 43900
Pure 33000 (軽量)
atlassian 32700
INK 23900 (Sass製)
skeleton 17500 (これも軽量)
cardinal 4390 (LESS製)
gumby 2150 (Sass製)
という結果に。ふーむ。Pureにしますかなぁ。
他に、おすすめをご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。
2014年8月15日金曜日
ファンタジーの効用
分人についての考えたことの補足というか、もうひとつだけ。
僕達は、様々な感情を感じたり、様々な性格を持ったりできる頭脳を持っているのに、日常的に体験している性格や、感じる感情っていうのは、ずいぶんと限られている。なんというか、普段、あまり感じることのない感情や性格、体験を適度に感じるというのは、普段使わない筋肉の適度なストレッチみたいなもので、非常に大切なことなんではなかろうか。
フィクションとかファンタジーとか、そういうものっていうのは、そういう健康上の効用を持っているのではなかろうか。
いや、科学的な根拠は全くないのだけれど。
僕達は、様々な感情を感じたり、様々な性格を持ったりできる頭脳を持っているのに、日常的に体験している性格や、感じる感情っていうのは、ずいぶんと限られている。なんというか、普段、あまり感じることのない感情や性格、体験を適度に感じるというのは、普段使わない筋肉の適度なストレッチみたいなもので、非常に大切なことなんではなかろうか。
フィクションとかファンタジーとか、そういうものっていうのは、そういう健康上の効用を持っているのではなかろうか。
いや、科学的な根拠は全くないのだけれど。
分人によるリソース管理としての医療について
ここしばらくで、平野啓一郎さんの小説を読み返しています。
このひとの小説は、僕は、結構好きです。
好きな小説家の本を読むとき、たいていは、どの本を読んでも、その小説家らしい個性というか作風みたいなものを感じるものです。しかし、平野さんは、僕にとって、少し前まで、一作一作の作風がバラバラな印象の作家でした。どの本も、同じ小説家の小説とは思えないくらい、それぞれ、まるで作風が違う印象だったのです。
たぶん、生来、多芸というか、器用な人なんでしょう。長い間、自分に書ける小説の種類を試しているようにも見えました。
しかし、このしばらくで、彼の小説には、おそらく、これからも彼がずっと書き続けるだろうと思われるテーマがひとつ現れてきたように見えます。
それは、「人間の多面性」みたいなことです。
一人ひとりの人間には、それぞれ多様な側面があります。勤務先での彼と、家庭での彼、友人と付き合うときの彼、ネットで匿名で話している彼、それぞれ、少しずつ異なった性格の彼です。たとえば、家庭では、優しい父親だけれど、職場では厳しい上司で、普段の生活ではノンポリだけれど、ネットでは、ネトウヨまがいの活動をしている、なんて人は、僕達のまわりには、普通にいるわけです。こういう人をみると、僕達は、
「常識のある人かと思っていたけれど、ネットの活動をみると、『本当の彼』は、ネトウヨだったんだね。」
とか、あるいは、反対に、
「ネットでは、ああいうことを言っているけれど、普段の『本当の彼』は、こういう人だよね。」
といった具合に、そういう、彼の複数の側面のどれかを「本当の彼」だと考えてしまいがちですが、平野さんの考えでは、どの彼が、「本当の彼」というわけではないのです。どの彼も、それぞれ、「本当の彼」です。というか、そういう複数の人格の集合体が「個人」なのです。
彼は、そういう、「個人(individual)」の中にある、複数の人格のそれぞれを「分人(dividual)」と呼んでいます。 そういう人間の多様性を理解するために、人間の人格を表現する単位として、「個人」よりも小さい「個人をもう少し細かく分けた単位」が必要だと考えているからです。彼の考えでは、一人の人間の中には、「統一された人格」「本当の自己」のようなものがあるわけではなくて、それぞれの場面ごとにふさわしい「カスタマイズされた人格」がいくつも共存しているのです。
この分人という考え方は、一見、突飛な考え方ですが、よくよく考えてみると、個人という大きめの単位で人間を理解しようとするよりも、ずっと、 分人という、もう少し細かい単位で人間を理解しようとするほうが、様々な人間の問題を、より分かりやすく捉えることができるように思います。
最近、平野さんの小説を読み返しているのは、この、「分人」という考え方を思い出して、これは、医療とか、自己健康管理みたいなことに、非常に重要な考え方になるんじゃないかと思うようになったからです。
いくつか、考えていることを、箇条書きにして書いておこうと思います。
1,分人は、他の分人の行動をコントロールできない。
診察室で常々、感じていたことです。
仕事を持っているサラリーマンが受診するのは、しばしば、土日になります。
そういうサラリーマンの診察をしていて、彼の体調不良の理由の一つが、どうも、勤務先での行動にあるように思えることっていうのは、結構あります。
たとえば、極端に残業が多すぎたり、強いストレスを感じやすい職場環境であったり、勤務時間が不規則だったり、接待や、職場の同僚や上司とのつきあいでの、毎晩の飲酒の量が多すぎたり、そういうことが体調不良の原因であるように思えることっていうのは、多々あるわけです。
しかし、診察室で注意して、職場での行動や、職場の同僚との付き合いの上での行動に変化を与えることは、非常に難しいと思っています。注意しても、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いのです。
もちろん、勤務時間を変更することや、仕事での得意先や上司との飲み会を断るのが難しいというのは、十二分に理解できます。しかし、仕事の終わった後にやっている、同僚と一緒のちょっとした飲酒などであっても、土日の診察室から彼の行動を変えるのは容易ではありません。それに比べれば、家庭での行動を少し変えてもらうことは、それほど難しくありません。
おそらく、多くのサラリーマンにとって、土日のプライベートの時間に会う相手から、仕事について(あるいは、仕事を一緒にしている同僚との行動について)口を出されることは、家庭での行動について注意されることに比べて、非常に不愉快なのです。また、多くの人は、プライベートの時間に会った人から注意されたことは、仕事中には、あまり、意識に上がらないのです。
逆もそうです。企業で産業医をやっていて、社員の体調不良について相談にのっていて、その社員の体調不良の原因が、家庭での過ごし方、たとえば、家族の介護による疲労や、自宅で食べる食事の内容、土曜日や日曜日の過ごし方に関係していると考えられることは、決して珍しくありません。そういう場合、こちらとしては、それを改善するためのなにがしかのアドバイスをするのですが、正直、それらのアドバイスは、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いです。
