2016年7月2日土曜日

石田智秀さんの著作について

昨年11月、友人の僧侶の石田智秀さんが「浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない 」という本を書きました。電子書籍なのですが本当に良い本です。石田さんは、浄土真宗の僧侶なのですが、今回の本は、浄土真宗の「信心」について、石田さんが法話でお話した内容をまとめて書籍にしたものです。
法話という言葉からイメージされる堅苦しいものではなくて、なんというか、若々しく青臭く悩む石田さん自身のお坊さんになるまでの青春ストーリーを信心というテーマでまとめた本です。
北海道のお寺で、お寺の跡継ぎとして育てられた石田少年は、成長するにつれ、自分のお寺の宗旨である浄土真宗の教義が分からないと感じるようになります。とくに、その教義の中で大事だとされている「信心」という言葉がさっぱりわからないのです。しかし、お坊さんになれば、自分の宗旨について分からないなんていえません。分からなくても、お坊さんであれば、立場上、自分の宗派の教えくらい分かったふりをしなくてはならない。自分で分かりもしない教えを大事にしているふりをしなくてはならない。そんなお坊さんになることが嫌な石田少年は、やがて、お坊さんではなくジャーナリストになりたいという夢を持つようになり、上京。早稲田大学に入学します。しかし、ジャーナリストになるはずだった上京後の石田少年の関心は徐々に変化していき、悩み、そして、やがて、あるきっかけで、むかしわからなかった浄土真宗の教義の意味に気づくのです。

実は、私、出版の前に、石田さんからこの本の原稿を見せられ、意見を聞かれました。
一読して、浄土真宗の信心のわかりにくいところをわかりやすく説明している良い話だったと思ったのですが、これを電子書籍で一般に売ると聞いて、正直、少し、困惑しました
というのは、これまで浄土真宗の教理に触れたことのない人には、この青春のストーリーを読んでも、石田少年が何を悩んでいるか分かりにくいのではないかと思ったのです。