おそらく、会社で会った人間から、家庭での行動についてアレコレ口に出されることは、多くの人にとって、あまり気持ちのいいものではないのです。また、その場では納得していても、家庭でのんびり休んでいる時には、会社で会った人間のことも、彼から言われたことも、あまり意識に上がらないのです。
こういうことは、常々感じていたのですが、この現象は、その人の、家庭での分人と職場での分人が違うのだと考えると、ずいぶんと簡単に整理できる気がします。人は、心の中に、いくつもの性格を抱えていて、状況に応じて複数の性格を使い分けているのです。ハードな仕事をしている人の場合、「仕事スイッチ」みたいなもののオンとオフを切り替えている人も多いかもしれません。そして、「仕事スイッチ」が入っているときは、「家庭スイッチ」が入っている時に起きたできごとは、あまり意識に上がってきませんし、逆に、「家庭スイッチ」が入っている時には、「仕事スイッチ」の時に起きたことは、あまり意識に上がってきません。
たぶん、そういうものなのです。
2,分人は複数であっても、体は一つである。
人間の行動が、たとえ、複数の分人によってコントロールされているのだとしても、 体は一つです。ですから、健康管理というのは、ことなる目標を掲げ、ことなる性格を持った、互いに大雑把な連絡しか取り合っていないことも多い、複数の主体による、「共有リソース」の管理です。
複数の事業を営む大きな会社が、一枚のバランスシートを共有しているのと、似たようなものです。
3,分人が多いと、行動変容は比較的困難だけれど、 「幸福度」は、安定する。
サラリーマンや学生など、家庭と勤務先や家庭と学校のように、複数のコミュニティに属し、複数の顔を持っている人は、したがって、なにか健康上の問題があって、それが、その人の行動や習慣に原因がある場合でも、中々、その人の生活全体にわたる行動の変化を起こすのは難しいことが多いように思います。それに比べて、定年後の方や、特に外での仕事をしていない専業主婦などは、生活全体の変化を起こしやすいように思います。
しかし、複数の事業を行っている会社が、単一の事業しかやっていない企業に比べて、業績が安定しやすいのと同様、複数のコミュニティに属して、複数の顔を持っている人は、「幸福感」を安定させやすいように思います。複数のコミュニティに属している人は、どこか一つで、大きなダメージを受けた場合、たとえば、会社の仕事で大きな失敗をしてしまったなどの場合でも、他のコミュニティ、たとえば、家庭であるとか、趣味の友人であるとか、での幸福感を支えに、なんとか立ち直ることができることが多いように思うのです。
4,軽症のうちは、「プロブレムリスト」は、分人ごとに作ったほうがよいかもしれない。
症状が重くなればともかく、軽い症状の場合は、「通勤中にだけ、つらい」とか、「夜遅く、自宅でのんびりしている時だけ、気になる」など、限られた場面でだけ症状を感じるということも多いように思います。土曜日のオフの時間に受診した人は、ある程度促さないと、会社で勤務中に困っている症状については、思い出せないことも多いです。逆に、会社で、従業員の面談している時には、オフの日に困っている症状については、多くの人は、意識に上がりにくいように思います。
そう考えますと、その症状が、どういう分人に起こったか、ということをきちんと記録しておくと良いかもしれません。また、将来、複数の医療機関での電子カルテのデータ共有が進んだ場合、その症状は、どこで、どういう局面で起こったか、だけでなく、その症状は、どこで、どういう局面で(どういう医療機関で)語られたか、も、重要な所見になるかもしれません。
5,PHRの見せる範囲と、影響を与えるべき行動の範囲は、関係する。
自分の健康管理のために、ユーザー自身が様々な身体データの記録を行うサービスやデバイスが、次々と登場しています。そういったサービスをPHR(Personal Health Record)と総称しています。PHRには、ユーザーが、自分の健康記録をSNSなどに投稿できるようになっているタイプのものも多くあります。
ここまで考えてきたことから考えると、この種のサービスの良し悪しは、その投稿が、どのようなコミュニティに対して、どのような名前で(実名なのか、匿名なのか、匿名ならば、どういうイメージの名前なのか)投稿するのかが、かなり重要なものになってくるのではないかと思います。
以上、現在、考えていることのまとめです。
このひとの小説は、僕は、結構好きです。
好きな小説家の本を読むとき、たいていは、どの本を読んでも、その小説家らしい個性というか作風みたいなものを感じるものです。しかし、平野さんは、僕にとって、少し前まで、一作一作の作風がバラバラな印象の作家でした。どの本も、同じ小説家の小説とは思えないくらい、それぞれ、まるで作風が違う印象だったのです。
たぶん、生来、多芸というか、器用な人なんでしょう。長い間、自分に書ける小説の種類を試しているようにも見えました。
しかし、このしばらくで、彼の小説には、おそらく、これからも彼がずっと書き続けるだろうと思われるテーマがひとつ現れてきたように見えます。
それは、「人間の多面性」みたいなことです。
一人ひとりの人間には、それぞれ多様な側面があります。勤務先での彼と、家庭での彼、友人と付き合うときの彼、ネットで匿名で話している彼、それぞれ、少しずつ異なった性格の彼です。たとえば、家庭では、優しい父親だけれど、職場では厳しい上司で、普段の生活ではノンポリだけれど、ネットでは、ネトウヨまがいの活動をしている、なんて人は、僕達のまわりには、普通にいるわけです。こういう人をみると、僕達は、
「常識のある人かと思っていたけれど、ネットの活動をみると、『本当の彼』は、ネトウヨだったんだね。」
とか、あるいは、反対に、
「ネットでは、ああいうことを言っているけれど、普段の『本当の彼』は、こういう人だよね。」
といった具合に、そういう、彼の複数の側面のどれかを「本当の彼」だと考えてしまいがちですが、平野さんの考えでは、どの彼が、「本当の彼」というわけではないのです。どの彼も、それぞれ、「本当の彼」です。というか、そういう複数の人格の集合体が「個人」なのです。
彼は、そういう、「個人(individual)」の中にある、複数の人格のそれぞれを「分人(dividual)」と呼んでいます。 そういう人間の多様性を理解するために、人間の人格を表現する単位として、「個人」よりも小さい「個人をもう少し細かく分けた単位」が必要だと考えているからです。彼の考えでは、一人の人間の中には、「統一された人格」「本当の自己」のようなものがあるわけではなくて、それぞれの場面ごとにふさわしい「カスタマイズされた人格」がいくつも共存しているのです。
この分人という考え方は、一見、突飛な考え方ですが、よくよく考えてみると、個人という大きめの単位で人間を理解しようとするよりも、ずっと、 分人という、もう少し細かい単位で人間を理解しようとするほうが、様々な人間の問題を、より分かりやすく捉えることができるように思います。
最近、平野さんの小説を読み返しているのは、この、「分人」という考え方を思い出して、これは、医療とか、自己健康管理みたいなことに、非常に重要な考え方になるんじゃないかと思うようになったからです。
いくつか、考えていることを、箇条書きにして書いておこうと思います。
1,分人は、他の分人の行動をコントロールできない。
診察室で常々、感じていたことです。
仕事を持っているサラリーマンが受診するのは、しばしば、土日になります。
そういうサラリーマンの診察をしていて、彼の体調不良の理由の一つが、どうも、勤務先での行動にあるように思えることっていうのは、結構あります。
たとえば、極端に残業が多すぎたり、強いストレスを感じやすい職場環境であったり、勤務時間が不規則だったり、接待や、職場の同僚や上司とのつきあいでの、毎晩の飲酒の量が多すぎたり、そういうことが体調不良の原因であるように思えることっていうのは、多々あるわけです。
しかし、診察室で注意して、職場での行動や、職場の同僚との付き合いの上での行動に変化を与えることは、非常に難しいと思っています。注意しても、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いのです。
もちろん、勤務時間を変更することや、仕事での得意先や上司との飲み会を断るのが難しいというのは、十二分に理解できます。しかし、仕事の終わった後にやっている、同僚と一緒のちょっとした飲酒などであっても、土日の診察室から彼の行動を変えるのは容易ではありません。それに比べれば、家庭での行動を少し変えてもらうことは、それほど難しくありません。
おそらく、多くのサラリーマンにとって、土日のプライベートの時間に会う相手から、仕事について(あるいは、仕事を一緒にしている同僚との行動について)口を出されることは、家庭での行動について注意されることに比べて、非常に不愉快なのです。また、多くの人は、プライベートの時間に会った人から注意されたことは、仕事中には、あまり、意識に上がらないのです。
逆もそうです。企業で産業医をやっていて、社員の体調不良について相談にのっていて、その社員の体調不良の原因が、家庭での過ごし方、たとえば、家族の介護による疲労や、自宅で食べる食事の内容、土曜日や日曜日の過ごし方に関係していると考えられることは、決して珍しくありません。そういう場合、こちらとしては、それを改善するためのなにがしかのアドバイスをするのですが、正直、それらのアドバイスは、あまり聞いてもらえていないように感じることが多いです。
おそらく、会社で会った人間から、家庭での行動についてアレコレ口に出されることは、多くの人にとって、あまり気持ちのいいものではないのです。また、その場では納得していても、家庭でのんびり休んでいる時には、会社で会った人間のことも、彼から言われたことも、あまり意識に上がらないのです。
こういうことは、常々感じていたのですが、この現象は、その人の、家庭での分人と職場での分人が違うのだと考えると、ずいぶんと簡単に整理できる気がします。人は、心の中に、いくつもの性格を抱えていて、状況に応じて複数の性格を使い分けているのです。ハードな仕事をしている人の場合、「仕事スイッチ」みたいなもののオンとオフを切り替えている人も多いかもしれません。そして、「仕事スイッチ」が入っているときは、「家庭スイッチ」が入っている時に起きたできごとは、あまり意識に上がってきませんし、逆に、「家庭スイッチ」が入っている時には、「仕事スイッチ」の時に起きたことは、あまり意識に上がってきません。
たぶん、そういうものなのです。
2,分人は複数であっても、体は一つである。
人間の行動が、たとえ、複数の分人によってコントロールされているのだとしても、 体は一つです。ですから、健康管理というのは、ことなる目標を掲げ、ことなる性格を持った、互いに大雑把な連絡しか取り合っていないことも多い、複数の主体による、「共有リソース」の管理です。
複数の事業を営む大きな会社が、一枚のバランスシートを共有しているのと、似たようなものです。
3,分人が多いと、行動変容は比較的困難だけれど、 「幸福度」は、安定する。
サラリーマンや学生など、家庭と勤務先や家庭と学校のように、複数のコミュニティに属し、複数の顔を持っている人は、したがって、なにか健康上の問題があって、それが、その人の行動や習慣に原因がある場合でも、中々、その人の生活全体にわたる行動の変化を起こすのは難しいことが多いように思います。それに比べて、定年後の方や、特に外での仕事をしていない専業主婦などは、生活全体の変化を起こしやすいように思います。
しかし、複数の事業を行っている会社が、単一の事業しかやっていない企業に比べて、業績が安定しやすいのと同様、複数のコミュニティに属して、複数の顔を持っている人は、「幸福感」を安定させやすいように思います。複数のコミュニティに属している人は、どこか一つで、大きなダメージを受けた場合、たとえば、会社の仕事で大きな失敗をしてしまったなどの場合でも、他のコミュニティ、たとえば、家庭であるとか、趣味の友人であるとか、での幸福感を支えに、なんとか立ち直ることができることが多いように思うのです。
4,軽症のうちは、「プロブレムリスト」は、分人ごとに作ったほうがよいかもしれない。
症状が重くなればともかく、軽い症状の場合は、「通勤中にだけ、つらい」とか、「夜遅く、自宅でのんびりしている時だけ、気になる」など、限られた場面でだけ症状を感じるということも多いように思います。土曜日のオフの時間に受診した人は、ある程度促さないと、会社で勤務中に困っている症状については、思い出せないことも多いです。逆に、会社で、従業員の面談している時には、オフの日に困っている症状については、多くの人は、意識に上がりにくいように思います。
そう考えますと、その症状が、どういう分人に起こったか、ということをきちんと記録しておくと良いかもしれません。また、将来、複数の医療機関での電子カルテのデータ共有が進んだ場合、その症状は、どこで、どういう局面で起こったか、だけでなく、その症状は、どこで、どういう局面で(どういう医療機関で)語られたか、も、重要な所見になるかもしれません。
5,PHRの見せる範囲と、影響を与えるべき行動の範囲は、関係する。
自分の健康管理のために、ユーザー自身が様々な身体データの記録を行うサービスやデバイスが、次々と登場しています。そういったサービスをPHR(Personal Health Record)と総称しています。PHRには、ユーザーが、自分の健康記録をSNSなどに投稿できるようになっているタイプのものも多くあります。