そこで、石田さんに、言いました。
この本は、どのような人を対象に書いたのでしょうか?「私」(*作中の石田さんのことです)と同じように、何度も子供の頃から信心について聞いているのに、信心がわからないと悩んでいる人でしょうか?それとも、もう少し広く、子供の頃から「私」ほどには法話も聞いておらず、真宗の「他力の信心」を日本語の日常語で言うところの「信じる」ことと同じようなものと誤解している人たちでしょうか?
前者の人をターゲットにしているつもりであれば、以下、気にされなくて結構です。ですが、おそらく、kindleで出せば、後者の読者の方がずっと多いと思います。そして、残念ながら、後者の人の多くには、若い「私」が何に悩んでいるのか、よくわからないのではないかと思います。そういうひとのために、子供の頃からの「私」が信心とは何だと聞いてきたか、そしてそれは世間で言う信心とはどう違うか、文章の初め頃、4ページ辺りか、あるいは、文章の半ばほど、8〜9ページあたりで、一度まとめられてはいかがでしょうか?
真宗の信心というのは、世間で、普通に考えられているような意味での「信じる」こととは、随分違います。
世間では、占いやおまじないなど、科学的に証明できないことや不思議なこと、よくわからないことなどを信じたり、そういう物の価値を認めることを「信心」と言うことが多いです。原稿中で、占い好きの女性が出てきますが、当然、そういう人は、自分で好きで選んで、そういうものを大切にする人生を歩んでいるのです。あるいは、強い「信心」を得るために、山の中で修行したり、断食したりする人もいます。また、宗教を、道徳などと似たようなものと思っている人も多いです。そういう人は、たとえば、国や公共のものや伝統を大切にする心とか、親や目上の人に対する尊敬の心とか、「信心」をそういうものに近い「良い」ことと思っています(もちろん、信心は、「わるい」ことではないのですが)。
キリスト教などの「信仰」や、最近流行りのマインドフルネスは、これらに比べると真宗の「信心」に近いと思いますが、これらは、普通の日本人には異文化であり縁の遠い概念です。そして、世間でいう「信じること」が「信心」だといままで聞かされてきた人、つまりは普通の日本人の多くには、「私」が何に悩んでいたのか共感できるための基礎知識がないのではないかと思うのです。
「私」が、浄土真宗のお寺の跡継ぎとして生まれて、しかし、お寺の宗旨である浄土真宗を信じられなくて、それで悩んでいるというのは、おそらく、皆にわかるでしょう。でも、「私」が、信心とはなにかわからなくて悩んでいるというのは、かなり分りにくいのではないかと思うのです。なぜなら、そういう読者にとって、「信心」といえば、なにか道徳的なことや神秘的なことを信じることに決まっているからです。
「信じるというのは、要するに、そういう曖昧だけれど大切なことを一生懸命自分に言い聞かせて信じこむことに決まっているではないか、それがどういうことかわからんというのは、何やら難しい哲学を語っているように見せかけて、要するに、お寺のお坊ちゃんのワガママであろう。正座するのが嫌だったり、辛気臭い葬式が嫌だったりするのだろう。若いうちは、そういうものだからな。それを我慢するのが信心ではないか。伝統を大切にする心ではないか。」
そういう感覚の人は、たぶんものすごく多いのです。
今から読み返すと、随分、失礼なことを書き連ねています(石田さん、本当にすみませんでした)。石田さん、えらく気にされたようで、ほぼ出来上がった原稿を、また書き直しさせる羽目になってしまいました。
上で書いたように、浄土真宗では「信心」というものを非常に大事にするのですが、この宗派で言う「信心」というのは、世間一般で言う「信じる」とか「信心」という言葉とは、少し、意味合いが異なります。
普通の現代語では、「信心」という言葉は、なにか、神様とか仏様とか占いとかなんでもよいのだけれど、そういった、神秘的でよくわからないけれど大きな力を持った「ハイアーパワー的なもの」の存在を信じるという意味合いで使われます。しかし、浄土真宗では、信心という言葉に、そういう意味合いはあまりないのです。
これは、なにも、浄土真宗が宗派独自の特殊な言葉遣いをしているからというわけではありません。私は、実は、この、「信心」という言葉の誤解は、浄土真宗にかぎらず、ほとんどの日本仏教の宗派につきまとう問題ではないかと思っています。日本仏教の多くの宗派は、平安時代から鎌倉時代のお坊さんたちが見出した教えです。当然、その教えは、平安~鎌倉時代の語彙で書かれています。鎌倉時代には、それらの言葉は、多くの人にわかりやすい普通の言葉だったのかもしれません。しかし、言葉は生き物です。おそらく、長い時間をかけて、多くの言葉の意味が変わってしまったのでしょう。当時の言語での「信」という言葉の意味と、現代語の「信じる」という言葉の意味に大きなズレがあるのです。(**)

では、仏教における、「信心」というのは、どういう意味なのでしょうか?

それは、この本を読んでください。

残念ながら、この本を読んでも、信心の意味は、今ひとつ分からないかもしれません。この本は非常にわかりやすい良い本ですが、それでも、信心というのは、誤解されやすく、わかりにくい概念です。多くの人にとっては信心ということの意味が分かるには、「え?そんな簡単なことなの?」みたいな一種の気付きのような体験だと思います。

でも、たとえ、信心の意味がわからなくても、この私の拙い文章をここまで読んでくれた人ならば、この本は、まず、読んで後悔はしません。石田さんの文章は、軽妙なリズムで楽しく、私などの文章よりずっとわかりやすい文章ですから。

おすすめの一冊です。

(**)個人的には、「信心」という誤解されやすい言葉を使う代わりに、もっと現代人に誤解されにくい現代語の訳語を当てるべきではないかとは思います。たとえば、同じ概念を表すのに、「気づき」とか「きれいな心」というのはどうでしょうか。

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