ここまで考えてきたことから考えると、この種のサービスの良し悪しは、その投稿が、どのようなコミュニティに対して、どのような名前で(実名なのか、匿名なのか、匿名ならば、どういうイメージの名前なのか)投稿するのかが、かなり重要なものになってくるのではないかと思います。
以上、現在、考えていることのまとめです。
2014年6月23日月曜日
「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その2)
「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その1)のつづきです。
前回書いたように、Wikipediaの医学関係のページには、時々、間違いが入り込みます。
そして、その間違いの多くは、一定の傾向があります。
つまり、
1,記述が古い(必ずしも、最新の論文を参照して書かれているわけではない)
2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある(つまり、一般的な見解に反対する強い信念を持っているカルト的な集団がいるとき、編集が、そういう集団の意見に引きずられてしまう)
3, 特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある
といった傾向が認められるのです。
もちろん、これらの間違いは、多くの場合、普通の調べ物に不都合をきたすほどの問題ではありません。
今回話題になっている記事の元論文では、研究者たちが、「10種類の病気に関するページを調べたところ、そのうち、9つのページで、主要な診療マニュアルの最新版や最新の科学的知見との不一致」が見つかったということです。
これは、医師が、この記事を参照しながら診療するとしたら危険ですけれど、普通の調べ物には、大きな問題にはならない程度であろうと思います。
さて、僕は、この3つの傾向のうち、1については、ある程度仕方がないと思っています。通常の百科事典、たとえば、ブリタニカや平凡社だって、この欠点は同じです。どうしたって、百科事典の編集には、それなりの時間がかかりますから、事典の記載が、最新の論文の内容を反映しているということはありえません。この点、むしろ、今回の記事で批判されているWikipediaの方が、記述は新しいことが多いと思います。もちろん、最新の知見に基づいた記事が読めればそれに越したことはないですが、たとえ、多少古い記事であっても、普通の調べ物には問題はないはずです。
問題は、2と3です。
これらの問題は、Wikipediaに特有の現象、つまり、だれでも編集可能であるがゆえに、強い信念を持っている人や、強い利害関係を持っている人が積極的に編集に参加して、一般的な意見を排除してしまうという現象です。
僕は、たとえ、専門家が定期的にWikipediaを添削しても、少なくとも医学関連の記載については、この種の問題は、うまく解決できないだろうと思います。
なぜならば、第一に、医師や医学関係者の間でも、時々、かなり変わった意見を持っている人がいるからです。
第二に、医学というのは、たとえば、数学や法律などのような厳密な法則や原則がある学問でなくて、かなりのところ、病気や健康に関する事実の列挙でしかないからです。そういう学問領域では、なかなか、間違っている意見を間違っているとして排除することは難しいのです。
法則や原則を欠いているため、少々耳慣れない学説を聞いても、それが、事実であるにも関わらず自分がたまたま知らないだけなのか、それとも、まったく事実でないのか、多数派の誠実な医師や医学研究者には、区別がつけにくいことがあるためです。
僕は、こういう問題は、事典の説明に複数のバージョンを認めること、それから、その複数のバージョンの間で、どのバージョンが一番多くの専門家から支持されているか多数決を取るということでしか、解決できないのではないかと思っています。
つまり、各分野の専門家の専用アカウントを作り、複数の説明ページのうち、どちらのほうが妥当だと思うか、投票してもらうのです。
専門家の間でも意見が割れる問題について、どの意見が科学的に正しいかWikipedian同士で厳密な議論をするというのは、少々非現実的です。
しかし、そういう場合でも、専門家の間の多数派、つまり、一番平均的な専門家がどの意見を信じているか、というのは、参考にすべき意見を決めるにあたって、非常にわかりやすい指標になると思います。
もちろん、多数派の意見であることは、必ずしも正しい意見であることは意味しません。科学の歴史は、多数派の意見が、何度も何度も否定され、その都度、新しい多数派が形成されてきた歴史でもあります。しかし、それでも、多くの場合、専門家のうちの多数派が何を信じているかを知ることは、現時点で一番リスクの少ない判断をするための簡単な方法なのです。
Wikipediaは、専門家の間で意見が割れているような話題には、できるだけ踏み込まない方針をとっています。しかし、医師の間で、複数の意見が存在する場合、医師の多数派が信じている意見がどれなのか知ることは、非常に重要だと思います(僕は、ここで、少々変わった信念を持って精神医学や漢方をやってらっしゃるU先生や、数多くのベストセラーで、標準的ながん治療に批判的な意見を主張していらっしゃるK先生を想定しています。様々な少々変わった主張をされる先生方の支持者の人たちに対して、少なくとも、それが多数派の医師の普通の見解ではないということは、分かりやすく伝えられるべきだと思うのです。僕は、ああいう意見の信者の人たちは、もし、その意見を強く信じるようになる前の段階で、それが普通の医学の見解ではないということを知ることができたなら、実際には信者になった人のうち、相当数の人がそれをそこまで強く信じることはなかったのではないかと思うのです。)。
Wikipediaは、百科事典を目指しているわけであって、ここで書いたような仕事は、彼らの仕事の範囲の外かもしれません。それであれば、どこか別に、僕達が、そういうサイトを作るべきかもしれません。
とくに、今後、日本では、混合診療が事実上、解禁されていくことが決まっています。
日本の医師は、今後は、より強く、標準的な意見が何なのか、分かりやすく提示することが求められていくのではないかと思います。
前回書いたように、Wikipediaの医学関係のページには、時々、間違いが入り込みます。
そして、その間違いの多くは、一定の傾向があります。
つまり、
1,記述が古い(必ずしも、最新の論文を参照して書かれているわけではない)
2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある(つまり、一般的な見解に反対する強い信念を持っているカルト的な集団がいるとき、編集が、そういう集団の意見に引きずられてしまう)
3, 特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある
といった傾向が認められるのです。
もちろん、これらの間違いは、多くの場合、普通の調べ物に不都合をきたすほどの問題ではありません。
今回話題になっている記事の元論文では、研究者たちが、「10種類の病気に関するページを調べたところ、そのうち、9つのページで、主要な診療マニュアルの最新版や最新の科学的知見との不一致」が見つかったということです。
これは、医師が、この記事を参照しながら診療するとしたら危険ですけれど、普通の調べ物には、大きな問題にはならない程度であろうと思います。
さて、僕は、この3つの傾向のうち、1については、ある程度仕方がないと思っています。通常の百科事典、たとえば、ブリタニカや平凡社だって、この欠点は同じです。どうしたって、百科事典の編集には、それなりの時間がかかりますから、事典の記載が、最新の論文の内容を反映しているということはありえません。この点、むしろ、今回の記事で批判されているWikipediaの方が、記述は新しいことが多いと思います。もちろん、最新の知見に基づいた記事が読めればそれに越したことはないですが、たとえ、多少古い記事であっても、普通の調べ物には問題はないはずです。
問題は、2と3です。
これらの問題は、Wikipediaに特有の現象、つまり、だれでも編集可能であるがゆえに、強い信念を持っている人や、強い利害関係を持っている人が積極的に編集に参加して、一般的な意見を排除してしまうという現象です。
僕は、たとえ、専門家が定期的にWikipediaを添削しても、少なくとも医学関連の記載については、この種の問題は、うまく解決できないだろうと思います。
なぜならば、第一に、医師や医学関係者の間でも、時々、かなり変わった意見を持っている人がいるからです。
第二に、医学というのは、たとえば、数学や法律などのような厳密な法則や原則がある学問でなくて、かなりのところ、病気や健康に関する事実の列挙でしかないからです。そういう学問領域では、なかなか、間違っている意見を間違っているとして排除することは難しいのです。
法則や原則を欠いているため、少々耳慣れない学説を聞いても、それが、事実であるにも関わらず自分がたまたま知らないだけなのか、それとも、まったく事実でないのか、多数派の誠実な医師や医学研究者には、区別がつけにくいことがあるためです。
僕は、こういう問題は、事典の説明に複数のバージョンを認めること、それから、その複数のバージョンの間で、どのバージョンが一番多くの専門家から支持されているか多数決を取るということでしか、解決できないのではないかと思っています。
つまり、各分野の専門家の専用アカウントを作り、複数の説明ページのうち、どちらのほうが妥当だと思うか、投票してもらうのです。
専門家の間でも意見が割れる問題について、どの意見が科学的に正しいかWikipedian同士で厳密な議論をするというのは、少々非現実的です。
しかし、そういう場合でも、専門家の間の多数派、つまり、一番平均的な専門家がどの意見を信じているか、というのは、参考にすべき意見を決めるにあたって、非常にわかりやすい指標になると思います。
もちろん、多数派の意見であることは、必ずしも正しい意見であることは意味しません。科学の歴史は、多数派の意見が、何度も何度も否定され、その都度、新しい多数派が形成されてきた歴史でもあります。しかし、それでも、多くの場合、専門家のうちの多数派が何を信じているかを知ることは、現時点で一番リスクの少ない判断をするための簡単な方法なのです。
Wikipediaは、専門家の間で意見が割れているような話題には、できるだけ踏み込まない方針をとっています。しかし、医師の間で、複数の意見が存在する場合、医師の多数派が信じている意見がどれなのか知ることは、非常に重要だと思います(僕は、ここで、少々変わった信念を持って精神医学や漢方をやってらっしゃるU先生や、数多くのベストセラーで、標準的ながん治療に批判的な意見を主張していらっしゃるK先生を想定しています。様々な少々変わった主張をされる先生方の支持者の人たちに対して、少なくとも、それが多数派の医師の普通の見解ではないということは、分かりやすく伝えられるべきだと思うのです。僕は、ああいう意見の信者の人たちは、もし、その意見を強く信じるようになる前の段階で、それが普通の医学の見解ではないということを知ることができたなら、実際には信者になった人のうち、相当数の人がそれをそこまで強く信じることはなかったのではないかと思うのです。)。
Wikipediaは、百科事典を目指しているわけであって、ここで書いたような仕事は、彼らの仕事の範囲の外かもしれません。それであれば、どこか別に、僕達が、そういうサイトを作るべきかもしれません。
とくに、今後、日本では、混合診療が事実上、解禁されていくことが決まっています。
日本の医師は、今後は、より強く、標準的な意見が何なのか、分かりやすく提示することが求められていくのではないかと思います。
2014年6月18日水曜日
「Wikipediaの医学関連の記事の90%が間違い」について(その1)
「Wikipediaの病気についてのページの90%が間違い」
という話があって、いろんな記事になって、まあ、最近話題になっているのだけれど、これについて、少し思っていることをまとめておこうと思う。
まず、第一に、実は、この記事のタイトルは、かなりミスリーディングである。記事内容をよく読むと、「病気についてWikipediaにかかれていることの90%が間違い」なのではなくて、「Wikipediaの病気についての項目のページの90%が、ページのどこかに間違いを含む」という話なのである。前者と後者では全然違う。病気について書かれていることの90%が間違いであれば、そんな百科事典はまるで使い物にならないが、病気についての様々な記載のどこかに間違いが含まれる割合が90%というのであれば、注意して内容を確認しながら使えば、十分に使い物になるだろう。もちろん、医者が、ときどき間違いが含まれる百科事典の記事をそのまま信用して治療したりしたら、そりゃあ、問題だろうけれど、そもそも、百科事典というのは、そういう使われ方をするようなものではない。
そういうわけで、僕自身は、結構、医学関係の調べ物にもWikipediaを使っている。たとえ、完全には信用できない、あとで記事内容を確認しなくてはならない百科事典であっても、とりあえず、ネットに繋がっていればいつでも読める、そこそこまとまった記事がそろったWikipediaは、調べ物には非常に重宝するのだ。
そういうわけで、医学関係のWikipediaのヘビーユーザーである僕は、「医学関係のWikipediaの間違い」も、そこそこ経験しているように思う。そして、きちんと統計をとったことはないが、確かに、そういう僕の感覚でも、Wikipediaにある医学関連記事のうち、80〜90%くらいの記事は、どこかしら不適切な記述を含んでいるように思われる。
僕には、Wikipediaの医学関連の記事の間違いには、一定の傾向があるように思われる。そういうWikipediaの間違いの傾向は、たぶん、医学関係の調べ物にWikipediaを使う多くの人にとって気になるところだろうから、ここにまとめておこうと思う。
僕の感覚では、多くの不適切な部分というのは、以下のようなものだ。
1,記述が古い。
元の論文を読んではいないのだけれど、おそらく、「Wikipediaの記事の90%を間違い」という結論を出した今回の調査の中で、最も問題視されたのは、ここだと思う。というのは、この調査をした医師は、「主要な診療マニュアルの最新版や、最新の科学的治験と比較しての不一致」と書いているらしいから。確かに、Wikipediaの記述は、少し(数年程度)古い教科書や論文を元にして書かれているものが多い気がする。しかし、これは、最新の論文の記載が、Wikipediaの記事になるまでのタイムラグだと考えれば、当たり前ことだ。
Wikipediaの記事は、他の一般向けの記事を参考にして書かれることが多いようだ。そうだとすると、最新の論文がWikipediaの記事になるには、まず、最新の論文の内容が総説論文にまとめられ、それが一般向けの記事に反映され、さらにそれを参考にしてWikipediaの記事が書かれる。おそらく、その過程で数年程度の時間がかかるのだろう。
僕は、この、記事の遅れという問題は、 Wikipediaを使う人が、そういう問題の存在を理解していれば、大きな欠点にはならないのではないかと思う。つまり、Wikipediaは、あなたの調べたい病気について、分かりやすくまとめてあるかもしれないが、そこに書いてある検査方法や治療方法は最新のものではないかもしれない、ということだ。最新の知識がほしい時には、Wikipedia以外のサイトや本を合わせて参照してほしい。
2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が、強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある。
これは、1,よりも数はずっと少ないが、結構深刻な問題だと思う。
たとえば、ある種の陰謀論を信じている人がいる。そういう人たちによると、ある予防接種の背後には、国民を不妊症にして人口調整をしようとする外国政府や秘密結社の陰謀がある。あるいは、その予防接種は、実は、病気を予防する力などないのに、ただ、単に、医師と製薬会社が収益を上げるためだけに病気の予防ができるかのように宣伝されているのだと主張する人もいる。また、精神科で処方される薬は、実は、全く効かないのに、医者の金儲けのためだけに処方されていると主張する人もいる。がんには抗癌剤は一切効かないし、がんの外科手術はほとんどが無駄だと主張する人もいる。
これに対して、多数派の医師は、そのようには信じていない。確かに、予防接種の後に、有害な現象が起こることはある。しかし、そういった有害な現象による害と、予防接種が病気を予防してくれる利益を比べて、後者のほうが大きいと考えているから、予防接種をするのである。薬も、通常は、副作用によるデメリットに比べて、治療効果によるメリットのほうが大きいと考えている場合にのみ処方されるし、手術だって、そういうものだ。
もちろん、多数派の医者の間でも、実際には、少々のややこしい議論はある。たとえば、ある種の予防接種、たとえば、子宮頸がんワクチンについては、絶対にメリットのほうが大きいと言えるか、というと、僕は今の時点では、まだよくわからないと思っている。だから、多くの人に接種を勧める前に、もう少しだけ様子を見ても良いのではないかと思っている。また、向精神薬を過剰に投与している医者があちこちにいると感じているし、そういう医者に、なんらかの対策が必要なのではないかとも思っている。でも、こういう種類のデリケートな議論は、上のような極論をいう少数派とは、完全に別物だ。
問題は、こういう少数派の一部が、かなり強く自分の意見を信じていて、奇妙なくらい強い正義感と信念を持っていることだ。
どうも、ときどき、そういう「正義の少数派」がWikipediaにやってきて、自分の奇妙な意見を書き込んだり、自分が気に入らない意見を消して回ったりしているようだ。もっともWikipediaに書き込まれた「正義の少数派」の奇妙な意見は、たいていは、すぐに消される。しかし、一旦消された「不正義の多数派」の意見を書き直すのは、案外たいへんである。結果、何度か繰り返される編集合戦の後、「正義」の意見は消されるものの、「不正義」の意見も記載不足という平衡状態に陥っていることが多いようだ。奇妙な論争がある分野では、他のサイトや本を合わせて参照のこと。
3,特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある。
これも、2,と同じ、編集合戦の結果、起こるものだろうと思う。ある種のサプリメントや健康食品に対する批判は、たとえ、医学的に正しくても、消えてしまうことがある。時に、あまり科学的でない記述に置き換えられることがある。もっとも、そういう記載の多くは、しばらくたつと、また訂正される。Wikipediaにある、サプリメント、化粧品、健康食品などについての記載は、あまり信用しすぎないこと。
というわけで、Wikipediaの間違いの傾向について、書いてみました。
こういう問題が発生するのは、個々の記事の問題というよりも、そもそものWikipediaの設計や運営の本質的な欠陥が原因のような気がします。そういうわけで、次の記事では、どうしたら、こういった問題が解決できそうか、考えてみることにしましょう。
(その2につづきます)
という話があって、いろんな記事になって、まあ、最近話題になっているのだけれど、これについて、少し思っていることをまとめておこうと思う。
まず、第一に、実は、この記事のタイトルは、かなりミスリーディングである。記事内容をよく読むと、「病気についてWikipediaにかかれていることの90%が間違い」なのではなくて、「Wikipediaの病気についての項目のページの90%が、ページのどこかに間違いを含む」という話なのである。前者と後者では全然違う。病気について書かれていることの90%が間違いであれば、そんな百科事典はまるで使い物にならないが、病気についての様々な記載のどこかに間違いが含まれる割合が90%というのであれば、注意して内容を確認しながら使えば、十分に使い物になるだろう。もちろん、医者が、ときどき間違いが含まれる百科事典の記事をそのまま信用して治療したりしたら、そりゃあ、問題だろうけれど、そもそも、百科事典というのは、そういう使われ方をするようなものではない。
そういうわけで、僕自身は、結構、医学関係の調べ物にもWikipediaを使っている。たとえ、完全には信用できない、あとで記事内容を確認しなくてはならない百科事典であっても、とりあえず、ネットに繋がっていればいつでも読める、そこそこまとまった記事がそろったWikipediaは、調べ物には非常に重宝するのだ。
そういうわけで、医学関係のWikipediaのヘビーユーザーである僕は、「医学関係のWikipediaの間違い」も、そこそこ経験しているように思う。そして、きちんと統計をとったことはないが、確かに、そういう僕の感覚でも、Wikipediaにある医学関連記事のうち、80〜90%くらいの記事は、どこかしら不適切な記述を含んでいるように思われる。
僕には、Wikipediaの医学関連の記事の間違いには、一定の傾向があるように思われる。そういうWikipediaの間違いの傾向は、たぶん、医学関係の調べ物にWikipediaを使う多くの人にとって気になるところだろうから、ここにまとめておこうと思う。
僕の感覚では、多くの不適切な部分というのは、以下のようなものだ。
1,記述が古い。
元の論文を読んではいないのだけれど、おそらく、「Wikipediaの記事の90%を間違い」という結論を出した今回の調査の中で、最も問題視されたのは、ここだと思う。というのは、この調査をした医師は、「主要な診療マニュアルの最新版や、最新の科学的治験と比較しての不一致」と書いているらしいから。確かに、Wikipediaの記述は、少し(数年程度)古い教科書や論文を元にして書かれているものが多い気がする。しかし、これは、最新の論文の記載が、Wikipediaの記事になるまでのタイムラグだと考えれば、当たり前ことだ。
Wikipediaの記事は、他の一般向けの記事を参考にして書かれることが多いようだ。そうだとすると、最新の論文がWikipediaの記事になるには、まず、最新の論文の内容が総説論文にまとめられ、それが一般向けの記事に反映され、さらにそれを参考にしてWikipediaの記事が書かれる。おそらく、その過程で数年程度の時間がかかるのだろう。
僕は、この、記事の遅れという問題は、 Wikipediaを使う人が、そういう問題の存在を理解していれば、大きな欠点にはならないのではないかと思う。つまり、Wikipediaは、あなたの調べたい病気について、分かりやすくまとめてあるかもしれないが、そこに書いてある検査方法や治療方法は最新のものではないかもしれない、ということだ。最新の知識がほしい時には、Wikipedia以外のサイトや本を合わせて参照してほしい。
2,そのテーマについて意見の不一致があり、少数派の意見を持っている人が、強い正義感と信念を持っている場合、多数派の意見について記述が足りないことがある。
これは、1,よりも数はずっと少ないが、結構深刻な問題だと思う。
たとえば、ある種の陰謀論を信じている人がいる。そういう人たちによると、ある予防接種の背後には、国民を不妊症にして人口調整をしようとする外国政府や秘密結社の陰謀がある。あるいは、その予防接種は、実は、病気を予防する力などないのに、ただ、単に、医師と製薬会社が収益を上げるためだけに病気の予防ができるかのように宣伝されているのだと主張する人もいる。また、精神科で処方される薬は、実は、全く効かないのに、医者の金儲けのためだけに処方されていると主張する人もいる。がんには抗癌剤は一切効かないし、がんの外科手術はほとんどが無駄だと主張する人もいる。
これに対して、多数派の医師は、そのようには信じていない。確かに、予防接種の後に、有害な現象が起こることはある。しかし、そういった有害な現象による害と、予防接種が病気を予防してくれる利益を比べて、後者のほうが大きいと考えているから、予防接種をするのである。薬も、通常は、副作用によるデメリットに比べて、治療効果によるメリットのほうが大きいと考えている場合にのみ処方されるし、手術だって、そういうものだ。
もちろん、多数派の医者の間でも、実際には、少々のややこしい議論はある。たとえば、ある種の予防接種、たとえば、子宮頸がんワクチンについては、絶対にメリットのほうが大きいと言えるか、というと、僕は今の時点では、まだよくわからないと思っている。だから、多くの人に接種を勧める前に、もう少しだけ様子を見ても良いのではないかと思っている。また、向精神薬を過剰に投与している医者があちこちにいると感じているし、そういう医者に、なんらかの対策が必要なのではないかとも思っている。でも、こういう種類のデリケートな議論は、上のような極論をいう少数派とは、完全に別物だ。
問題は、こういう少数派の一部が、かなり強く自分の意見を信じていて、奇妙なくらい強い正義感と信念を持っていることだ。
どうも、ときどき、そういう「正義の少数派」がWikipediaにやってきて、自分の奇妙な意見を書き込んだり、自分が気に入らない意見を消して回ったりしているようだ。もっともWikipediaに書き込まれた「正義の少数派」の奇妙な意見は、たいていは、すぐに消される。しかし、一旦消された「不正義の多数派」の意見を書き直すのは、案外たいへんである。結果、何度か繰り返される編集合戦の後、「正義」の意見は消されるものの、「不正義」の意見も記載不足という平衡状態に陥っていることが多いようだ。奇妙な論争がある分野では、他のサイトや本を合わせて参照のこと。
3,特定の会社や、その商品に都合の悪い記述は、なぜか、消えてしまうことがある。
これも、2,と同じ、編集合戦の結果、起こるものだろうと思う。ある種のサプリメントや健康食品に対する批判は、たとえ、医学的に正しくても、消えてしまうことがある。時に、あまり科学的でない記述に置き換えられることがある。もっとも、そういう記載の多くは、しばらくたつと、また訂正される。Wikipediaにある、サプリメント、化粧品、健康食品などについての記載は、あまり信用しすぎないこと。
というわけで、Wikipediaの間違いの傾向について、書いてみました。
こういう問題が発生するのは、個々の記事の問題というよりも、そもそものWikipediaの設計や運営の本質的な欠陥が原因のような気がします。そういうわけで、次の記事では、どうしたら、こういった問題が解決できそうか、考えてみることにしましょう。
(その2につづきます)
2014年6月9日月曜日
「お薬手帳」と「お薬手帳を断ること」について思うこと
「お薬手帳断ろう、20円安く」 Twitterで情報拡散 薬局などは有用性PR
「お薬手帳を断ろう」という動きがあるようです。
僕としては、この「お薬手帳」について、いろいろ思っていたこともあるので、この機会に、ちょっとこれについて書こうと思います。
薬というのは、飲み合わせ、つまり、「この薬を飲んでいたら、こっちの薬は飲むべきではない」というような組み合わせがあります。また、人によっては、特定の薬でアレルギーや有害な副作用が起こりやすいということもあります(過去に、そういうトラブルの経験のある人は、その記録は非常に大切です。記録があれば、同じトラブルを繰り返すことが避けられるからです。)。また、これまでどういう薬を飲んできたか、ということが病気の診断のために重要な情報になることもあります。ですので、患者が過去にどういう薬を飲んできたか、また、今、どういう薬を飲んでいるか、ということがわかることは、処方する医師にとっても、薬を出す薬剤師にとっても、もちろん、患者自身の健康にとっても、非常に大切なことです。
僕は、お薬手帳というのは、そういった情報を、患者自身に管理してもらうために作られたツールだと思っています。こういった情報は処方する医者にとって非常に大切ですので、僕は、複数の病院や診療書にかかっている患者については、診察時、必ず、お薬手帳(もしくは、その代用品、後述します)を見せてもらうようにしています。
ところが、そのお薬手帳の情報なんですが、僕自身は、正直のところ、あんまり信用できないと感じています。
というのは、
1,お薬手帳にシールを貼るのを忘れている人が多い。
2,お薬手帳を受診時に忘れてきたりする人も多い(そうなると、シールを貼り忘れたり、お薬手帳を再発行することも多くなりますから、情報が分散してしまいます)。
3,お薬手帳を紛失する人が多い。
こういうことが多くなると、処方する医者としては、お薬手帳を見せてもらっても、そこにある情報だけでは、これまでどういう薬を飲んでいたか完全に網羅できていない可能性を、常に考えなくてはならないんですね。モレがある可能性が高い履歴情報をあまり頼りにしすぎるのは危険です。これが、僕がお薬手帳をあんまり信用できないと感じている、という意味です。
ですので、僕としては、今回のお薬手帳を断る動き、それ自体は悪いとは思いません。ただ、お薬手帳を断る人も、自分が処方された薬の名前と量が、きちんとわかるように記録を取るようにしてください。メモ書きでもかまいませんし、薬袋や薬の説明書きの紙をとっておいてもかまいませんし、それらを携帯電話などで写真にとっておいてもかまいません。もちろん、お薬手帳を持ち歩いて頂いても、かまいません。
逆に言えば、もし、きちんと薬の履歴情報がわかるようにさえしていただければ、お薬手帳を持っていても、いなくても、どちらでも構わないと思ってます。
さて、お薬手帳の代わりに、僕自身が自分の患者に薦めているのは、受診した後に、お薬手帳に貼るシールか、医者からもらった処方箋を携帯電話で写真をとって残しておくことです。
しょっちゅう病院にかかる人であればともかく、半年に一回程度しか受診しない人の場合、かなりの確率で、お薬手帳を紛失します。また、受診するときに、手帳を忘れてくる人も多いです。しかし、最近は、携帯電話を忘れて外出する人はあまりいません。いまどきのスマートフォンであれば、機種変更しても写真などは同期できますから、スマートフォンは、履歴を残すには丁度いい端末だと思っています。
ちなみに、薬歴管理のためのスマホアプリなどもたくさん出ていますが、そういうものは、あまりおすすめしません。どうせ、複雑な機能などは必要ないことが多いですし、そういうアプリは、機種変更時になどにデータを移行するのも面倒です。薬の名前と量がわかる写真さえ、きちんと保管できれば十分です。
ご参考になれば。
「お薬手帳を断ろう」という動きがあるようです。
僕としては、この「お薬手帳」について、いろいろ思っていたこともあるので、この機会に、ちょっとこれについて書こうと思います。
薬というのは、飲み合わせ、つまり、「この薬を飲んでいたら、こっちの薬は飲むべきではない」というような組み合わせがあります。また、人によっては、特定の薬でアレルギーや有害な副作用が起こりやすいということもあります(過去に、そういうトラブルの経験のある人は、その記録は非常に大切です。記録があれば、同じトラブルを繰り返すことが避けられるからです。)。また、これまでどういう薬を飲んできたか、ということが病気の診断のために重要な情報になることもあります。ですので、患者が過去にどういう薬を飲んできたか、また、今、どういう薬を飲んでいるか、ということがわかることは、処方する医師にとっても、薬を出す薬剤師にとっても、もちろん、患者自身の健康にとっても、非常に大切なことです。
僕は、お薬手帳というのは、そういった情報を、患者自身に管理してもらうために作られたツールだと思っています。こういった情報は処方する医者にとって非常に大切ですので、僕は、複数の病院や診療書にかかっている患者については、診察時、必ず、お薬手帳(もしくは、その代用品、後述します)を見せてもらうようにしています。
ところが、そのお薬手帳の情報なんですが、僕自身は、正直のところ、あんまり信用できないと感じています。
というのは、
1,お薬手帳にシールを貼るのを忘れている人が多い。
2,お薬手帳を受診時に忘れてきたりする人も多い(そうなると、シールを貼り忘れたり、お薬手帳を再発行することも多くなりますから、情報が分散してしまいます)。
3,お薬手帳を紛失する人が多い。
こういうことが多くなると、処方する医者としては、お薬手帳を見せてもらっても、そこにある情報だけでは、これまでどういう薬を飲んでいたか完全に網羅できていない可能性を、常に考えなくてはならないんですね。モレがある可能性が高い履歴情報をあまり頼りにしすぎるのは危険です。これが、僕がお薬手帳をあんまり信用できないと感じている、という意味です。
ですので、僕としては、今回のお薬手帳を断る動き、それ自体は悪いとは思いません。ただ、お薬手帳を断る人も、自分が処方された薬の名前と量が、きちんとわかるように記録を取るようにしてください。メモ書きでもかまいませんし、薬袋や薬の説明書きの紙をとっておいてもかまいませんし、それらを携帯電話などで写真にとっておいてもかまいません。もちろん、お薬手帳を持ち歩いて頂いても、かまいません。
逆に言えば、もし、きちんと薬の履歴情報がわかるようにさえしていただければ、お薬手帳を持っていても、いなくても、どちらでも構わないと思ってます。
さて、お薬手帳の代わりに、僕自身が自分の患者に薦めているのは、受診した後に、お薬手帳に貼るシールか、医者からもらった処方箋を携帯電話で写真をとって残しておくことです。
しょっちゅう病院にかかる人であればともかく、半年に一回程度しか受診しない人の場合、かなりの確率で、お薬手帳を紛失します。また、受診するときに、手帳を忘れてくる人も多いです。しかし、最近は、携帯電話を忘れて外出する人はあまりいません。いまどきのスマートフォンであれば、機種変更しても写真などは同期できますから、スマートフォンは、履歴を残すには丁度いい端末だと思っています。
ちなみに、薬歴管理のためのスマホアプリなどもたくさん出ていますが、そういうものは、あまりおすすめしません。どうせ、複雑な機能などは必要ないことが多いですし、そういうアプリは、機種変更時になどにデータを移行するのも面倒です。薬の名前と量がわかる写真さえ、きちんと保管できれば十分です。
ご参考になれば。
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